後編
アレンたちは、アライグマたちよりも一足先に、池についていた。そこは紛れもなく大蛇が‘水神様の池’と言っていた場所でありまたリスたちが‘ドングリ池’と呼んで聖地にしているその場所だった。
一足遅れてアライグマがやってくると、クマは、ほうっと胸をなでおろした。アレンは池の前に、杖に寄り掛かるようにして立っていた。手にはドングリを持っている。アレンはアライグマの声を聞くと、芝草の上に膝をついて、手を出した。アライグマは、アレンの指先に鼻をつけた。アレンは、アライグマを抱き寄せた。
「アライグマ君、もう会えないかと思ったよ。大丈夫? 怪我はない?」
「あったりめぇじゃねぇか。それよりも、お前は大丈夫なのかよ」
「うん」
アレンは頷いた。
「いや、ホントを言うと、かなりヤバかったぜ。こいつがいなかったら、やられてたかもしれない」
そう言って、アライグマはキツネの鼻先に自分の鼻をくっつけた。
「私はキツネです。トラは、今夜はもう追ってこないでしょう」
キツネは、アレンの指先に鼻をくっつけた。アレンはそれを頼りに、キツネの背中を撫でつけた。
「ありがとう。僕の友達を助けてくれたんだね」
キツネは目を細め、アレンの感謝を受け入れた。
それからアレンは、アライグマを抱いた時に思わず足元にばらまいてしまったドングリを拾い上げ、握りしめた。杖に寄り掛かりながら立ち上がり、泉に向き直る。投げるのをためらうアレンに、アライグマは声をかける。
「大丈夫さアレン、さっさと願掛けして、病気なんてなおしちまおうぜ」
アレンは頷いた。
それから大きく息を吸い込み、思い切りドングリを放った。ドングリはふんわりと半月の軌道を描き、星空の映る水面に落ちた。水鏡の夜空に微かな波紋が広がった。アライグマたちは、じっと、ドングリの落ちたあたりを見つめていた。
やがて、ドングリが浮かんできた。
ドングリは、ふゆふよと池中を漂い、そのうち、アレンの足元の水縁に漂着した。他には何も起きなかった。スズムシの合唱、コオロギのふんわりした翅音、マツムシの不安そうな音色……池はただ静かに、夜空を映し出している。
「諦めるのは早いぜアレン、ドングリはまだある。リスも言ってただろ、これだけあれば一個くらい願いの叶うドングリもあらあな!」
アレンは、残りのドングリを全部池に放り投げた。
しかし結果はすべて同じだった。
「どう?」
アレンは、アライグマにたずねた。
「ダメだ……全部、浮かんで、戻ってきやがる」
ドングリは投げた先からやがて浮かんできて、水面に漂いながら、アレンの足元に帰ってくる。アレンは結果を聞いて、その場に座り込んだ。クマはアレンにかける言葉を見失い、大蛇は顎をあんぐり開けて放心している。キツネは悲しそうに、アレンの黒くなった首筋を見上げた。
アライグマは池に向かって叫んだ。
なんで、なんでだよ! 人間だから助けないのか! まだ子供じゃないか、狩人とは全然違う、優しい人間じゃないか。病に侵されながら、目も見えないのに、大人でも怖がるこの森に一人でやってきた勇敢な男の子じゃないか。そんな人間を、なんで助けないんだ、神様!
