2 切先
事件の証拠が一晩で消え、翌日から即座に学校が再開されようとも、生徒間の噂まで食い止めるというのは不可能な話だ。今現在の一年三組の女子が、死んだ男子生徒のことを話しているのも当然のことではある。ただ、聞いていてあまり気分のいい話ではない。聞いているというよりは、聞こえてしまうというのが正しい表現ではあるのだが、結果からすればそれは同じことだ。不慮の事故で死んでしまった同級生の悪口を、平然な顔で言えるその感性が理解できない。こんな風に思うから、自分は昔からノリが悪いなどと言われるのだ。
だが、果たしてノリとは何なのだろうか。皆が信号無視をしているから自分も信号無視をするのが正解で、皆が好きなものだから自分も好きになるのが正しくて、皆が虐めている人だから自分も虐めるのが正義ということなのだろうか。そこに自分の意志はあるのか。そこに自分の意見はあるのか。同調は楽だが、それを楽だと思えない人間は果たしてどうすればいいのか。
夜楼大地は小学生の頃に、学校内にあったカウンセリングルームに行ったことがある。悩みを聞いてくれる場所とか、悩みを解決してくれる場所だと聞いたからだ。空気を読めないこと、多数派に所属できないことは悪いことだというのが徐々に浸透してきていた小学五年生の時だった。どういう場所なのか詳しく知らずに行った時、部屋の一角で遊んでいる生徒を見て、首を傾げたような記憶が朧気にある。
確かに覚えている記憶は、自分の話を聞いた女性のカウンセラーが、諭すような声で『その気持ちはよく分かる』と言ったことだ。その言葉に反応し大地が顔を上げたとき、彼女は微笑んでいた。それは、決してありえない表情だった。大地の気持ちがわかるならば、決して。小さく溜め息を吐いた大地は、その続きを聞くこともなく部屋から出ていった。後ろからカウンセラーがなにかを言っているような気がしたが、もう興味は無かった。
気付けば、その部屋に出入りするカウンセラーは変わっていた。あの時に室内で遊んでいた生徒は変わらず出入りしていたので、結局誰でもいいんだなとも思った。その部屋にいるのは誰でもよくて、その部屋があればそれ以外はどうでもいいのだ。カウンセラーが変わった理由は分からない。ひょっとしたら大地のせいだったかもしれない。だが、大地にとって彼女は相談するに値する人物ではなかったのだ。それだけは彼にとって確かな事実であり、今でもその考えは変わらない。
だから馴染めない。人を罵ることで繋がっている輪の中に入ることが出来ない。身勝手とか自分勝手とか、そう言われれば確かにそうなのだろうけど、そう思っていることを隠して会話をするような器用なこともできない。結局、これは大して小難しい話ではなく、夜楼大地という彼は極めて中途半端なのだ。どっちつかずで、判然としない。自覚しているのに直そうとしない。いつか全部有耶無耶になるのではないかと期待して生きている。そしてそんな日が来ないことも知っている。
「……さっきの三人、なんだったんだろう」
昨日事件があったことは知っていても、その現場を実際に見たわけではない大地はいまいちその実感がなかった。帰ってから見たテレビでそのニュースが流れていても、どこか地球の裏側で起きた出来事のような感覚が付きまとっていた。だからさながら物見遊山のように、見学程度の気分で現場を見に行った。幸いなことに事件の痕跡と呼べるものは一切残っていなかったし、立ち入り禁止になっているようなことも無かった。だが、大地の頭に引っかかっているのは事件現場でなく、そこにいた三人の男女だった。
一人は生徒会長、一人は風紀委員、そしてもう一人は確か、変わり者だということで有名な一年だった気がする。噂話をするような友人もいないので、何処からか聞こえてきた程度の情報でしかないが、逆にそれでも耳に入ってくるというのがどれほど変わっているのかを逆に表してもいた。傍目から見ても変わっているとは彼も思った。別に変な格好をしているとかではなかったのだが、何処に引っかかったのだろうか。
余りに現場が綺麗過ぎて見ても実感が湧かなかったので、なんだかもやもやしただけ損という感じだ。一日くらい休校にしてもおかしくないような事件だったと思うのだけれど。だが同時に、人が一人死んだくらいなら世間もこのくらいの対応かとも思いはする。結局殺人事件なんて、路傍の石が対岸で火事になった程度の他人事でしかない。今日の天気予報が雨だった方が余程大事件だ。
「……俺には関係ないか」
大地はそう言いながら立ち上がり、鞄を肩にかける。窓の外はまだ明るいが、もうすでに時刻は五時を回っていた。とっくの昔にクラスメイトが全員帰った教室を、鍵を開けたまま出ていく。別に誰かを待っていたわけではない。この学校に大地が待つ相手などいない。だが、彼は何かを待っていた。自分を変えてくれる何かを、彼は毎日待っている。
靴箱から取り出した革靴を履いて、いつもと同じように正門から帰る。その様子を職員室から見ている教師が一名、部室棟から見ている女子生徒が一名、屋上から見ている男子生徒が一名。当然大地はそんなことには気付いていない。いつも通りの時間に、いつも通りの軽くも重くもない足取りで家路につく。
足元を見て歩くのは自分の悪い癖だと思いつつも、顔を正面に向けることが出来ない。別になにかトラウマがあるというわけではないと思うのだが、どうにも足元が怖いのだ。気が付いたら地面がなくなっているんじゃないかというような恐怖心が昔からある。そんなわけがないのはわかっているのだが。
「貴様。聞こえておろう?」
「…………」
「夜楼大地よ! 返事をせぬか!」
「は――うおっ!?」
背後から掛けられた声に振り向くと、それと同時に日本刀の切っ先を突き付けられた。模擬刀やレプリカの類であろうとは思っても、本能的な恐怖として反射で叫び声をあげてしまう。その切っ先は正確に大地の喉に向けられており、例え本物の刀でなかったとしても、生殺与奪の権利を目の前の女子生徒に握られていることは間違いがなかった。
クォーター故らしい純性の金髪を、腰程までに伸ばしている目の前の女子生徒を大地は一応知っていた。入学当初の部活動紹介で剣道部の部長として壇上に上がっていた二年生の先輩。部活動に入る気など無かったため碌に見ていなかったが、あの金髪と特徴的な口調は覚えている。ただ、名前までは流石に覚えていない。カタカナが混じっていなかったことだけは覚えている。
「何処を見ておる? 我が話しておるのを聞かぬとは、余程呆けていたと見える」
「えっと……どちら様ですか? 人違いじゃ、ありませんかね?」
「先程名前を呼んだであろう? その質問は、我を愚弄しているに等しいぞ?」
愚弄するほど彼女のことを彼は知らない。どちら様ですか、というのは、こう言えば名乗ってくれるんじゃないかという算段での発言だったが、どうやら空振りに終わったらしい。思い出す兆しもないし、こうなった切っ掛けもまるで心当たりがないし、切っ先を向けられるのは普通に怖いしで、ここ数年同年代とまともに会話をした記憶のない大地は戸惑っていた。恨みを買うほど誰かと関わった記憶もない。
「それは、その通りですね……、すみません。でも、なんで俺は、刀の切っ先を突き付けられているんでしょうか? 映画の撮影か、何かでしょうか?」
「……貴様、転生者か?」
「………………………………はい?」
「貴様は転生者かと聞いておるのだ。まともに返事をせぬか。阿呆に見えるぞ?」
そうだ。思い出した。彼女の名前は、飛霧雅美だ。