バレンタインデーに友チョコじゃ嫌だ。
手袋もコートも手放せないぐらい春はまだ遠いのに、ヒーターがまだついていない教室の中は、熱気のこもった小さなコロニーがいくつも形成している。
朝の朝礼が始まる前、女子が教室に入るとカバンの中から赤のテープでラッピングされた袋を取り出して見せ合いっこ。袋の中は、市製品、溶かして再度固めたハートのチョコ、カップケーキ。黒いお菓子の甘い甘い匂いが漂ってくる。
二月の十四日。好きな人への想いをチョコの中に閉じ込めて、女の子が一番ときめく時期と言われる日。
でもこんな日、真冬の太陽で、みんな溶かしてしまえばいいのに。みんな、みんな、潜んでいるもの全部溶けてしまえ。エツちゃんが「いよいよ明日だね。チョコ見せ合いっこしようよ」とかいって適当に「だね~」と相槌を打ったけどこんな日は来なければいい。だってわつぃが送りたい人に、私の気持ちが伝わらないのだから。
私が自分の席にカバンを置いてマフラーを取ると、もっちりとマシュマロみたいに膨らんだ頬の肉がオーブンで焼いたように赤くなっているエツちゃんが私の机に走り寄ってきた。
「フミカちゃん、今日持ってきた? あれ」
「そういうエツちゃんは?」
「持ってきたよ。はいチョコ」
エツちゃんがカバンから赤い紙の袋に包んだ物を見せてきた。「開けて開けて」と急かされるがままに、閉じていた金のビニタイを緩めると黒と白が一つになったものが底に落ち込んでいた。
チョコクッキーだ。アルフォートのようにクッキーの上にチョコを固めたものだ。一つ口に入れるとサクサクと砕けてかかっていたチョコが舌を甘く染め上げていく。全部食べてしまうと私はほろ苦く感じた。エツちゃんのチョコがとてもおいしくて、私は負けてしまった。
「エツちゃんのおいしい!」
「でっしょ~、cookpad見ながらだったけどうまくできてよかった。フミカちゃんのも見せてよ」
エツちゃんが目を輝かせてバッグの中にあるチョコに視線を送った。私がカバンの中に手を入れると、大変だという顔をつくった。
「ごめん。チョコたぶん家に置き忘れたみたい……」
「えー、ショック。フミカちゃんのチョコも楽しみにしていたのに。ケイ、ケイ。ちょっとこっち着て」
廊下を歩いていた隣のクラスのケイを呼んで教室に入れると、ケイは何も言わずにコートのポケットから白い袋を取り出した。
「やっぱりエツも学校に持ってきたんだ。じゃあわたしの友チョコどうぞ」
「サンキュー、ケイはチョコマシュマロでしょあたしこれ好き」
エツちゃんの手と同じぐらい真っ白なマシュマロが半分かじられると、エツちゃんは手を頬に当てて甘い甘い感触をまるで今まで食べたことのないものを食べたかのように満足げだ。エツちゃんが食べたマシュマロの中から、真っ黒な液体がこぼれてきた。黒い中に内包された優しい甘さ、それを優しいマシュマロがもう一つ重なってとてもとても優しい。まるでエツちゃんのようだと思った。
ケイが机の上に腰かけて、持ってきた袋を広げた。エツちゃんはお返しにとマシュマロの中にチョコクッキーを置いて、白と黒のモノトーンが蛍光灯がついていない陰気な教室の中を鮮やかに色を放っている。
一堂に集まったモノトーンの集合体を私たちは写真を撮った。
丸と四角の形を変えたチョコレート。携帯の写真からでも伝わってくる甘美な匂い。でもそこからは甘さだけがあるだけで、甘さの中にある苦さはない。内包したいときめきはない。どうしてみんな友チョコでときめきを済ませてしまうのだろう。
私はマシュマロを一つ摘まみながらそう考えると、同時に口に出てしまった。
「なんか、バレンタインなのに女子だけに渡してばっかりでいいのかな?」
「だってさ。はずくない? 男子に渡すの。義理チョコでも周りに囃し立てられたらたまんないし」
「まじ~、俺ちょーかなし……」