アライグマは泉を睨みつけ、星々を睨みつけ、月を睨みつけた。
そしてその全部に、馬鹿野郎と叫んだ。そんなアライグマを、アレンは抱きしめた。
「ありがとう、アライグマ君。でも、しょうがない。死ぬのは怖いけど、しょうがないよ」
アレンは池を見つめたまま、言った。
キツネは、少しは熱が下がるように、楽になるようにと、ドングリを煎じたお茶をアレンに出した。竹筒に入った冷たい茶を飲んで、アレンは仰向けに倒れた。もう、体が熱いのかどうかもわかなない。足や手が動くかどうかも分からない。
「――でも、アライグマ君たちに会えてよかった……」
アレンは、独り言のようにつぶやいた。
死んだとしても、この体がまた、この森の力となって、土となって生き続けるなら、それはいいことなんじゃないか。アレンは、ぼんやりとそんなことを思った。
アライグマはその夜、アレンの胸の上に蹲って泣いた。
朝起きた時、アレンが冷えないようにそうしたのだった。アレンが死んでしまったら、フクロウに火の起こし方を聞いて、ちゃんと火葬してやろう。人間でも身分の高い人間は、そういうふうにする習わしがあるときいていた。それから骨は、アレンの故郷の街に届けてやろう。
そんな思いを胸に抱きながら、アライグマは眠りに落ちた。
トック、トック、トック。
アライグマは、小さく脈動する揺れに揺られて目を覚ました。目を覚ますと同時に、アレンの顔を覗き込んだ。
「生きてる……」
アライグマは、アレンが確かに息をしているのを感じた。
次に空を見上げる。
朝だ。朝まで生き残った。
アライグマはアレンの胸の上をくるくると落ち着きなく回り歩きして、何度もアレンの顔を確かめた。血色が良くなっている。そしてふと、昨日は喉まで来ていた肌の黒色が、もとの黄褐色にもどっているのに気が付いた。
アライグマはアレンの手や足も観察した。
黒色が、なくなっていた。
アライグマはアレンの額に鼻先をくっつけてみた。
あれほどまでに高かった熱が、すっかり下がっている。
「アレン、アレン!」
アライグマは思わず、アレンを起こした。
アレンは上半身を持ち上げた。その拍子にアライグマも転がり落ちるが、すぐに態勢を立て直して、アレンの腿に乗っかった。
「治ってる、治ってるぞ!」
アレンは最初は何のことかわからず、欠伸をしていた。
しかし、昨日までは真っ暗だった視界が、今日は白っぽいことに気が付いた。体のだるさも、熱も、なくなっている。アレンは立ち上がった。よろけることもない。
「よし! いいぞ! アレン、目はどうだ?」
「うん、ちょっと明るいのが分かるけど、まだ見えないな」
「そうか、いや、大丈夫だ、それもきっと良くなる」
アライグマはそう言うと、クマとキツネ、それから、穴の奥に隠れた大蛇を起こして回った。皆、アレンが生きていることにまず驚き、そして、病気が治っていることにさらに驚かされた。それからアレンは、近くの木にとまってうたた寝をしているフクロウにドングリをぶつけた。フクロウは何事かと翼を広げて、わさわさと羽ばたいた。
「おう、フクロウ! 見てみな、この子を! どうだ、治ったじゃねぇか! 何が明日、明後日の命だよしゃらくせぇ! 暗黒病の野郎め、ざまみろ!」
ぴょんぴょん跳ね回るアライグマ。
フクロウはアレンを見て、今度こそ目を覚ました。
「ホー、本当に治っているじゃないか」
「学者先生もこれは知らなかっただろう。この池には神様がいるってな!」
「神様か……」
フクロウはふと、そこにキツネがいるのを認めた。
浮かれてはしゃぐアライグマは置いておいて、フクロウはキツネに質問した。
「キツネさん、何か薬を飲ませましたか? キツネさんは、薬の調合が上手と聞いていますが」
「飲ませました。でもそれは、痛み止めの薬水です」
「それは、いつも使っている薬水ですか?」
「作り方は同じです。でも、味を良くするために、リスたちの好物、ニジドングリを入れました。イチゴのような味がして美味しくなりますから」
フクロウは頭をぐる、ぐると回転させて、それから言った。
「もしかすると、それかもしれない。人間は狩りの為にこの森に入ってくることはあっても、ニジドングリを拾って帰ることはないだろうからね。それが暗黒病に効くなんて、夢にも思わないだろう」
フクロウの話を聞いて、アレンは、そうに違いないと確信した。
「そうか、水神様は教えてくれてたんだ……。昨日ドングリを投げた時、ドングリが全部僕の足元に戻ってきたって言ってたじゃないか。あれは、そういうことだったんだ。水神様は、僕に教えてくれてたんだ。ドングリが、答えだったんだ……」
アレンの言葉を聞いて、皆顔を見合わせた。
なるほど、そうだったのかと頷きあう。
「おいフクロウ、アレンの目は、また見えるようになるのか?」
「なるだろう。だがその時は――」
フクロウは嘴を閉じ、アライグマをじっと見つめた。アライグマは、フクロウの言わんとしていることがわかった。
「よし、アレン、町にはまだたくさん、暗黒病の連中がいるんだろう?」
