殺意の咆哮
(ぼくは「なりそこない」だ)
ゴルテオが哄笑していた。誰もがアリアスを指して嗤っていた。
(ぼくは何もできなかった。何もしなかった)
何かを守ろうとした殺され役を。
守れなかったアリアスを。
むざむざ殺されに現れただけの顛末を。
アリアスの視界が赤く染まっていく。
(死神さんの夢を壊されそうになったのに、ぼくは、何もしなかった!)
カチカチと威嚇する爪の音も、アリアスの耳に入らない。
怒りと悔恨が胸中で吹き荒れる。視界が真っ赤になる。アリアスの体が震え出す。
成体の一人が近づいて、アリアスに爪を振り上げた。
ゴルテオが測定装置を蹴倒そうと足を掛ける。
ざわり。
十分に血を蓄えた複眼が、蠢く。
「装置に触るな、ゴルテオ」
ゴルテオは首をかしげるように頭を傾け、
「……アレ?」
そのままくるくると回し、頭を落とした。
首の切断面が、思い出したように青黒い血を噴き上げる。
アリアスに爪を振り上げた成体が、蹴り飛ばされて宇宙に吸われていく。発振器官の悲鳴が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
成体たちが首を巡らせて、アリアスに顔を向ける。
動作が、馬鹿馬鹿しいほどに遅い。
複眼の全てを稼働させるアリアスの視界には、それほど世界が緩慢に見えていた。
背中が震える。無意識に爪をバチバチと打ち鳴らしている。思考がまとまらない。殺意が昂る。
アリアスは大きく弾みをつけて、両腕を地面に打ち付けた。
殺意が溢れて、背中から解き放たれる。
「がららろおおおおおおおおおおおおぉぉ!」
咆哮。
薄い大気が吹き飛ぶ。散乱する硝子片が舞い上がった。観測装置がビリビリと響く。アリアスの全身が沸き立つ。
殺戮の狼煙だった。
成体の爪に爪を打ち合わせ、付け根から吹き飛ばす。
誰かの手足を切り飛ばす。
宇宙に放られた悲鳴がどこまでも遠ざかっていく。
崩れ落ちる体の食指をぶち抜いて、頭の天辺まで貫通させる。
発信器官の奏でる殺意の音色は、鳴り止まない。
嵐のように血風が舞い、弱い重力下で霞に漂う。
誰もアリアスに追い付けなかった。
誰もアリアスから逃げられなかった。
支配種と密接につながる成体は、同胞に対して兵役種としての全能力を解放することはない。未成熟な幼体は兵役種の身体能力に耐えられない。
アリアスだけが違っていた。
四肢を失った成体が、血の池を尾で掻いている。
アリアスは迷わない。体の中心に爪を突き立てて縫い止める。悲鳴に食指が限界まで広げられた。
これで死ぬほど兵役種は弱くない。とどめを刺すために爪を振り上げ、
「やめろ、アリアス!」
涼やかな声と、差し出された杖が邪魔をしてきた。
細切れの視界が、鈍い色の甲冑を、四肢を、兜を、走馬灯のように淡く思考に残す。巻き込まれた手や足といった成体の部品が、宇宙に吹き飛んで消えていく。
アリアスは目に映る鈍い色の影を、幾度も斬りつけ、殴りつけ、尾で打ち据えた――。
――血が、氷のように冷たい。
アリアスの複眼から、青い血が涙のように溢れる。
全身が血煙に濡れそぼち、熱のない宇宙に冷え切っている。
いつの間にか、視界は岸壁だけを写していた。アリアスの両爪は壁に深々と突き刺さっている。
爪をへし折ってでも殴ろうと暴れていた動きが収まる。アリアスの腕を押さえ込んでいた手甲が、確かめるようにゆっくりと放された。
「無事か、アリアス」
「ごめんなさい……」
「お前に怪我がなければいい。何も聞くな。何も、考えるな」
涼やかな声が、アリアスを諭す。それでもアリアスは「ごめんなさい」と呻き続けた。
観測装置は血に濡れて、崩れている。
アリアスは装置を守ろうとした。そのはずだった。
だが実際に誰よりも破壊したのは、アリアスの暴虐だ。
闘争本能に飲み込まれたアリアスは、我を失い、あろうことか死神を攻撃した。
心の底から殺そうとして、爪を向けて、殺意を向けた。
死神に守ってもらわなければ、身が朽ちるまで暴れていただろう。
「殺してくれればよかったのに」
アリアスには、もはや壁に刺した爪を抜く力もない。
死神の外套や鎧についた傷を見て、嘆く。
手甲の指先から、兵役種とは違う赤い色が滴る。
死神の血。
アリアスは慟哭する。
「不当に敵対した個体なんて、殺してくれればよかったのに! "約定通り"に!」
死神を侵害したアリアスは、殺されなければならないはずだ。
アリアスに温情を掛けるから、死神の観測装置は破壊された。アリアスが生きているから、死神は権益を損なった。
アリアスは生きているべきではない。
殺され役は殺され役らしく、死ななければならないのだ……!