ケイがチョコクッキーを丸ごと口の中に入れると、隣で顔を伏せて寝ていた男子ががばっと起き上がって、不貞腐れながら背もたれに寄りかかる。「女子からチョコくれねーとかつまんなくねー」と男子は言うが、彼の言うことは一部だけ同意だ。
バレンタイン、女の子が好きな子にチョコレートを渡す日。今まで隠していた心の苦みを甘いチョコときれいな赤い包みの中に隠して、相手に渡してその気持ちを代弁してくれる。でもみんな友チョコで済ませてしまう。私は友チョコじゃ嫌。それはバレンタインデーじゃない。
でもきっとこの男子は違うと思う、ときめきとかを期待しているのではなく、女子から物をもらえる甘い考えが明け透けに見えている。もちろんケイはすでにお見通しだ。
「あんたにやる分は義理でもないよ」
「女子からもらえるだなんて無理だろうね」
「二人ともけちんぼだね。チョコ欲しいんなら、あたしのあげる」
エツちゃんが男子のぽっかり空いた口の中にチョコクッキーをお賽銭のように投げ入れた。男子はたかが一つだけやっただけなのに目を潤ませて感激していた。
エツは優しい。やはり優しい人間でないと、チョコレートは美味しくできないのだろうか。
私にはエツちゃんのような優しさを持つことも素直さもない。男子にもつんけんして、気持ちをいつまでも伝えきれずにいる。ましてや本命にやる分だなんて……心にとどめておくしかできない。
「おっすオハヨ」
朝礼まで五分前というギリギリの時に、バッグを肩に下げながらユウキが入ってくると、口の中が苦くなる。苦しくなる。表面の薄皮で取り繕っても、ユウキを見るたびに心臓は隠してはくれない。
私の中に内包された恋という苦味。何度も何度も味わったときめきは、生理の日が来たみたいに私の心をいつも苦しくさせる。どうして私のときめきはこんなにも苦しいのだろう。ほかの人はこんなに苦しく感じるのだろうか。
「ユウキ、こいつら男子には一つもやんねぇって言うんだぜ。ひどくね?」
「別にいいじゃん。むしろお前にあげる奴がいたら見てみたい」
「こいつ、もらえない立場の気持ちも知らないで……」
「ちょっと、ユウキに当たんのはみっともないわよ。男の株が下がるわよ」
ケイの言葉にみんな続いてくすくすと、けらけらと笑った。その合間を縫うようにエツがユウキの笑っている口の中にチョコを投げ入れると、みんな笑った。私は薄く赤い唇で笑いをつくる。
笑えない。
ユウキは、毎年チョコをもらっている。けどそれは友人、義理などが込められたチョコだ。私のとは違う。だって私のは義理でも友達だからでもない。
私はユウキに恋している。だから私がユウキに渡す物は本命だ。けど、ユウキはそんなことまったく気にしない。というより、どれが義理か、友チョコか、本命かを識別するのは難しい。それほどユウキがもらっているチョコは多い。
私は送ったチョコが友チョコと思われるのはいやだ。だけどいっぱいのチョコの中に『あなたが好きです』とラブレターを入れるような大胆なことができない。ずっとそのもやもやした思いを抱いたままだ。
チャイムが鳴ると同時に、先生がまるで鳩時計のようにきっかりと教室の扉を開いて顔を出した。
チャイムが鳴ったのを合図にみんな一斉に散開して、自分の席に、教室に戻っていく。
教室は、先生のチョークがこすれて削れる音が響いている。
みんなの目線はてんでバラバラで、左の窓に、上の天井に、下の机に、私は前のユウキのうなじを向いている。ユウキは古典の授業が気だるそうで、あごを手の甲に乗せている。もし私がユウキの隣の席にいるならそのあごを私が代わりに乗せてあげたい。
ここからユウキの席までたった二席分。ユウキとの距離は足を数歩だけ出せばすぐに届く距離なのに、私とその体の距離はとても遠い。こっそり隠していた手鏡の中にユウキの顔が入り込んで目の前にあるけど、あの人の視界には私には入らない。距離は相変わらずで、とても遠く感じて苦しくなる。
声に出してユウキに言いたいけど、そんなこと受け入れてくれるわけないのを私は知っている。ユウキにとって私は友達ぐらいにしか認識されないんだ。
