前編
逆さ虹は災いの兆し 逆さの虹が浮かんだら
森へ行け 森へ行け 逆さ虹の森へ
ワタリガラスは見つめる 男の子がつり橋を渡るのを
ぼやけた視界 細い足 非力な王子はついに足を踏み外し
夜の漆黒の川に落ちていった
川は流れる 川は流れる
栗をめぐるリスたちとの小競り合いに勝利したアライグマは、戦利品のイガ栗のイガを石でかち割り、その中身を、流れる川の水で洗っていた。栗にありつけるという舌の喜びもあったが、それよりも、ひと暴れした後で気分が良かった。
「松の葉一本、俺にはそれで充分なのさ、俺のシマ見てヤマネが逃げる、食いやしねぇさ、松の葉一本、ってな調子だ」
小唄を歌うアライグマは、その時ふと、近くで小さな息遣いを感じ、川縁に目を凝らした。暗闇でもアライグマは夜目が効く。その小さな呼吸の持ち主をついに見つけた。
「人間だと!?」
しかも、よく見ればまだ子供である。
驚いて耳も尻尾もぴんと伸びてしまう。人間がこの森に入ってくることなんて滅多にない。たまに、狩人がトラ狩りに来るくらいだが、近頃はそのトラに挑む狩人もいなくなっている。川向こうの浅森と、川を挟んでこっち側の深森は、同じ森でも全く違っている。深森側の岸辺に打ち上げられた人間の子供を、アライグマは少しの間見つめていた。
「もう死にそうじゃねぇか」
アライグマは、ふんと鼻を鳴らした。
この森に入ってきて、生きて戻った人間はほとんどいない。この人間もそうなるだろう。まだ子供なのに、そんなに生き急ぎやがってと、アライグマは再び栗を洗い始めた。それでも気になるアライグマは、再び子供を見やった。
すると、いつの間にかその子供のわきに大蛇が這い寄ってきていた。その顎をがばっと開き、子供を頭から丸のみにしようとしている。
「おいっ、馬鹿っ、待て待てっ!」
アライグマは大蛇に栗を投げつけ、咄嗟に子供の元に駆け寄った。大蛇は頭に栗がぶつかっても、のぼうっとしていて、突然やってきたアライグマには警戒の色も見せない。
「どうした?」
ぼけっと答える大蛇。
アライグマは大蛇の横っ面を引っぱたいた。
「お前ってやつは食う事しか考えねぇなホントに。そんなんだから口と尻尾だけになっちまうんだバカ」
叩かれた大蛇は、もたげた首を傾げた。
口を閉じ、ちろちろと舌を出す。
「お前も食べるのか?」
「食わねぇよ!」
「じゃあ俺が食っても――」
ぱちんと、アライグマは再び大蛇を引っぱたいた。大蛇はまた口を閉じ、首を傾げた。
「なんでもかんでも食おうとするんじゃねぇよ。そのうちお前、この森ごと丸のみにしちまうんじゃねぇかと俺は不安だよ」
「食っちゃダメなのか?」
「ダメだ!」
「どうして?」
大蛇にきかれたアライグマは、言葉に詰まった。思わず助けに入ってしまったが、そういえば、どうして自分がそんなことをしたのか、理由がわからない。しかし、一旦大蛇を止めてしまった手前、引き下がるわけにもいかない。
「ダメなものはダメなんだよ! お前さんの頭じゃわからねぇから言わねぇだけだ!」
大蛇は首を傾げていたが、やがて、そういうものなのかという気になってきて、舌を口の中にしまった。アライグマは仰向けに倒れた子供の顔を、逆さに覗き込んだ。
「まずいなこれは……ヒゲが全部抜け落ちてやがる……」
大蛇も鎌首をもたげて、子供を見下ろす。
「本当だ、ヒゲが一本も残ってない」
「お前は最初っからヒゲなんてないだろうが」
「あぁ、そうだった」
二人がそんな会話をしていると、近くの木の枝から、低くはっきりした声があった。その声は、声の主を探るまでもなく、フクロウだとわかる、落ち着きはらった声である。
