蒼く光る星の海
アリアスは眠っていた。
幸せな夢を見ていたように思う。
それは例えば、隣に賢く優しい人が腰かけているような。
その人が静かに氷を溶かしているような。
そして時折、アリアスに心配そうな視線を向けてくれるのだ。
殺され役のアリアスに。父を裏切り、役目を裏切り、ついには群れを裏切ったアリアスに。
ーーこんな幸せが、許されるのかな。
幸せの形が手を伸ばし、アリアスの肩を揺すった。
ーーアリアス。起きろ、アリアス。アリアス……
「アリアス!」
揺すっても声を掛けても、アリアスの反応は判然としなかった。優れた複眼も、卓抜した耳も、はっきりと焦点を結んでいない。
背中から血が出ない。
ぽっかりと空いた背中の洞はぬらぬらと湿り、血がにじんでいる。それは止血されたことも、治癒したことも意味していない。単純に純粋に、流れるほどの血が残っていないのだ。
「アリアス……っ! くそっ! 私はなんて無能なんだ……死神だ何だと謳われても、殺す以外に能がないっ」
死神の持つ知識は、兵役種に通用しない。
圧迫止血も関節止血も、冷却止血すら、兵役種には有害だ。高い治癒力に任せた内部は柔で、長時間の外部刺激は変形や腐敗を引き起こす。
「アリアス……」
アリアスは知らなかった。
だが、死神には予想がついていた。
「お前たちは、何を食べて生きているんだ?」
彼らは何も食べはしない。成体と認められたものしか食指を持たないからだ。食指が使われるのは[親]を食らうとき、殺され役を食らうとき。おそらく[宙跳び]に備えた脂肪であり、その貯蔵は使われないのだろう。
共振器官が伝達していたのは、意思ばかりでない。兵役種に生命活動のためのエネルギーを供与していたのも、共振器官だ。役目を終えた兵役種、アリアスから食料供給を受けていたアリアスの[親]の飢餓状態が、それを如実に表している。
営巣を出る前、群れに追放されたときから、アリアスの飢餓は始まっていた。
「頼む……治って、起きて……アリアス」
大丈夫とアリアスは言った。
大丈夫なはずはなかった。
それでも、死神はその言葉にすがるしかなかった。他になにも出来ないからだ。
声を掛けながら、祈りながら、死神は考える。
どうすればいいのか。
今すぐここを発って、治療法を探し求める?
あり得ない。遥か数十光年離れた他の営巣は、あまりにも遠すぎる。他に心当たりもない。宛どない旅など不毛にすぎる。
群れに舞い戻って、アリアスへのエネルギー供給を再開させる?
望みはあるが、難しい。群れを痛め付けて脅す必要があるうえ、裏切り者を八つ裂きにできるなら死んでもいいという兵役種からアリアスを守り通さなければならない。
それとも。
死神は己の杖を見る。蒼い光を灯らせる黒杖を。
それとも、ーー楽にさせてやる?
「死神さん」
「アリアスっ!」
かすかに身じろぎをしたアリアスは、それ以上体を動かすのを諦めた。それほど弱っているのだ。兵役種が。
「死神さん……ごめんなさい。また、眠ってしまった、みたいです」
「謝るな、そんなこと。いくら休んでも構わない。お前が……元気に、なるなら」
アリアスの声が小さく笑った。
「ごめんなさい」
「謝るな」
そこで、謝らないでくれ。
そんな死神の声が聞こえたのかどうか。
アリアスは頭を転がした。
「星がきれいです」
「……そうだな。よく見える」
宇宙の真っ只中に浮く岩からは、星が見渡せた。
営巣と違い地平線を感じさせない小さな岩から見回せば、まさに星に包まれているかのようだ。
「きれいだけど、でも、物足りないですね。輝きが、とおくて」
「うん。そうかもしれない」
実際、あれらの輝きはとても遠い。どんな兵役種が一生をかけて[宙跳び]をしても、たどり着くことはないだろう。
「死神さん」
「なんだ?」
「死神さんの星を見せてもらえませんか。あの蒼い、きれいな光……」
「星海盤か? 構わないとも」
死神は楕円を取り出して、回す。
数えきれないほどの光の粒がアリアスと死神の周りに溢れた。それはともすれば妖精のように、アリアスの鼻先でゆっくりと漂う。