凍てついて白く曇った窓を見ると、この間の日曜日のスーパーでの出来事が想起された。
大寒波でスーパーの大きな窓ガラスがスモークで覆われたかのように真っ白になった日。店内はバレンタインデー商戦のため赤と黒に染まって、入り口には大量に仕入れたチョコの砦が築かれていた。エツちゃんは砦の赤レンガを一つ手に取ってウキウキしていた。
「フミカちゃんは、マーブルチョコが好き? それともチョコがかかった方のチョコクッキーのほうが好き?」
「チョコクッキーの方かな。エツちゃん、はしゃぐのはいいけど勢いあまって食べちゃダメだよ。それまだ買ってないんだし」
「あたしを躾のなっていない犬みたいに言わないでよ」
エツちゃんが文句を言うと、手に取ったチョコの包装からパキっと恐ろしいほど気持ちよい割れる音が聞こえた。あ~あ、それお買い上げだ。エツちゃんは責任を持って割ったチョコを籠の中に入れると、私たちはお菓子コーナーに歩いて行った。
お菓子コーナーに入ると、棚にぶら下げられた赤い装飾がより眩しく飾られて目を伏せてしまいそうだった。特に目を引く『大切な人に送ろう』というロゴ。ただ購買意欲を引き立てるだけのスーパーの広告戦略なだけなのに、その言葉は私を深く傷つけた。
大切な人――私がユウキにチョコを送って私の気持ちが伝えられることができないことを知らないで……去年もユウキにチョコを渡したが結局気付いてもらえなかった。やはりユウキは、この潜む思いを理解してくれなかった。私は幾度もこの思いをいっそ溶かして見ようとしたが、凍ったままの方が心地よく感じてしまう。むしろ溶けてしまった時の拒まれてしまう怖さが、私を氷の中に閉じこもる原因かもしれない。
すると、コーナーの奥の方でケイが携帯を操作しながら籠を肘で持ち、棚を漁っているのが見えた。こっそり後ろから近づいてケイの肩を指でちょんと突いた。ピクっとケイの肩が震えると、ようやく私たちに気付き携帯をしまった。
「二人もバレンタインデーのチョコ買いに来たんだ」
「ケイ、それマシュマロ? ホワイトデーは来月だよ」
「中にチョコが入っているんだよ。私はつくるのが下手だし、買った方が確実に外れなし」
ケイが手に取って籠に入っていたチョコマシュマロの袋を見せつける。
「あたしは、チョコとなにかと合わせてつくる予定。期待しててね」
「二人ともネタバレしちゃつまんないでしょ。もっと、送る人の気持ちにサプライズするとかないの?」
「あはは、乙女だねフミカ。でも私は友チョコでいいかな、なんか堅苦しいし」
「あたしは送る予定だよ。お母さんとお父さんに。お返しのホワイトデー楽しみだな」
「エツは恋より食べ物か」
バレンタインデーっていつから女の子がチョコを送る日になったんだろう。そしていつから、好きな人に送ることが堅苦しいことと思われるようになったのだろう。
私は幼稚園からずっと好きな人に送る考えで渡してきた。でも相手はそれに気付いてくれなかった。それでも私はしつこく毎年のように好きな人にチョコを送った。小学校、中学校と年が上がっていくうちに、私はいつの間にか気付いていた。それは気付いてもらえられない恋であると。
どうしてこんなことを考えてしまったのかって? 私は見てしまった。ケイの携帯の画面に手づくりチョコの作り方の画面があったのを。あの黄色いcookpadの画面はしっかりと私の網膜に張り付いていた。
スカートが震える。四時間目の授業に入って初めての携帯が鳴った。幸いにも先生は気付いていないようでこっそり机の中でスマホを開くと言葉がびっしり埋められていた。
『速報! ケイ、男子にチョコ渡した!!』
『まじ!?』
『相手誰? 結果は? 轟沈? 大戦果?』
友達のグループラインにケイに関する話題でびっしり。勝手気ままに誰に渡したかを予想したり、まだ返信してこないケイに質問してきたりとあっという間に彼女は話題の中心だ。