「人間はヘビと同じように、君と同じようなヒゲはないよ」
物知りなフクロウは、皆から先生とか学者とか呼ばれ、尊敬されている。
「おい、フクロウ。なんでこんな所に人間がいやがる」
「わからないが――その子は、ただの子供ではないようだ。着ている物を見てごらん。その袖付きマントの刺繍の紋章は、王家のものだ」
アライグマは、子供の服を鼻をつきあてて観察した。確かに、金糸の刺繍で、何やら紋章が施されている。
「なんでそんな、王だか王子だかが、こんな所にいるんだ? トラ狩りか?」
「それは私にもわからない。しかし、トラ狩りではないようだ」
「どうしてわかる」
「その子は、暗黒病にかかっている。指先が黒いだろう。呼吸もはやい」
アライグマはフクロウの言うことを確かめるため、まずその手を見た。小さな手は、その両手とも、手の平の半分あたりまで、黒炭のように黒くなっていた。次にアライグマは子供の胸の上に乗っかった。苦しそうに呼吸している。恐る恐るその額に、鼻をあてる。
「あちぃ! なんて熱だこりゃ!」
フクロウは頷いた。
「町で暗黒病が大流行しているというのを、ヒバリたちが話していた。人間にのみかかる病気だよ。まず咳が出始め、高熱、体の端から黒くなっていく……かわいそうだがその子の命も、明日、明後日だろう。明日生きていたとしても、目は明かないかもしれない」
「目が明かないって、どういうことだよ?」
「暗黒病は、最後になると、目が見えなくなるんだ」
「そりゃあんまりだろう」
アライグマは少年の胸に乗ったまま、あどけない少年の顔を見つめた。
「おい、何とかなんないのかよ。別に人間がどうなろうと知ったこっちゃねぇが、こいつは、まだ若すぎるぜ」
「まず、火でも起こして体を温めることだ。上着は濡れているから脱がせたほうがいい」
「火なんて起こせるか! まぁいいや、ヘビ公、その子をこっちに持ってきてくれ」
アライグマは大蛇にそう指示を出すと、川から少し離れた、柔らかい土の地面に走った。大蛇はアライグマの指示通り、少年の服を牙で引っかけて、アライグマの元まで運んだ。アライグマは少年の服の下に潜り込んで、布を持ち上げたり引っ張ったりして、へとへとになりががらも何とか上着を脱がせることができた。
「で、あとはどうすればいい?」
「火を起こせないとなると……テントを作れればいいのだが」
「テントって、シロアリの巣みたいなやつか」
「風雨をしのげるものなら何でも構わない」
アライグマは少し考え、名案を思い付いた。
「おい、ヘビ公、この子を中に入れてとぐろを巻け」
「え?」
「え、じゃねぇよ、そんな間抜け面じゃ、そのうち自分の毒にやられっちまうぞ。いいから早くやってみろ」
大蛇はアライグマに言われた通り、少年を真ん中にしてとぐろを巻いた。すると、見事なテントが出来上がった。夜の冷たい風も、朝方の雨も、大蛇の鱗がはじいて通さない。
「ホー、良いアイデアだね」
フクロウも絶賛した。
アライグマは即席のヘビテントの中に入った。中は少し狭いが、それでも、外と比べるとずいぶん暖かかった。心なしか、少年の表情も和らいでいる。
「だがアライグマ君、下手な希望は持たないことだよ。その子の後ろにはもう、死神が鎌をもたげている」
それだけを言い残して、フクロウは音もなく去って行った。
アライグマは少年の腹の上で丸くなった。動物の毛が人間を温めるのを、アライグマは知っていた。そして、いつの間にか眠りについていた。
鳥のさえずり。川面には朝の煙が立ち込めている。