死を誘い、命を運び去る妖精のように。
「アリアス。傷が治ったら、次はどこに行こう?」
だからだろう、そんな話題を持ちかけたのは。
アリアスは偽物の星を見つめたまま笑う。
「まずは、観測装置を作り直さないと」
「あぁ……それが最初か。金属含有のデブリベルトに暮らす変な種族がいてな。彼らに頼るのが確実だ」
「デブリベルトに? どうやって暮らしてるんでしょう……」
「聞いてみるといい。驚きだぞ」
死神はアリアスの隣に体を横たえた。同じ視点から星を見る。
「本当に、すごい数ですね。星って、いくつあるんでしょう」
「分からないな。銀河系は一通り回ったが、これで四割あればいいな、というくらいだ。銀河系の外となれば、想像もつかない」
「もう、そんなに」
「まだ、それだけだ。もしかしたら、星海盤から溢れてしまうかもしれない」
かすかに沈んだ死神の声に、アリアスは少し返事を留めた。
想像を広げて、噛んで含めるように、ぽつりと声を弾ませる。
「それは、とても素敵です」
「え?」
死神は思わず問い返して、アリアスを見た。星海盤の光に照らされて、アリアスの輪郭が闇に浮かび上がっている。
この光が、溢れるほどに輝いたなら。
「ああ」
すとん、と不思議なくらい気持ちよく、その想像は死神の胸に収まった。
「なるほど、素敵だ」
同じ星を見上げて。同じ夢を重ねて。
アリアスは言う。
「星を見続けてくださいね」
「目を離したりしないとも」
死神は声を低く押さえた。油断すれば、涙声に歪んでしまう。
もう、どうしようもなく明らかだ。
アリアスは死ぬ。
それをアリアスは受け入れている。
死神は胸を押さえる。胸当てを押す音すら押し殺した。雑音ひとつで、アリアスのことばが一つ、失われてしまいそうだ。
「死神さん」
「なんだ?」
「ごめんなさい。最後まで、手伝えなくて」
「気にするな。お前からは、とても大切なものをもらった」
「嬉しいです。でも、やっぱり、ごめんなさい」
「なにがだ」
「死神さんは、さみしがりだから。途中でいなくなるのは、すみません」
「お前、……まったく、お前は私をなんだと思ってるんだ」
「死神さんは、死神さんです。優しくて、賢くて、夢がとてもきれいな」
アリアスは死神に顔を向けた。
死神も応じてアリアスを見て、
息を飲む。
複眼がしぼんでいる。
壊死が始まっていた。
ーーアリアスは、もう星が見えない。
「ごめんなさい、死神さん」
「……なにも、謝ることなんて」
「ぼくは、死神さんと同じ夢は、見ていませんでした」
かつて死神は言った。同じ夢を見られるなら同志だと。同志で、盟友だと。
「死神さんがせっかく僕を選んでくれたのに。ぼくは、星よりも、死神さんのほうが好きみたいです」
「アリアス……」
「他のどんな好きよりも。ぼくは、星海盤を見る死神さんの眼差しが好きでした」
ぱきり、とアリアスの固まった血が鳴った。
もう感情を鳴らす共振器官はどこにもない。
死神はアリアスの手を握る。鋭利で不器用な小さな手。アリアスは死神の手に気付かない。
「ぼくの夢は、ひと足先に叶います。死神さんが夢を続けられるなら。だから、たくさん、ごめんなさい」
「……なにも、謝ることじゃ……ないじゃないか」
「星を見ましょう。死神さん」
「……そう……そうだな」
「星の話をしてくれませんか。あなたの、大好きな話を」
「ぴったりの話がある。星座の話だ。私の母星の文化でな、星に絵をなぞらえて、物語を作ったんだ……」
死神はアリアスの手を握ったまま、星海盤の星空を見上げたまま、古い記憶を紐解いていく。
「ここから見ると歪んでしまうな。一等星のベガが分かるだろうか。こと座という星座があるんだ。こと座にも結びつけられた物語がある。オルペウスという楽器の名人がいて、彼は愛する妻と幸せに暮らしていた。ところがある日、彼は妻を……」
それ以上、物語を始められなかった。
「アリアス。……ありがとう、アリアス」
蒼い星空の下、遥かに広がる星海の中。
死神の手のなかで、アリアスは枯れた。