一章 飼い主と飼い猫 ①
新人賞の原稿で、最初から最後まで、毎日少しずつ上げていきます。
一章 飼い主と飼い猫
ランペイア大陸の北部は、帝国連合という統合体がある。
周辺一帯の諸国が加盟し、外交や安全保障政策の共通化と、通貨統合の実現のために目的としている。
アレグリア帝国は最北端に位置する、加盟国の一つだ。
アレグリア皇帝アーデルハイドが統治する帝政国家で、大陸有数の魔術先進国として知られている。
現代魔術の社会的な運用により発展してきた。
帝国内には魔術研究所がいくつもある。
そのアレグリア帝国の中枢は、帝都ラーゼン。
エルテ海に臨んだ港町だ。
現代の文明に、現代魔術を運用することで、都市として全く新しい様相を呈している。
帝国内外の流通のターミナルになっており、常に活気に溢れている。
地元の商人や業者や、スーツ姿のビジネスマン、あるいは大きな鞄を背負った旅行者が行き交う。
扱われる品物も、食料品だけ見ても、魚、果物、野菜、肉、乳製品、卵、チーズ、小麦、酒、調味料など多種多様だ。
他には日用品、衣料品、靴、アクセサリー、化粧品、書籍、家電、雑貨、玩具――。
人も物も、とにかく多い。
ラーゼンには、アーデルハイド皇帝が居を構える王城がある。
荘厳かつ、勇壮なその城は、魔術的な加護を与えられた城壁に囲まれている。
さらに、帝国軍が二重の防衛ラインを敷き、有事に備え、万全を期している。
魔術大国としての最も評価される、先進的な試みがある。
それが特別区ローレルだ。
都市運営のための開発途上の魔術運用のアイデアを試験的に取り入れる、都市運営の近未来都市モデルだ。
超巨大メガフロートを敷地とした人工都市であり、ラーゼンとは道路、そして魔力電車で繋がっている。
この魔力電車も魔術運用の試行の一つである。
魔術運用によって確立され、政府から及第点を得た新技術が、そのまま帝都を始めとした帝国内のいたるところに導入される構造となっている。
ローレルの街並みはラーゼンと同様に、煉瓦造りの西洋建築で構成されている。
洗練された様式美は、芸術的と言って差し支えないだろう。
石畳の舗装された街路が網目状に街全体を走り、街路樹と街路灯がそれに寄り添うように立っている。
そのローレルの数ある学生アパートの一つ。
二階建て、築三十年。
元々白かった外壁は、薄汚れ黒くくすみ、場所によっては蔦が蔓延っている。
見るからに安普請だが、とにかく学校に近いという理由と金銭的に問題により、その少年は即決した。
彼の名前はビアス・ビルシュタイン。
ビアスはシャワーを浴び終え、濡れた髪をタオルで拭きながら、浴室から出てきた。
長身痩躯で、銀髪と赤褐色の瞳を持っている。
くっきりとした顔立ちだが、伸ばしっぱなしの髪に、脱力した雰囲気などが相まって、どこか不良少年然とした印象を見た者に与える。
姿勢が悪いせいで、無気力に映り、背が高い分だけ、全体的にゆらゆらとして見えるのも、彼を不真面目に見せる要因の一つかも知れない。
部屋着を着たビアスは、ベッドの上を見やる。
本当は布団の上に体を投げ出し、横になりたかったが、それはできなかった。
すでにベッドで人が寝ているからだ。
矮躯が横たえられ、ビロードのような金髪がシーツに流れている。端正で、愛らしい顔をした少女だ。
整い過ぎた容姿は、精巧に作られた人形を彷彿とさせる。
ビアスはベッドにもたれて腰掛けた。背後でシーツが擦れる音がした。
振り返ると、蝶の触角のような長いまつげが伸びる目蓋が、ゆっくりと開けられようとしている。
数回瞬いた後、完全に開き、透き通ったエメラルドブルーの瞳が顕になった。
ようやく目を覚ましたようだ。
ベッドの上の少女――アーニャ・アルカナは視線を天井に彷徨わせている。
アーニャの細い首がおもむろに傾き、吊り目勝ちの大きな双眸がビアスの顔を捉えた。
「やっと目を覚ましたか」
「……誰?」
起きたばかりだからなのか、あどけない声でアーニャが言った。
「自分を助けたやつの顔も覚えてないのか? まぁ、あれだけ衰弱してたら、記憶があやふやなのも仕方ないか。俺の名前はビアス・ビルシュタインだ」
アーニャがゆっくりと起き上がる。
「起きて問題ないか?」
「大丈夫」と答えながら、注意深く部屋を見回し、「ここ、どこ?」
「俺の部屋」
「あなたが助けて、ここまで運んでくれたってこと?」
「そういうことだ」
状況を理解したアーニャは、折り目正しく頭を下げた。
「ありがとうございました」
そう言って、ベッドから出ようとする。
「もう立って歩けるのか?」
「大丈夫だと思う」
アーニャは、そこで気づいた。
自分が見覚えのない服を着ていることを。
二つの膨らみが胸部を押し上げている白い無地のTシャツが目に入ったのだ。
確かワンピースのドレスっぽい洋服を着ていたはずだ。
「……何で、服、私のじゃない」
言いたいことが整理できず、訥々と言葉が溢れる。
ビアスはアーニャの言動から、彼女の疑問を察した。
「着替えさせたんだよ、びしょ濡れだったから。髪も乾かしたし。そのままだったら風邪引くだろ」
…………――。
時が止まってしまったかのような間を置き、
「きゃあああああああああああああああああああああ――っ」
大地の果てまで届きそうなアーニャの大絶叫が轟いた。
咄嗟に耳を塞いだビアスは、恐る恐る手を離し、
「何だよ、いきなり叫んで」
「最低! 最低! 最低――っ!」
