死神さんは学者さん
「死神さん、死神さん」
アリアスは死神の部屋を追い払われた。外の安全を確認した死神に、「また狙われたらいつでも逃げ込んできて構わない」と言付かったうえで。
だが営巣に住まう全ての同胞に狙われているアリアスに、命の危険は常のものだ。毎日訪れるとは予想していなかったらしい死神は鼻白んだが、姿を見せる度に新たな流血を伴うアリアスを追い払うことはなかった。
出血が止まるまで岩戸の脇に佇むアリアスは、そうなれば暇を持て余す。
見えるもの全てが珍しいとなれば、若い好奇心を抑えることは難しい。
「ねぇ、死神さん。それは何ですか?」
首を伸ばして机を見つめるアリアスに、死神は溜め息を交えて振り返る。
「ずいぶん気軽に呼んでくれるな。不興を買って殺して貰おうって魂胆なら、叩き出すぞ」
「それだけじゃなくて本当に気になって……あっ」
「マヌケめ」
一際大きな溜め息を吐いて、死神はアリアスの視線をたどる。
「どれが気になる?」
「机の、紙に乗せてあるピンクの粉です。変な瓶のとなりの」
「変な瓶ではなくフラスコと言え。それは指示薬だ。光析分離させたガンマ放射線を当てると変色する」
「ふぅ、んん?」
「分からんか。まぁ、そうだろうな。これは私が悪かった」
ふぅむ、と吐息。これは死神が少し考えるときの癖や習性のようなものだとアリアスはもう理解していた。
「そうだな……光年やパーセクの概念は知っているか?」
「分かりません」
「そうか。いや構わん。これは、星の距離を計る道具のひとつだ。その星とどのくらい距離があるのかが分かる」
アリアスは首をかしげた。
「そんなの、見たら分かるんじゃ?」
まったく本心からの疑問に、死神は声を上げて笑った。清流が立てるさざ波のように透き通った声。
「きみらは、支配種の探査があるからな。そう思うのも無理はない。これはな、肉眼では見えないくらい遠い星を調べるのに使うのさ」
「ん、んん? そんな遠い星を、わざわざ道具を使ってまで調べるの? ……なんで?」
「別に、襲撃も収穫もしないよ。そういった意味の理由なんてない。だけど、私は学者だからな。無駄でもなんでも、調べたいものは調べる」
「死神さんは、学者さん? 死神さんじゃなくて?」
「ぴんとこないかもな。私は死神などと呼ばれているし、実際、きみたちを殺すくらい造作もない。だが、不可侵契約を結んで……つまり、殺戮と占領をせずに場所を借りるのは、私にとって争いはなんの得もないからだよ」
死神は語りながら、机に広げた器具のひとつに手を伸ばす。いとおしげに撫でる手つきは優しく、アリアスの知らない、慈しみという概念が込められていた。
「私は学者だ。殺して回る暇があったら、こうして器具を広げて観測を始めたい」
兵役種であるアリアスに理解できる理屈ではなかった。しかしアリアスは、死神にとってとても大事なことだ、と正しく理解することができた。
鉛色の兜を介してさえ、子供がおもちゃで作った自分の世界を見るような、はしゃいだ気持ちが見えたから。
「死神さん。あなたは、なにをしているの? こうしてぼくたちの営巣を巡ってまで」
死神が動きを止めた。
あれだけ気安く話していたのが嘘のように、唐突な静寂が部屋に差し込まれる。
しゅうしゅうと酸素の焚かれる音がやけに大きく響いた。
まずいことを聞いたのか、とアリアスは硬直する。詫びの言葉も出てこないのは、アリアスにとって、綺麗な光で殺してもらう大きなチャンスだという意識が心のどこかにあるからだ。
ゆっくりと、厳かに振り返った死神が、言葉を発する。
「見てみたいか?」
「……はい」
アリアスは少し腹を立てた。
沈黙は、ただ勿体ぶるだけの、稚気の表れでしかなかったようだ。
ただアリアスは、「死神」に対して腹を立てられるほど気を許していることには気づかなかった。
死神は部屋の奥から屋外へとアリアスを案内した。
展望台、という概念をアリアスたちは持たないが、そういった役割を場所に与えていると察せられる。
アリアスたちの営巣。宇宙に流れる岩塊を、死神は「彗星」と呼ぶらしい。
営巣の限られた平地。その中央に、大小様々な円を組み合わせた計器と、それらを貫く長い筒が設えられている。
「儀式礼装の大砲みたいですね」
「そう言われれば、そう見えてくるな」
死神は笑みを含んだ声で応じる。
秘蔵の宝物を見せる子供のようで、得意げに浮かれていた。