がちり、とアリアスの視界が跳ねた。
傾いた視界を直し、腕を振り抜いた死神を見て、ようやく理解する。
手甲で殴られたことに。
「二度と、私の前でそんなことを言うな」
死神が、明確な怒気と、それ以上の悲しみを湛えて、強く語る。
「私が盟友と認めた者を『死ね』などと愚弄するのは、たとえアリアスでも許さない」
その言葉の意味を、アリアスは理解できなかった。
盟友とは、誰のことだろう? 誰かを愚弄したつもりなんて、なかったのに。
死神はアリアスの腕に手を添えて、壁から爪を引き抜いた。
まだ弱く、未熟な兵役種の爪は、刃毀れが著しい。
手甲に覆われた指が、爪の傷を優しく撫でる。
「観測装置を、守ろうとしてくれたのだろう?」
「でも結局……」
壊してしまった、というアリアスの言葉を制し、死神はうなずいてみせる。
「でも、は要らない。志を持って、動いてくれた。それでいいんだ。それが、私には嬉しいんだ」
死神は懐から、肉厚の円盤を取り出した。蒼い光の宿る小さな世界。星海盤。
光を広げずとも美しい、宝石を散りばめたような盤に魅入られる。そんなアリアスを、死神は見つめている。
「きみは、私と同じ夢を見てくれたんだな。そして、この夢に、命を懸けてくれた」
破られていない食指に五指が添えられ、アリアスは顔を上げた。
「同じ夢を懐いたなら、きみはもう、たかが群れの一員じゃない。私の同志で、盟友だ」
背中が、震える。
初めて星を見たときと、同じ音が発信器官から溢れ出る。
死神はアリアスを、盟友と呼んだ。
熱に浮かされるような、遠い[宙跳び]をしているときのような、不思議な高揚感がアリアスを満たす。
死神は観測装置の残骸を見て、混然とした感情を吐露するように、つぶやいた。
「ありがとう、アリアス。とても嬉しかったよ」
舞い上がっていたアリアスの脳裏が、ふいに沈む。なんだか、なにかが。
違和感に思いを巡らせる前に、
「その、少し頼みにくいことなんだが……いいだろうか?」
「なんですか、死神さん」
アリアスから顔を背け、しかし視線は向けたまま。
死神は言いづらそうに声を絞る。
「名前で呼んでも、いいだろうか? せっかくの、なんだ。友、であることだし」
請われたことのあっけなさに、アリアスは拍子抜けした。
返事のないアリアスに、死神は「私の母星では名前で呼ぶのが親愛の証だから」とか、「盟友なら対等であるべきだから」とか、くどくどと理屈めいたことを焦ったようにこね回す。
"死神"という呼び名から、あまりにもかけ離れたその姿に、アリアスは笑いを堪えきれない。
「あ……な、なにが可笑しいっ! おいアリアス! いいのか、悪いのか、どっちなんだ!」
「ごめんなさい、ふふ。もちろん、どうぞ」
アリアスの笑いに不貞腐れたような死神は、むすりと腕を組んで顎を引く。
そんな姿に、アリアスは声をかけた。
「ぼくも、死神さんの名前を教えてもらってもいいですか?」
「……は?」
死神は呆けたようにアリアスを見て、
激昂した。
「なっ! なにを馬鹿なことを言っているんだ!? わっ、わっ、わたしたちは全然っ! そういう関係じゃないだろうっ!?」
「それが、対等で、親愛の証なん……じゃ? 違うんですか?」
死神は動きを止める。
「あっ」と声を上げた。
「いやっ、違うんだ。名前を呼ぶのは女から男に対してだけで、私の部族では、女の名前は夫以外には字で呼ばせることになっている。つまり、名前を聞くのはプロポーズも同じで……その、だから……すまない」
ようやく動揺が収まったらしい。大きく荒らげていた声を落ち着かせる。
肩を落とし、アリアスに頭を下げた。
「私に対しては、いつも通りで頼む」
「わかりました、死神さん」
おんなって何だろう、とアリアスは思った。