少年――アレン王子は目を覚ました。目を覚ましたはずだったが、視界は真っ暗で、夜のようだった。それでも、周りの音や気温で、今が朝だとわかった。昨晩から王子を囲んでいた‘テント’は、朝日が昇るのと同時にその場を離れ、近くの土の中に潜っていた。
アレンが上半身を起こした時にアライグマはその身体から転げ落ち、目を覚ました。
「な、なんだ! 地震か!?」
地面に着地したアライグマは、そこで、少年が目を覚ましたのに気付いた。驚いたのはアライグマだけではなかった。アレンも、突然近くから声がしたので、びっくりした。
「誰か近くにいるの?」
アライグマは、はっとして押し黙った。人間は動物の言葉がわからない。それに、人間と会話をする動物は、森の中でもキツネくらいなものだ。
「誰か、誰かいないの?」
しかし、少年の訴えるような声に負けて、アライグマは答えた。
「ここだここ、お前の隣だよ」
どうせわからないだろうと、つまらなさそうに答えるアライグマ。
しかし、アレンには、その声が人間のものと同じようにはっきりと聞こえた。
「誰、誰がいるの?」
「おいお前、俺の言葉がわかるのか?」
「うん、わかるよ」
そう答える少年の目は、明いていない。アライグマは、昨晩フクロウが言っていたことを思い出した。暗黒病は、最後には目が見えなくなる――この子はもう、目が見えないのだ。
「俺はアライグマだ」
「アライグマ、さん? 変わった名前だね」
「そうじゃねぇよ、アライグマだ。お前は何だ。ほら、人間には名前ってのがあるんだろう」
「うん、僕はアレンっていうんだ」
「おいアレン、お前なんでこんな所にいるんだ。ここは、深森だぞ。人間がいう所の、ええと、なんだったかな……」
「もしかして、ここって、逆さ虹の森?」
「あぁ、そうだ!」
アレンは息をのんだ。
同時に、昨日のことが一気に思い出される。町を出て、原っぱを走り、逆さ虹の森に入ろうとしたのだ。壊れかけたつり橋を渡っていて、そして……落ちたのだ。
「僕、助かったんだ……」
「放っておいたら死んでただろうけどな」
「君が助けてくれたの?」
「……子供を見殺しにしたんじゃ寝覚めが悪いからな」
ふいっとそっぽを向くアライグマ。
アレンは、暗闇の中に手を伸ばした。アライグマは見ていられなくなって、アレンの膝に乗っかった。アレンはアライグマを抱き寄せて、その温かさと、毛のぬくもりを感じた。
「本当にアライグマなんだ」
「だから、そう言ってるだろ」
「君、優しいんだね。ありがとう」
アライグマは、心臓が止まるほど驚いた。今まで感じたことのない感覚が、体の中を駆け巡るのが分かった。喧嘩が強くて乱暴で、それを自慢にしてきたが――「優しい」なんて言われたことは、これまで一度もなかった。
「お、俺だけじゃねぇよ。ヘビ公も――」
言いかけて、アライグマは、大蛇がいないのに気づいた。近くを見回すと、すぐに大蛇が堀った穴を見つけた。大蛇は、どういうわけか朝に鳴くニワトリの声が苦手なのだ。だから朝になると、声が聞こえないよう穴を掘って隠れるのだが、ここは人間の近寄らない森。ニワトリなんて一匹もいないのだ。
「おい、ヘビ公! こんな所にニワトリはいねぇよ、出てこい! 朝だぞ!」
アライグマの声から遅れて、大蛇がぬうっと穴から顔を出した。
「アレンが目を覚ましたぞ。アレンってのは、この人間の名前だ」
大蛇は白い瞼をまちぱちさせて、さも珍しそうに、アレンを見るのだった。アレンはヘビを触ろうと手を伸ばし、大蛇はその手をちろちろと舌で触れた。
「お前、やっぱり目見えないのか?」
「うん……昨日までは見えてたんだけど」