羨ましい。ずっと隠していた恋を、ケイはこうして晒されることも臆さずにチョコに思いを託して告白したのだから。
私は机の中で教科書の上で眠っているチョコを引き出した。でも私の場合はエツちゃんのような包み隠さない優しさも、ケイのような隠した思いを曝け出す大胆さもない。相手がユウキだとみんな知ったら、私の秘密にみんな肩を落とし、そして噂されるだろう。そう思うと、口の中の苦さが、胃にまで届いて締めつけられるようだ。
赤でラッピングされたチョコの表面のざらつきを触ると、冷たいため息と締め付けられる感情で支配される。少女漫画では、恋は温かくて優しいもののはずなのに、全く正反対だ。やはり私にはこの恋はできない。
お昼休み、みんなが教室から購買部へと短距離走をしている間に私は一人、トイレに走っていた。授業がすぐに終わったばかりだからか、トイレの中には誰もいなく寒々しい風が私の足元から体を冷却させた。
やっぱり私にはこの恋を溶かせそうにない。きっと笑われるだけ。そんな危うい思いで毎年欠かさず渡していたチョコの運命をここで決めようとしていた。ぽっかりと洞窟のように空いたゴミ箱。もう悲しく苦しい恋は続けたくない、捨ててしまおう。苦いバレンタインは今年でお終い。
手の中に包んでいた箱を水を流し込むように手を器にして、ティッシュと生理用品の澱んだ血の匂いが沈殿するゴミの箱中に落とそうとした。
「フミカ、それ捨てるの? もったいない」
外から洩れて聞えていた生徒の声が一瞬聞こえなくなった。代わりに一人の人の声だけが反響して聞こえてくる。ユウキがトイレのタイルを小さく鳴らしながら入ってくると私は驚いて、思わずチョコを胸の中に戻してしまった。
「いらないんなら、ちょうだい」
「あっ……うん」
ユウキが出してきたその細い手に、私はおずおずと捨てるはずだったチョコを素直に差し出してしまった。
とても気まずかった。ユウキが丁寧に包装された箱をしげしげと見て「よくできているな」と言うが、違うのあなたのために頑張ってラッピングしたの、あなたの口に合うようにブラックチョコとミルクチョコの配分を考えて配分したの。でも今ユウキの手に持っているものは、あなたに渡すためのものでなくなった。心の内に秘めたものを込めて渡すはずだったチョコは、振られて捨てるはずだったものがもったいないと譲られた哀れなチョコに成り下がってしまった。
だから気まずい。
すると、ユウキがポケットに手を突っ込んでリボンの紐がついた板チョコが出てきた。
「ほら、チョコあげる。毎年フミカがチョコ送ってきたから今年こそはお返ししないといけないと思ってさ。今日はそういう日だし」
ユウキが渡してくれたのは、どう見ても市販のものをそのままラッピングした手作り感ゼロのものだ。
「悪いね市販のもので。でもフミカだけにしか渡してないから」
その時だった。私の冷たく冷やされた心が体が融解してきた。まるで南極の万年氷が海に落ちていく時の静けさのような、私だけの世界に落ちていった。外で何気なく遊んでいる生徒の声も、ケイが誰に渡したかを紛糾する声も何も聞こえない。
渡されたチョコを手元に持ってくると、ほんのわずかだけどユウキの芳りが漂ってきて、チョコの匂いと共に心が甘く感じてドキドキしてくる。
女の子が大切な人にへと送る大切な日。私は初めて好きな人に贈られたことへの温かさに、その甘美さに身を委ねていた。
「私好きだよ。ユウキのそんなとこ」
やっぱり私は素直じゃない。根性なし。と頭の中で自分を叱責した。
ユウキはスカートのポケットの中に私のチョコを入れてトイレから出ていくと、私も同じ場所のポケットにしまっておいた。
どうかまだ私の心を溶かさないでほしい。今は自分の中にだけ留めておきたいこの温かく優しい気持ち。きっと誰も理解もできないだろう。ユウキも含めて、みんな。
――同じ体の人に恋することを。