「うん」
「急ごう!」
クマはアレンを背に乗るように促した。キツネは、ドングリを集めて笹の袋に入れ、その袋をアレンに渡した。
「私は体力がないから、クマさんの速さにはついていけません。アレンさん、ここでお別れです。でもきっと、また会える日も来るでしょう」
「うん。ありがとうキツネさん、元気で」
クマはアレンを乗せて、てっぽう水のように走り出した。
「お元気で」
遠ざかってゆくアレンの背中を、キツネは見送った。
クマは、イノシシのように速かった。そして、力強い。
細い木などはなぎ倒し、倒木をへし折りながら進んだ。僕が必ず、この子を無事に送り届けるんだ。折角助かった命を、絶対に守るんだ。クマは心の底から使命感を滾らせていた。
しかし、つり橋までもう少しという所で、見覚えのあるシルエットが、アレンたちを待っていた。トラだった。根っこから解放されたトラは、すでに怒りに満ちていた。白いひげがむずむず動いている。空腹の時のトラの仕草である。
「昨日はよくも恥をかかせてくれたな」
「勝手にかいた恥だろうよ! 恥の上塗りって言葉知ってるか? 今からそれを教えてやらぁ!」
アライグマは啖呵をきって、トラの前に出た。
しかし、トラの怒りは本物だった。
グワオオオオオオ――。
咆哮を上げると、木々は震え、葉は落ち、地面が振れた。残響が何度も何度も木々の間をこだまする。鳥たちが一斉に飛び立ち、中には気を失って、枯葉の上に落ちるのもいた。アライグマも、圧倒的なトラの怒気の前に吹き飛ばされて、ころんころんと転がった。
「俺は、人間に用がある。おいクマ、そいつを渡せ」
ぎらつく黄色い目がクマを睨みつける。
クマは、アレンを降ろした。
「おいクマ、てめぇ――!」
アライグマは、クマが臆病風に吹かれてアレンをトラに引き渡すのかと思ったのだ。しかしそうではなかった、クマは、アレンの頬をぺろりとひと舐めすると、鼻をアレンの両方の頬に撫でつけた。
「僕がトラを追い払うよ。君は、帰るんだ」
「でも――」
「大丈夫。ここでお別れだけど、きっとまた会えるよ。元気で」
クマはそう言うと、のっしのっしと、トラの前に出た。
「なんだ、聞き間違えか? 誰が、誰を追い払うって?」
トラは、爪をぎらつかせた。
しかしクマはひるまなかった。
「僕が、お前を追い払うんだ」
「お前が俺を前に冗談を言う日が来るとはな」
「冗談じゃないぞ」
「なんだと?」
冗談じゃない、とクマは二足で立ち上がり、声を上げた。
それは、凄まじい咆哮だった。
木の幹はしなり、枯れ草は舞い上がり、気を失っていた鳥が息を吹き返して飛び立った。
「行くんだ、アレン!」
トラの脇を、アレンたちがすり抜けてゆく。
しかしトラは、クマを前にして、一歩も動くことができなかった。今やトラのヒゲはカチカチに緊張し、尻尾はぴんと張り詰め、爪を大地に食い込ませて立っているのがやっと、という風だった。クマとトラはしばらく睨み合っていたが、やがて、トラはそそくさと森の奥へと逃げて行った。
森を駆け抜け、アレンたちはやっとのことでつり橋の前にたどり着いた。
深森と浅森を繋ぐつり橋は、すでに崩れ落ちていて、渡れる状態ではなかった。しかし最初からアライグマは、そのことを知っていた。
「ヘビ公――」
ヘビは頷き、此岸の淵からにゅっと頭を突き出した。そのまま、まるで水面を渡るときのように、宙に体を泳がせ伸ばし、彼岸の淵をぱくっと噛んだ。ヘビの一本橋の出来上がりだ。
「もう眼は、見えるのか?」
「ぼんやりと」
「そうか、良かったな」
アライグマは答えた。
アレンは膝をつき、アライグマを見つめた。目はまだはっきりとは見えないが、そこに、アライグマがいるのだけはわかった。アライグマはアレンの脛に体をこすり付け、アレンを見上げた。
「ほら、町の連中が待ってるんだろう」
「うん」
アレンは立ち上がり、ヘビの橋に近づいた。もう一歩歩み出せば、後戻りはできない。
アレンは踵を返して、アライグマを抱きしめた。その腹に顔をうずめる。
「もう会えないかもしれないけど、君は、ずっと僕の友達だよ」
アレンはそう言うと、アライグマをそっと地面に置いて、ヘビの橋に駆け出した。踏み外したらまた、川に落ちてしまう。しかし、もうアレンには、そんな恐怖はなかった。涙をぬぐうと、目はすっかり、見えるようになっていた。
ヘビの橋を渡り終えたアレンは、自分の両手をまじまじと見つめた。
そして、深森の方に振り向く。
壊れた橋の横に、小さなアライグマと、大きなヘビがいた。やがて、アライグマはクゥーと一声鳴くと、ヘビと共に森の中へと戻っていった。
アレンは町に向かって走り出した。
浅森を抜け、原っぱを。雨雲の切れ間から光が差し込み、アレンの頭上の青空には、鮮やかな正転の虹がかかっていた。そのアーチの下をアレンは駆け抜けてゆく。
今も玉座にかけられた ケヤキの杖を見てごらん
つり橋はもう無いけれど 友情橋は永遠に
逆さの虹とドングリの 昔話はこれまあで
ヒーヒー ヒヨヒヨヒヨ