一章 飼い主と飼い猫 ②
新人賞の応募原稿で、最初から最後まで、毎日少しずつ上げていきます。
冗談じゃないわ。
アーニャは眉間にしわを寄せながら、夜の帳の中を歩いていた。
ビアスが眠りに落ちたのを確認し、タイミングを見計らって、こっそり抜け出したのだ。
あれだけ猛威を振るっていた大雨は、すっかり鳴りを潜めている。
しかしながら、三月末の割に気温が低く、肌寒さを感じながら歩を進める。
今日は本当に最悪な一日だった。
時刻は零時を過ぎているので、厳密には昨日だが。
そんな細かいことはどうだっていい。
重要なことは、何で私がこんな目に遭わなければいけないのかということだ。
いきなり不審者に襲われ、土砂降りの中を逃げ回り、死にかけたと思ったら、挙句の果てに隷属契約?
私が配下で、下僕で、飼い猫?
こうしてあの家から脱走してきたのは、アーニャにとっては当然のことだった。
あんなところにはいられない。
だって、あのままベッドで朝を迎えたら、自分に降りかかった不遇の一切合財を受け入れてしまうみたいじゃない。
自然と歩く速度が上がる。
家に帰ったら、まずゆっくり湯船に浸かろう。
一人暮らしで、決して広くはない部屋だけど、浴槽がゆったりしているところは気に入っている。
お風呂に入った後は、何か温かい物を飲む。
ミルクとお砂糖たっぷりのカフェオレがいい。
その甘さと温かさが、きっと嫌な記憶を、嫌な気持ちを溶かしていってくれるだろう。
気分が落ち着いたら、布団に潜り込んで、心地よい安らぎに身を任せて眠ってしまう。
起きたら何もかもが元通りで、私は悪い夢を見ていたんだわ、と胸を撫で下ろし、日常に戻っていくはずだ。
そうだ、明日は大好きなショートケーキを買いに行こう。
アーニャは努めてポジティブなイメージを膨らませようとする。
――しかし。
頭の中の幸福とは裏腹に、どうしようもなく体が重い。
少し前から、頭と体が疲弊感をしきりに訴えている。足を前に出すのも辛い。
やがて、全身に激痛がやって来た。圧迫されるような鈍い痛み。
隷属契約のルールのことを思い出す。
定められた距離を、一定の時間離れてはいけない。
呼吸が浅くなり、息が苦しい。
そして、とうとう歩けなくなってしまう。
冗談じゃない。
何で? どうして? そんなことばかりが思い浮かんでしまう。
何で私がこんな目に遭わなくちゃいけないの?
どうして、私なの?
溜まっていた感情が一気に押し寄せ、涙が止めどなく溢れてくる。
力なく冷たい地面に倒れ込むアーニャ。
こんな遅い時間に人通りはなく、今世界には自分しかいないのではないかと錯覚する。
私はこのまま死んでしまうの?
――――。
「手のかかる飼い猫だ」
ふと、少年の声がした。アーニャは懸命に顔を上げる。
視線の先に、額に汗を滲ませたビアスがいる。
ここまで走ってきたの?
ビアスが手を差し伸べてくる。
「大丈夫か?」
「あんたのせいよ!」
アーニャは息を切らせながら、ビアスの手を強く払った。
思考はもうぐちゃぐちゃだ。
「訳分かんない魔術で、私をこんな風にしたのよ」
ビアスの表情が曇るのが見えた。
アーニャはぎゅっと目を瞑る。
「もう嫌!」
叫びながら、彼に投げつけた言葉とは、全く別のことを考えていた。
最初から分かっている。
自分がわがままを通そうとしていることを。
最初から知っている。
彼が悪くないことを。
悪くないどころか、見ず知らずの自分を助けてくれた命の恩人だ。
隷属契約で定められた支配者との距離の条件を満たしたからか、体の調子は徐々にだが良くなっていく。
ビアスは怒鳴りも、呆れもせず、ただ困ったように、
「ごめんな」
「何で謝るの。これじゃ私、本当にバカだわ」
「もういいから。帰ろう。えっと……」
ビアスがアーニャの名を呼ぼうとして口ごもった。
私は命の恩人に、まだ名前も教えていなかったのだと思うと、情けないやら悔しいやらで、胸が苦しくなる。
でも、それよりも、これ以上彼を困らせたくない。
「アーニャよ。アーニャ・アルカナ。それが私の名前よ」
ビアスの表情が緩んだ。
「帰ろう、アーニャ」