「この測定器は全て役割があり、どれを欠いても精確な測定ができなくなる。だから実際は合理性と機能性の塊で、儀式めいたところはひとつもないんだ。……ほら、来たまえ」
砲台の下端にかしずく死神がアリアスを手招きする。
「触れるなよ。ずれたら大変だ。ここに微調整用の覗き穴がある。……ええと、きみの目でも見えるかな」
「試してみます」
宇宙放射線に複眼が焼かれても、今さらアリアスに失うものはない。アリアスはひょいと望遠鏡を覗いた。
まず見えたのは、紫と緑の混じった蠢く虹だ。その周囲や奥に、大きさも色も、輝くの強さも様々な光がちりばめられている。
アリアスが普段見る宇宙とはまるで違う、色彩豊かな世界がそこに切り取られていた。
アリアスは小さく区切られた視界の中だけでも星を数えてみようとした。無理だった。とても多い。アリアスたちの優れた複眼が辛うじて捉えられる、小さな光さえ含めれば、とても認識できる数ではない。
すごい。アリアスはそうつぶやいて、背中を畏怖に震わせた。未だかつて聞いたこともない音が発振器官からあふれる。
青い光。赤い光。外縁をかすめる塵のようなもの。あの渦巻きはなんだろう。この鏃型の光は、どうしたらこんな形になるんだろう。
「そろそろ、いいかな?」
死神の声に、アリアスは思わず望遠鏡から飛び退いた。
背中から壁に衝突して、情けない音が漏れる。
アリアスは自分が信じられなかった。思わず夢中になって、傍≪かたわ≫らに死神がいることすら忘れて、小さな穴の景色に見入っていたことを思い知ったのだ。
死神は怒っていない、それどころか嬉しそうにアリアスを見ている。
「夢中になってくれて嬉しいよ。さて、私がこれを使ってなにをしているか、という話をしていたのは覚えているかな」
「もちろんです」
「それはよかった。私はこれで全ての星を測定している」
死神はそう言って、遥かな宇宙を見上げた。
肉眼で見上げる宇宙には、星が疎らに見えるだけだ。望遠鏡で覗いたような鮮やかさや賑やかさのない、極限の世界。
この向こうに、あんなにも綺麗で豊かな光が賑々しく広がっていると思うと、アリアスの胸に不思議な爽やかさが吹き抜ける。
「って、あの星ぜんぶを調べてるんですか?」
「そうだ。以前この周回を訪れたときは、ガス星雲に遮られて見えない部分があったからな」
つまり、望遠鏡で見える範囲は、ごく限られた一部の、しかも取りこぼしでしかない。
アリアスはめまいがするようだった。見える範囲だけでも数え切れない星があるのに、それを、ぜんぶ?
「私の苦労がわかってもらえたかな? 死神と呼ばれてもなお、いちいち戦争をしている暇はないのだよ」
死神はおどけるように笑う。
この大変な事業も、何でもないことのように。
「そこまでして星を観測して、どうするんですか?」
「観測したら、記録する。私は、記録を完成させたいだけさ」
死神は懐から肉厚の円盤を取り出した。
アリアスは目を凝らす。正しくは、蒼く光る粒でできた、円盤状の靄≪もや≫だ。
「きみになら、見せてもいいだろう」
含みのある笑みを言葉に乗せた死神は、円盤を広げる。
輝きが舞った。
「うわっ! うわわっ!」
アリアスが狼狽える、その回りにも粒子は広がって行き去っていく。
まるで静かな光の爆発だ。
光は方々に飛び散って、やがて定められたように動きを止める。
光の粒で作られたドームが、展望台に作られていた。
「わあ……!」
アリアスの背中から、再び珍しい音が溢れる。
一面が死神の蒼い光で包まれている。どこを見渡しても、美しい光の配置がアリアスを待っていた。すごい。アリアスは言葉を発することさえ忘れて、光の世界に魅入られた。きれいだ。
きょろきょろと粒子の海を見渡すアリアスは、不意に既視感に襲われる。兵役種の優れた識別能力が疑問を答えに導くまで、さほど時間を要さない。
「あっ、この蒼い靄、もしかして」
「もう気付いたか」
驚いて振り返ったアリアスを、死神の鷹揚な頷きが出迎えた。
アリアスは信じられない思いで、もう一度蒼い光で再現された靄を、その向こうに広がる光の配置を覗きこむ。
それは、一分も違わず、望遠鏡で見た宇宙の景色そのものだ。
いや、きっと、ここだけではない。
アリアスと死神の回りに広がる輝きの全て。蒼い光の全てがそうなのだ。
アリアスの胸に吹き込む爽やかな風と、珍しい背中の音色。
感動、といわれるもの。
死神は己が観測の記録を、両手を広げて誇った。
「これが、私たちのいる、宇宙だ」




