キスの質問
「もし私が誰かとキスをしたとするでしょ」
テーブルを挟んで向かい側に座っている君がココアの入ったマグカップを置いて、前振りもなく突然に言った。
「そしたら、嫌?」
「そりゃ嫌だよ」
模範解答らしきものを答える。
「ふーん」
なぜか納得したような顔して、マグカップに口をつける。
いきなり変な質問をかましてくるのは君の十八番だけど、今日はどこか違う。
「じゃあさ、ペットボトルとは?」
「ペットボトル?」
いつにもなくおかしな質問にぽかんと口を開けて唖然とする。
「そう、自販機にあるやつ」
真剣な顔つきで僕の目を覗く。
その真っ黒な瞳に見られると、何が何でも答えなければいけない気にさせられる。
でもそれが彼女の魅力の一つでもある。
無言の催促に迫られ、悩んだ末に答える。
「別に、いいんじゃない」
人じゃないんだし。
「じゃ、マグカップは?」興味津々といった感じで目を輝かせて、息を吐く暇もなく問い掛けられる。
「同じだよ。別に」
「そのマグカップは君じゃない誰か知らない人が口つけてるんだよ?」
「んんー。わざとじゃないならいいかな」
参ったな。また彼女のペースに乗せられている。
いつもそうだ。波にうまく乗れずに、ただ流されていくだけ。泳ぐには波が強すぎる。
こんな自分を変えたいと思うけど、流されなくなった僕が彼女に求められるのか不安になって、やっぱりただぼうっと流されていくだけ。
もし僕がサーファーなら、もう少しましになれただろうか? 今からでも習ってみようかな。サーフィン。
「ではでは次の問題」彼女のテンションはいつも高い。
「質問です。カメとキスするのは?」
「するの?」
「場合によります」
よるのね……。
「で、カメとは嫌?」
まず、カメとキスする彼女の姿が思い浮かばない。そもそも君は爬虫類が苦手だろう。
この前、君が庭の花壇の手入れをしてたとき、不意に石の裏から出ていたトカゲにひゃっと声を上げて尻餅をついたのを覚えている。手元にカメラがないことを生まれて初めて後悔したよ。
「でも、犬とかなら嫌かも……」
今僕がどんなに馬鹿らしいことを言ったか気付いた。
犬と張り合っている自分を思い浮かべると、とことん惨めに見えて嫌になる。
「なるほど。なるほど」
彼女は手のひらに見えないペンですらすらとメモをした。
「ねえ、結局今までの質問は何なの?」
「別に~」
散々訊いておいてこっちの返事は適当なそのおでこにデコピンをお見舞いしてやりたい。
「言っておくけど、君以外に他人とキスなんてしたことないよ?」
だいたいの初めてはすべて君だよ。
付き合って三年ほど経つけれど、君に飽きて他の女の子に付いて行ったりするつもりはないよ。
君のことを好きって気持ちは誰にも負けてないつもりなのに。そんなに僕って信用ならないかなぁ。
テーブルの下でこぶしをぎゅっと固くする。
「そんなのじゃないよ。ただ知りたいだけ」
「知りたいだけ?」思わず顔をしかめる。
「ほら、そんな難しい顔しないで」
君は優しく微笑む。
「知りたいの。全部。だから、あなたにたくさん訊くの。あなたのこと、たくさん知りたいから」
「……それじゃ不公平だ。僕だって君のこと知りたいのに。付き合い始めて他の誰より君といる時間が長くなった。だけど僕は君の事を全部、半分も知っているか自信がない」
ただ彼女は耳を傾けていた。まるで蓄音機みたいに。一音一句とりこぼさないよう。
僕は俯いて想いのままに呟いた。
「ときどき、不安になるんだ。真夜中に隣で寝ている君を見てたら、好きって気持ちが何か別の感情に覆われていく。胸がざわついて怖くなる」
本当に僕らは上手くやっていけてるのか。僕に見せるその屈託ない笑顔は無理をしているかもしれない。
そんなことを考えるたび、どす黒い何かが心の奥底に溜まっていく。
君を一番幸せに出来る奴が他にいたらと考えると、君を愛しく想う僕は罪悪感を覚える。
「ドンッ」テーブルが強く揺れる。マグカップが倒れて転がる。
やってしまった。君はどんな表情をしてるだろう。怒ってるかな。幻滅してるかな。
嫌だなぁ。
今、君に嫌われることが、僕がこの世から消えるよりも怖いって、初めて知ったよ。
伏せた目をゆっくり開ける。
天井の照明に部屋は照らされているのに僕あたりだけ影が出来ている。
目の前には、君がいた。
テーブルの上に乗り、四つん這いで、僕の目の前にいる。
彼女が僕に目を合わせようとする。
見つめ返せなくて視線を足元に逃がした。
すると、ぐっと両手で顔を掴まれ、無理やり目を合わさせられる。そのままの姿勢で僕らは見つめ合った。
少しだけ無表情の君は口を開いた。
「最後の質問」
「……」
「私があなたとキスをするのは、嫌?」
甘いココアの味がした。
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