宙を跳ぶけもの
宇宙が周囲を流れていく。
わずかに首を傾ければ、背後の彗星が自分たちを残して遠ざかっていく様子が見える。
重力圏を離れ、アリアスは死神を抱いて宇宙を流れていた。
「か……はっ」
「大丈夫ですか、死神さん」
死神はアリアスの肩にぐったりと体を預けたまま、ぽつりと言った。
「……この鎧でなければ死んでいた」
「すみません。群れから逃げるには、速度が絶対に必要でした」
アリアスは釈明しながら、長大な尻尾を振ってくるりと宇宙で体を翻す。左手側から流れてきたデブリを弾き、進行方向を微調整する。
その独特な手法を見て、死神は納得したように顎を引いた。
「これがお前たちのいう[宙跳び]か。どこまで航路を計算しているんだ?」
「ずっと遠くに大きい岩があります。氷のある岩です。そこに向かっています。6[燃焼単位時間]くらいかかります」
「だいたい4時間半か。速度は、秒速8キロ? ずいぶんと遠い先まで見通せるものだ」
死神は独自の度量衡で分析している。彼女の感覚に口出しせず、アリアスは自分の実感だけを口にする。
「ゴルテオは、ぼくの倍くらい遠くまで一度の[宙跳び]で行けました。でも、ネレイは爪がないから航路調整ができなくて、[蹴り継ぎ]が必要です。追いつかれることはないと思います」
アリアスの複眼では、彗星から兵役種たちが小隊を組んで宇宙を漂っている姿が見えている。たどり着く先も飛び移り方も、すべて計算づくだ。あのなかには、アリアスより上手に航路を定めている者がいるかもしれない。
「まったく、お前たちは凄まじい潜在能力を持っている」
死神の称賛にどう反応すべきか困り、アリアスは沈黙でやり過ごした。
宇宙は暗い。はるか遠くにまばらな光が散って見える。音もなく、光もなく、移動している慣性感覚もすぐに消える。
宇宙にあるのは、ただ体を寄せ合うお互いの存在感だけ。
「こう、なんというか、暗闇の宇宙を二人きりで飛んでいるのは……どことなく、ロマンチックだな」
死神の言葉にも、アリアスは反応しにくい。
ロマンチックってなんですか、と問える雰囲気のつぶやきではなかった。アリアスの群れ社会に小説や物語は存在しない。
この状況を肯定的に捉えていることだけはわかったので、アリアスは、そこだけをやんわりと訂正する。
「そうも言ってられません。そろそろ、デブリベルトに届きます」
「デブリベルトだって? こ、この速さでか? まずいんじゃないか?」
「まずいです。かといって、速度を緩めるわけにはいきません。目的地に追いつけなくなります。だから、このまま通り抜けます」
無茶な、と言いたげなまま硬直した死神の背中を軽くたたき、アリアスは彼女を促す。
「すみませんが、ぼくの首か胴体にしっかり掴まってもらっていいですか。デブリベルトを通り抜けるのに、両手と両足と尻尾を使います」
「わ、わかった。こんな感じで、いいのか? でもこれじゃ、抱き着くみたいだ……」
「突入します」
アリアスが腕を振り上げて、自身の体より大きいデブリに爪を添えた。
腕力で体を逸らす。背中すれすれでデブリを避けた。ぱちぱち、と岩に付帯する欠片が体に当たる。
「わああ!」
「じっとして。離れないでください」
次の小さなデブリは尾で弾き、大きなデブリは爪を立てて投げおろす。反作用で少しだけ加速する。
頭上に迫るデブリへ、体を上下反転させ、尾を巻き付けた。"尾の筋力"でデブリに沿って体を持ち上げ、そのまま尾をほどいてデブリを投げ捨てる。
くるくる回りながら爪でデブリを叩き、弾き、引っかいて、速度を落とさず慣性を微調整し、魔法のように無数のデブリをすり抜けていく。
巨大な岩塊に爪を立て、蹴り飛ばすように進行方向を微調整する。
ぱんぱんと両手の爪で石を弾いて、アリアスは通り抜けたデブリベルトを複眼で見やった。
岩の密度が急速に薄れて、宇宙は再び無の静寂に包まれていく。
「死神さん、ありがとうございました。抜けましたよ」
「も、もう抜けたのか……?」
死神は動揺しているようだった。蒼い光を手のひらに灯し、伸びる航跡を見つめる。
「加速してる……」
「公転軌道に合わせるわけじゃないので、速いほうが安全です。速すぎたら、それはそれで、減速できずに衝突してしまいますけど」
「はは……」
死神の吐息のような笑いはさておいて、アリアスは深呼吸した。
「死神さん。ひとつ、確認しておきたいことがあります」
「なんだ、アリアス」
「もう、星を観測したくないんですか」
絶句する気配が、触れ合う肌を通して感じられた。
「……なぜ、そう思う?」
「観測装置を"その気になれば"直せる、と言っていました。それ以外にも、少しずつ」
「勘がいいな」
死神はため息を吐いた。
細く、長い、寂しそうなものだ。
「死神さんは、星を見るのが好きじゃなくなってしまったんですか?」
「そんなことはない! 星を見るのは好きだ。見ていたら、ちゃんと観測して、記録したくなる。それは本当だ。……だがな、アリアス」
死神はアリアスの腕をつかんだまま体を離した。
なにもない宇宙で、大きく体を広げ、遥かな世界を見渡す。
「星は、いくつあると思う」
声が、とても寂しげだった。
「星を一つ記録するたびに。一つ発見するたびに。疲れてしまうんだ。好きで始めたはずなのに。途方もなく、終わりもなく、ましてや観測記録など必要のないものだ。私は何をやっているのか、時々疑問になる」
旅路の遠大さに対してだけではない。
歩き続けることのできない自分に、足を出そうと踏み切れない彼女自身に、落胆していた。悔しさでも虚しさでもない。静かな深い悲しさだけが、声に響く。
「死神さん、ぼくは……」
「すまない。気にしないでくれ、アリアス。ただの感傷だよ」
死神への返事を考える前に、アリアスは複眼を後ろに向けた。
デブリ帯を抜ける小さな粒を目に捉えている。追っている。営巣の兵役種たちだ。追いつかれはしないようだが、引き離すことは難しい。
「すみません、死神さん。もう少し余裕があるかと思ったんですが、ありませんでした。やるべきことをやっておきます」
「やるべきこと?」
「はい。ぼくたちの背中――共振器官は、音を鳴らしますが、"音"でコミュニケーションを取る器官ではありません」
「ああ、それは知っている。でないと[宙跳び]の間に断絶してしまうからな。音はあくまで副産物で、特殊な波を伝播していると聞いた」
「その通りです。それはぼくたちの生態ですから、意思でどうこうできるものではありません。つまり、ぼくは、自分で群れに自分の居場所を教えていることになります」
アリアスは両手の爪を掲げた。
岩をも断ち切る生来の刃を。
「待て……おい、待て。結論が見えたぞ。やめろアリアス」
「だから、ぼくは背中を削ぎます」
ぞぶ、と肉をかき分ける感触が不気味に体中に響いた。