壊れたオーディオみたいに何度も「最低!」と繰り返すアーニャ。
「仕方なかったんだよ。不可抗力だ、不可抗力」
「何が不可抗力よ!」
「大丈夫だ。さすがに下着までは外してないから」
「下着は見てるってことでしょ。この変態!」
「下心なんかねーよ。自意識過剰だな」
「女の子の肌を見ておいてそんな言い方するわけ?」
「じゃあ、そのままにしておけば良かったのか? 衰弱しきってたし、あのままだったら風邪引いてさらに体調が悪化してたかも知れないんだぞ」
「その方がマシよ」
アーニャは一層語気を強めて言い放った。
二人の口論は平行線を辿り、交わることはなさそうだ。
「シャワー浴びてくれば? ちゃんと体洗いたいだろ」
アーニャは顔をそっぽに向け、「結構よ」と、もう目も合わせようとしない。
「そんな汚れたまま寝るのか?」
「帰ってからゆっくりお風呂入るわよ」
アーニャは憤然と眉根を寄せ、
「助けてくれてありがとう。それじゃ」
勢い良く立ち上がり、玄関に向かって歩き出した。
ビアスはその後姿に声をかける。
「一つ聞きたいことがあるんだが」
「何?」と振り返ったアーニャは、苦々しい顔をしている。
「お前の家って、あの土手の近くなのか?」
「答えたくない」
個人情報を教えたくないのだろう。
「結構大事なことなんだ。助けたお礼にそれくらい教えてくれてもいいだろ?」
しばらく黙っていたが、アーニャは不承不承といった感じで、
「近くってわけじゃないけど、同じ地区内よ」
「そうか」
ビアスはそれだけ聞いて、満足したように頷いた。そして、
「悪いけど、お前は家には帰れない」
「何でよ!」
声を荒げるアーニャとは対照的に、ビアスの口調は落ち着いている。
「今お前は、俺と隷属契約を結んでいる」
「隷属契約?」
聞き慣れない言葉を耳にし、そのまま鸚鵡返しに言った。
「支配者と配下の関係だ。簡単に言えば、主と下僕ってところだな」
「支配者? 配下? 主? 下僕?」
アーニャは言いながら、人差し指をビアスと自分に向かって交互にさしている。
ビアスはアーニャへ近づき、
「お前が配下で下僕。俺が支配者で主だ」
「ふざけないでよ! 誰が配下で下僕よ」
眉を吊り上げ、怒り狂うアーニャをビアスはなだめようとする。
「落ち着けって」
「落ち着けるわけないでしょ」
「言い方が悪かったかも知れない。言い換えよう。俺が飼い主で、お前が飼い犬――犬っていうより猫か。うん。お前が飼い猫だ。とにかく、そういう関係性ってことだよ」
「大した違いなんてないわよ!」
「動物に例えたら可愛いかと思って」
「にゃ……っ!」
アーニャの顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「にゃに言ってんのよ! 可愛いとか、意味分かんない。帰るわ」
再び玄関に向かおうとするアーニャ。
ビアスはその彼女の腕を掴み、
「待てって。話くらい聞け」
「放してよ!」
アーニャはビアスの手を振りほどいた。
「隷属契約なんて私は知らないわよ。何でそんなことに巻き込まれなくちゃいけないの?」
「そうしないと、お前の命が危なかったからだ」
ビアスの発言に、アーニャの表情が凍りつく。
「本当に危険な状態だったんだ。あのままだったら体力が持たず、冗談でも嘘でもなく、命を落としていたと思う」
アーニャが息を呑むのが分かった。
「隷属契約は二つの生命を繋ぐ性質を持つ術式だ。俺とお前を繋ぎ、俺の生命力をお前に注ぐことで、一命を取り留めた」
ビアスの声にも、深刻さが滲んでいる。
「隷属契約にはいくつかルールがあって、定められた距離を、一定の時間以上離れてはいけないというのがある。それが、お前が自分の家に帰れない理由だ」
アーニャの眉宇に悲壮感が漂う。
訳の分からないことに巻き込まれたという意識から、自分自身の問題として受け止め、配下や下僕といった単語が、途端に現実味を帯び始めたのだろう。
「その魔術って、解除できないの?」
「悪いけど、一度結ぶと解除はできない。絶対に方法がないとは言い切れないが、少なくとも俺は知らない」
「私はこれからどうなるの?」
不安そうな瞳がビアスを見上げている。
「どうもならないよ。契約のルールさえ守っていれば、何も問題ない」
アーニャは俯き、ベッドに戻って腰掛けた。
もう騒いだりすることなく、黙って床を見下ろしている。
ビアスはずっと気になっていることを聞くことにした。
「お前、誰かに追われていたよな? 何かしたのか?」
「何もしてないわよ」
「心当たりはないってことか」
「通り魔じゃないの? あんな野蛮なやつ、きっとそうよ」
悄然とした声色で答えるアーニャを見て、ビアスはこれ以上今日の出来事について聞くのは無神経だと思い、
「考えても分からないよな。今日は泊まっていけよ。今後の身の振り方は明日一緒に決めるとして、もう寝よう」
ベッドはそのままアーニャに譲り、自分は床で寝ることにする。
アーニャは納得したのか観念したのか、何も言わずに、ベッドで横になった。
ビアスが灯りを消し、二人は就寝した。
――数時間後。ビアスがふと目を覚ますと、ベッドには誰もいなかった。
アーニャに着せたシャツと短パンがベッドの上に置かれ、その代わりにベランダに干していた彼女のワンピースがなくなっている。
ビアスは嘆息して、頭を乱暴に掻いた。
懐かない猫だ。飼い猫に逃げられた飼い主は、こんな気持ちになるんだな。