「なんでこの森に入ってきた」
アレンの国では暗黒病という死の病が流行っていた。人々は、裕福な者もそうでない者も、その病にかかった者は肌が黒く変わり、光を失い、やがて土のように死んでいく。医者も薬師も、この病を治せなかった。町も城も、ついには病人だらけになってしまった。
国には古く言い伝えがあった。
――逆さまの虹が出るのは災いの予兆、それが出たなら、逆さ虹の森に行きなさい――
暗黒病が流行り始める前、城に逆さの虹が出たのを見た者がいた。しかし逆さ虹の森は不吉な森である。森に行くどころか、暗黒病は逆さ虹の森からやってきたに違いない、行ってはならないと、そう言われるようになっていた。
「不吉な森とは聞き捨てならねぇが……それでお前は、言い伝えの通りに森に来たってわけか」
アライグマの問いに、アレンは頷いた。
「逆さ虹の森で、森の精が樵を助けてくれる話があるんだ。だから、もしかしたら、この森に来れば、森の精が助けてくれるかもしれないと思ったんだけど……」
アライグマと大蛇は顔を見合わせた。
「森の精なんて、聞いたこともねぇな。カワセミは自分たちのことを妖精なんて言ってるが、アイツらじゃないだろうし。ヘビ公、お前知ってるか?」
大蛇は首を横に振った。
「森の精は知らない。でも、水神様なら知ってる」
水神様というのは、アライグマも初めて耳にする言葉だった。
「そいつは何者だ?」
「水神様は、水神様の池に住んでる。願い事、叶えてくれる」
「その水神様の池ってのは、どこにあるんだ? お前、場所知ってるのか」
大蛇は首を縦に振った。
「ヘビ公が知ってるってよ。どうする?」
アライグマは、アレンにたずねた。
アレンはあさっての方を見ながら答えた。
「ヘビさん、その水神様の池に案内してもらっていい?」
「わかった」
それを聞いてアレンは立ち上がった。ところが、熱と盲目のために、すぐによろけて、転んでしまった。幸い土が柔らかかったので怪我はなかったが、アライグマは倒れたアレンに駆け寄った。
「大丈夫か、おい」
その時ふと上を見上げたアライグマは、そこにオナガザルがいるのに気づいた。アライグマはオナガザルに向かって声を上げた。
「おーい、オナガザル! 頼みがある!」
アライグマに気づいたオナガザルは、木の上から声を上げた。
「あぁ、これは、アライグマの旦那! 頼み事ですかい? これは珍しい! なんでしょう!」
「杖がほしいんだが、貰えないか?」
「杖ですか!? いや、お安い御用ですが――」
言いかけて、オナガザルはそこに、人間がいるのを認めた。人間を見つけたオナガザルはぎょっとして、危うく木から落っこちる所だった。
「に、人間ですか!?」
「あぁ、そうだ! 理由は聞くな! 頼む、オナガザル! このアライグマに借りが作れると思えば安いもんだろ!」
オナガザルは、困ったという風に少しためらっていたが、仕方ないかという風に、一本のケヤキの杖をこしらえて、アライグマのわきに放った。綺麗に磨かれたケヤキの杖は、さすが、森一番の木工職人といわれるオナガザルにふさわしい出来栄えである。
「助かった! これは貸しだな!」
「お気になさらず。ただ、あっしがその子のために杖を作ったってことは、秘密にしておいてくださいやし! 人間嫌いにいろいろ言われるのは御免ですからね!」
オナガザルはそう言うと、森の中に消えていった。
アレンは、オナガザルの作ったケヤキの杖を握ると、再び立ち上がった。持ちやすく丈夫な杖で、今度こそアレンは歩けるようになった。先頭を大蛇が這い、その後ろからアレンとアライグマが並んで進む。