プロローグ 隷属契約
新人賞の応募原稿で、最初から最後までを分割で、毎日少しずつ上げていきます。
プロローグ 隷属契約
豪雨の中、アーニャ・アルカナは知らない道を五里霧中で走っていた。
もう自分がどこにいるかも分からない。無我夢中で走り続けるしかなかった。
土砂降りで地面はぬかるみ、何度も体勢を崩し、転びそうになる。
煙るように降り続ける雨は、視界を奪っている。
アーニャの小さな体に叩きつける雨粒が、体温を急激に奪う。
長いブロンドの髪は輝きを失い、青ざめた肌に張り付く。
何でこんな目に遭わなきゃいけないの?
夕食の買い物に出た帰り道、背後に人の気配を感じた。
振り返ると黒いローブを被った何者かが立っていた。
頭の上から足元まで、全身を隠すローブ。
背が高く、おそらく男だと思った。
突然、襲ってきたのだ。目にも留まらぬ速さで肉薄してきた。
何故自分が避けられたのかは分からない。
常識を逸した動作を目の当たりにし、分かったことがある。
こいつは、――魔術師だ。
そして、この魔術師は強化魔術を使っている。
強化魔術は主に、身体能力を向上させる効力がある。
理由は分からないが、魔術師に襲われている。
それだけ理解すると、差していた傘も夕食の材料が入った買い物袋も放り捨てて、一目散に駆けだした。
初めは小雨程度だった雨脚は、アーニャの不安と悲愴感に比例し、次第に勢いを増していった。
助けて、助けてと何度も力の限りに叫んだが、雨音にかき消され、誰の耳にも届かない。
もしかすると、人払いの結界を張っているのかもしれない。
確か空間魔術というもののはずだと、アーニャは混乱する頭の片隅で考える。
ローブの魔術師が、すぐ後ろに迫っていた。
今度こそ、避けきれない。そう思った瞬間、泥濘に足を取られた。
さらに悪いことに、転倒した先が急勾配の土手だった。
一気に転げ落ちていく。
平らな地面まで到達すると、ようやく止まった。
体中に激痛が走る。
全身が痛い。
頭も、首も、肩も、腕も、肘も、手も、背中も、腰も、膝も、足も、どこもかしこも。
打撲の鈍い痛み、擦り傷の鋭い痛み。
意識が朦朧としていく。
激しいはずの雨音が、遠くに聞こえる。
体のどこにも力が入らない。冷たい地面と同化していくようだ。
誰かが近寄ってくる気配がする。
追手が来たのだろう。何か大声で叫んでいる。
声が聞こえなくなると、やがて横たわっている場所の周辺に魔力反応を感じた。
魔術が発動される兆候だ。
私はきっと、ここで殺される。
神秘的な光が辺りを包み込む。
世界が突如として静まり返った。
異様な静寂が訪れ、その直後少年と思しき声が耳朶を叩いた。
とても真剣で、必死で、切実な声音。
「我とこの者を隷属の関係を以って、魂まで深く繋ぎ合わせよ」
一拍の間を置き、鬼気迫る語調で、力強く叫ぶ。
――〈サボーディネイション〉!
その声はアーニャの最も深いところまで響き、そのまま沈み込んでいくようだった。