03 - なら、見返すしかないじゃない?
「あ」
しまったな、と想う前に、気づくべきだった。私の悪い癖だ。
改善することに集中しすぎて、他に配慮すべきことを忘れてしまう。
「あら」
驚いたわ、と言った口調で茉莉が呟く。
階段の踊り場、方向転換には場が悪い。
バツが悪いのは、相手が怒っているだろうか、という不安じゃなかった。
ここ二週間ばかり、茉莉に会っていなかったという不安……それが、今更に湧き上がってきたから。
――彼女は、この二週間、いったい誰と過ごしてきたのだろうか――
胸中の不安。忘れていたのに、消していたのに、またその想いがよみがえってくる。
他愛のない、本当に他愛のない、気まずい数日振りの友人との再会。
(それだけ、それだけのことのはずよ)
なのに、今日の茉莉はとても、いつもの親友らしからぬ近寄りがたさを感じさせる。
「あ、あの……さ」
口をパクパクとさせながら、もしかすると、と想う。
回りの友人が語る、私の中の感覚と異なる、周囲にとっての茉莉の認識。
まるで見えない壁があるような、それでいて触れられる存在でもある、不思議な距離感。
――これこそが、皆が茉莉を遠い存在だと呼ぶ、理由なのかもしれない。
眼が、私を見ている。
笑っているような、怒っているような、窺うような、からかうような、底の知れない瞳。
(――ああ)
なんだか、とてもとても、胸の奥がざわざわしてくる。
他人を嫌いだなんて、憎いだなんて、ましてや怒っているだなんて、本気で想ったことはないはずなのに。
(どうして、私ばっかり、心配して)
彼女は、違う。
彼女に出会ってから、私はぐらぐらしっぱなしだ。
からかわれて、遠ざけられて、はぐらかされて、それでいて――。
(茉莉からは、何も言ってこないわけ?)
心のざわめきが静まり、代わりに、グツグツと煮えたぎるものが奥底から沸きあがってくる。
その瞳。その瞳を見て。
私は、覚悟を決めた。
吐き出さなければ、こちらがその黒いものに飲み込まれてしまう。
奥にあるもの、埋めてはいけないもの。
それを、言葉にしなくちゃ。
「……今日は、その、アンダーソン先生の講義があるけど」
「あるわね。あなたの苦手な、けれど、とても大切な講義」
「そう。だから、その……」
一歩。そう、たった一歩。
「一緒に予習しながら、教室へ行ってくれない? ……私に、あなたのことを教えてほしいから」
言葉を吐いても、やっぱり私はとても緊張している。
黒いものが、心にわきあがって――周りの殻が、はがれてゆく。
「ええ。喜んで」
茉莉はにっこりと微笑んで、それでいて窺うような眼はやめなくて、こちらの瞳を見つめ返してくる。
――やっぱり、駄目だ。
心の中のドロドロがはがれて、中からすっと湧き出る、奇妙な愛しさに塗りつぶされてゆく。
「久しぶりね、茉莉。なにをしていたの?」
その二つの綺麗な瞳に、見つめられたら。
なぜだが私は、とても冷静になってきた。
茉莉だけに、見られているという――不思議な安心感を、感じられたからだ。
こちらを見つめることに、迷いのない、彼女の瞳。
その奥に光る、いたずらっ子のような、常に揺れ動く不安な輝き。
私を撹乱することのみに、その瞳は本当に光り輝く。
それを知ってしまった、あの日から。
――私は、彼女に夢中になってしまったのだ。
――なら、見返すしかないじゃない?
不安はあるけれど。
不安に感じる必要などなかったのだ。
彼女が悪戯の瞳を輝かせるのは、凛子という自分に対してのみ。
ああ、実にくだらない。
――不自由はしていなくても、退屈をしていそうなのが、茉莉という人間。
――なのに、それを想いだせなくなっていたなんて。
――別に不自由していないからといって、それが、自分以外の他者だという話を茉莉はしていなくて。
――そして私という人間が、それを誤解することを、茉莉という人間は知っていて。
――厄介なことに、それを楽しむ類の人種なのだと、ようやく気づいて。
あまりにもくだらなさすぎて、くだらない勘違いすぎて、少しばかり恥ずかしい。
そんな内心に気づいているのかいないのか、くすくすと笑いながら、茉莉は私の質問へと口を開く。
「待っていたの」
「待っていた? いったい……誰を?」
期待するような含みが、少しばかり言葉に漏れてしまったのは、失態だなと想う。
私の失態に気づいたのかどうか、わからなかったけれど、茉莉の答えは答えじゃなかった。
「あなたはいったい、なにをしていたの?」
「なにをしていた? そうねぇ……」
こちらもくすくすと笑って、茉莉の言葉を受け流す。答えなど、きちんと返す必要はない。
だって、答えは……お互いに、知っているのだから。
「あなたが寂しがってると想って、帰ってきてあげたのよ」
「そうね。あなたが寂しがってると想って、待っててあげたのよ」
そうして、二人一緒に瞳を見つめあい。
微笑み合って。
ものの見事に、講義には遅れてしまったけれど。
一人じゃない二人の時間が、戻ってきたのだった。
「で、凛子。ジュース代は十一ね」
「心は真っ黒ね、茉莉」
「わたしを待たせるから、黒くなっちゃったのよ」
あなたのせいね、と微笑む茉莉。
……まあ、いつもどおりに戻ってきたのだった。
「ふふ……」
想わず、笑ってしまうほど簡単に。




