好きということ
頭を槌で打ったような激痛に貫かれ、視界が赤く染まる。
背中に爪を刺しただけで腕が止まった。まだだ、と己を叱咤する。
肉の奥へ、背骨のほうへ爪を進める。激痛のあまり足が痙攣した。くらくらと視界がちらつく。
「やめろアリアス! 死ぬ気か!? 背中の半分近くをえぐって、ただで済むはずがないだろう! 兵役種を過信しすぎだ!」
死神の音が脳裏を通り抜けていく。言語を理解する余裕がなかった。
爪が発信器官を支える骨に達し、ごり、という音が骨を伝って口内に響く。
これを。
これを、へし折らなければ。
ごり。ごり。ごり。
血の味が口の中に広がる。激痛に食いしばるうちに口からは血があふれ、食指を覆う膜は破れかけていた。血の混じった青い涎が宇宙に散る。
足の痙攣は緩やかになり、視界や触覚がすべて失われていた。兵役種の脳が神経伝達を遮断している。そうではないかもしれない。出血のショック症状で機能障害が出ているのかもしれない。アリアスは無心で腕を動かす。
ごり。ごり。ごり。
死神がまだ近くにいるのか、気味悪がって離れたのか、確認しようもない。
腕をどう動かしているのか、骨が立てる音でしかわからなかった。
ごり。ごり。ぱり。
骨が割れた。
アリアスは腕を巡らせ、発振器官に沿って背中に爪を進める。
えぐりとられた発信器官が、ぼろりとアリアスの体から外れた。
巨大だった。
アリアスの胴体半分ほどもありそうだ。器官は、深く深く体に根を下ろしていた。体が軽くなりすぎて、空っぽになったようだ、とぼんやりアリアスは考える。
決壊したように血がだくだくと溢れている。足は瞬く間に青く染まった。
「……アス! アリアス! この、大馬鹿者!」
「死神さん」
遠かった声が、やっとアリアスに戻ってくる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶです。しにがみさん。ぼくたちは、きずの、なおりが、はやいから」
「体を半分失うことを傷とは言わん! 出血多量でショック症状が出ているんじゃないか? 見えているか?」
「はい、大丈夫です……大丈夫。ごめんなさい。でも、必要なことだったんです」
アリアスはゆっくりと言葉を確かめながら応じる。必要なことだった。大切なことだ。
そして、必要なことは、まだ、ある。
顔を上げて見通す先に、巨大な岩塊がぽつりと浮いている。
「死神さん。時間をかけすぎてしまいました。ごめんなさい」
「なんだ? 今度は何をするつもりだ」
「しっかり掴まっていてください。減速します」
すれ違う軌道の岩に、アリアスは爪を添えた。
ばりばりと溝を掘るように岩を削っていく。摩擦で引き寄せられないよう尾で位置を調整し続ける。
ばがん、と岩を引き裂いて離れ、摩擦から解放されたアリアスの体は回転を始める。尾を振って姿勢を調整すると、今度は逆の爪で小さな岩を刺し貫いた。運動エネルギーを移した岩をそっと放り出し、次に近づいた石に同じように爪を立てる。
転々と岩に触れるように運動量を押し付け、速度を落とす。
「すごいな」
死神がぽつりとつぶやいた。
反作用すら予備動作とする兵役種の体捌きには、一切の無駄が見られない。
数少ない宇宙の石の転々と手掛かりにたどっていき、
「着きました」
最後に、見えていた巨大な細長い岩塊に、アリアスの足から着地する。
みしゃりと足が潰れ、横ざまに倒れた。
「あっ」
「うわっ! おいアリアス、大丈夫……なわけないな。なんでそんな無茶するんだ、お前は」
「すみません。でも、ぼくは、必要なことだと思ったんです」
「無茶はこれっきりにしてくれ。ここで休んでいろ。ここには氷があるんだよな? 取ってくる」
死神は労わるようにアリアスの肩を叩き、重力のない岩に黒杖を当てて器用に跳んでいく。
その後ろ姿を見て、アリアスは少し複眼に送る血液量を抑えた。
ひどく、疲れている。
だから、死神に声を掛けられて驚いてしまった。
「アリアス!」
「わっ! 死神さん? あれ? 氷を取りに行ったんじゃ」
「取りに行ったさ。お前、気絶していたんじゃないか」
「そんなこと」
答えかけて、べちゃりとアリアスの腕が水たまりを叩いた。
青い。血溜まりだ。
「おい……出血が全然収まってないぞ……! くそ、離れるべきじゃなかった!」
死神が素早く背後に回り込んで、傷の広さにめまいがしたように頭を抱える。
複眼はそんな姿まで捉えている。機能に支障はない。だが、体が重たいのは確かだった。少なくとも今は、戦うことはできないだろう。
アリアスのなくなった背中を真剣に見つめる死神に、アリアスは声をかける。
「そんなことよりも、死神さん。死神さんは、星海盤を作りたくないんですか?」
「そんなことじゃないだろ。それこそ私の話なんてどうでも」
「答えてください」
アリアスが、死神の言葉を遮った。
「お願いします」
「…………作りたくない、わけじゃない。完成させたい。完成したらどれほどいいだろうと思っているさ。でも、できるわけないじゃないか。宇宙は、あまりにも広すぎる……」
「それなら、置いてしまえばいいじゃないですか」
「何度も考えたさ。何日か仕舞っておいたこともある。後悔したよ。そのとき記録しなかったぶんを取り返すのに何年もかかった。やめられないんだ。星を見かけるたびに、宙が目に入るたびに、考えてしまう。図形、測量方法、公転軌道を。考えずにはいられない」
「それなら」
結論は出ている。
兵役種として、群れに生まれた個性として、星海盤の美しさを知る一人として。
アリアスは言った。
「完成させなければいいじゃないですか」
「……え?」
死神は、ぽかんとしてアリアスを見た。
「死神さんは、星を見るのが好き。そうですよね」
「あ、ああ」
「星を見るのが好き。見ていると、詳しく知りたくなる。観測して、記録して、星海盤として集めてる。それでお終い」
「お、お終い? と言っても、何も変わってないような」
「そうですね。でも、ひとつ変わっています。死神さんが、星を見る。星海盤はその結果です。星海盤のために星を見る必要はありません。ぼくは、それでいいと思います」
黒い手甲が胸元を、そこに忍ばせた星海盤を手繰る。
「完成、させなくていい」
「星、好きなんですよね」
「ああ」
死神は頷いて、見上げた。
空の星を。
「ああ、大好きだ」
死神さんは、とても優しくて、真面目だから、背負いこんでしまったのだ。自らが作り出した星海盤を。星海盤の存在意義を。
でもそんな必要はない。
「私はただ、自分の好きな気持ちに、もっと素直になってよかったんだな」
そうですよ。星が好きで観測をするなら、ただ星を好きでいればいいんです。
アリアスに視線を下ろした死神が顔色を変えたことで、アリアスは気づいた。
声が出せていない。
「アリアス、おい意識はあるか? 大丈夫なのか?」
「だい、じょうぶ、大丈夫です。死神さん」
意識して、今度は、ちゃんと声を出すことができた。
アリアスの安堵とは裏腹に、死神は面を俯かせる。
「……なあ、アリアス。実はひとつ、気になっていたことがあるんだ」
「なんですか?」
死神は、すぐに問いかけをしなかった。
黙する兜は、死神がどんな感情でいるのか、その手掛かりすら与えない。
「死神さん?」
「いや。本当に、本当に大丈夫なんだな?」
「はい。もちろんです」
「そうか。それならいい」
アリアスの返事に、死神はうなずいた。
何度も、何度もうなずいた。
「それなら、いいんだ」