失われた言葉
ドクン、と身体を震わせる音が鳴る。
それはゆっくりと、けれど確実に速くなる。
その律動的な響きは何故か懐かしい。
そうだ。
これは、鼓動だ。
真っ暗な世界に、少しずつ光が射し込む。
眩しいのではない、ほの暗い光。
私は大きく息を吸い込む。
どうしてか、そうしないといけない気がした。
息を吐き出すと同時に、頭がひとりでに浮き上がった。
私は床に寝そべっていたようで、何かに無理やり上体を起こされた。
頭の中に響く、ぶちぶちぶちっという音が痛々しい。
これは、私の髪の毛が千切れる音?
それにしては痛くない。
訳が分からないまま、私の顔は上を向かされる。
私の目の前には、瞳孔の開いた赤い眼が並んでいる。
誰だ。
「イヤァ、さすが、アンタ素質あるよ。大抵はグチャグチャになって終わりなのにサ。俺のコト覚えてル?」
「誰」
「ヒャハ。覚えてないカァ。マア、いい。そういや、アンタ名前ナンだっけ?」
名前?
誰の。私の?
………何だっただろうか。
「……名前?」
「…ア?もしかすると、アンタ何も覚えてナイのか?クフ、こりゃアいい。勇者のコトも忘れちまったんだろうなア」
「……?」
「おっもしろいネェ!アンタは今からアンジェリカだ。いいか、アンジェ。これから俺がアンタの主人ダ。分かったカ?」
「…はい」
私の主人だと言う人は、掴んでいた手を放り投げるように離し、変な笑い声を上げながら去っていった。
何だったのだろう。
……まあ、どうだっていいか。
とりあえず分かるのは、私の名前がアンジェリカということと、あの変人が主人であるということだけだ。
知らなければならないこともあるのかもしれないが、特に興味が湧かない。
それにしても、薄気味悪い部屋だ。
正方形の造りのようで、四つ角には青く揺らめく炎が漂っている。
下を見ると、黒い床に赤い液体で何かが描かれている。
二重の円の中に複雑な紋様が塗られていた。
まるで何かの儀式を行うかのようだ。
何にしろ、私には関係のないことだろう。
興味をなくし、部屋に唯一ある扉へ向かう。
私の主人はここから出ていった。
出るなと言われていないのだから別にいいだろうと扉を開ける。
まあ、出ていいとも言われていないが。
扉の先には、長い廊下が左右に続いている。
どちらとも先が闇に包まれており、このまま進んだとしても突き当たりに辿り着けるとは思えなかった。
横幅自体はさほど大きくなく、人が3人並べば狭いくらいだろうか。
少し歩くと、また別の扉を見つけた。
後ろを向くと、向き合うように扉がある。
どうやら、等間隔で廊下を挟んで向き合う形に扉を設置しているらしい。
似たような扉が幾つもあり、しかも部屋の名前が1つも書かれていない。
これは覚えることは出来ないだろうと確信する。
私は適当な扉を開いた。
何でもいいから早く眠りたい。
何故だか身体が重い気がして、立っているのが億劫なのだ。
開いた先には、長いテーブルが置かれていた。
テーブルクロスもひかれており、食事をする場所なのだろうかと首を傾げる。
それにしては殺風景な気がする。
部屋は先程の造りと似ていて、壁も床も黒い煉瓦で構成されている。そこに、ただテーブルと椅子が置かれているだけだ。
テーブルもいやに長い。私が食事をするときには、小さなテーブルなのに二人で食べて、だけどそれが嬉しくて、楽しくて。
そこまで考えて、思考を止める。
私、覚えてる。
でも、これは何の記憶?
自分の名前も思い出せなかったのに、何故この記憶はあるのだろうか。
知らない。分からない。
そんなことどうでもいいではないか。
私はアンジェリカ。
それでいい。
余り難しいことは考えたくない。
ふっと顔を上げると、向こう側のテーブルの端に私の主人が座っていた。
こちらを見て、にやにやと嫌な笑みを浮かべている。
不快だ。
「何」
「ソコに座れ」
すると、独りでに椅子が後ろに下がった。
何かに寄りかかりたいと思っていたので、素直に座る。
カチャン、と机の上から音がした。
見ると、いつの間にかどろどろした黒い何かがのせられている皿があった。
私が主人を見ると、主人は指を組み、その上に顎をのせた。
やはり、気味の悪い笑みのままだ。
「サァ、食え」
「嫌」
「何故ダ」
「気持ち悪い」
「……チ」
大きく舌打ちしたと思ったら、皿の上のものが、分厚い焼かれた肉に変わっていた。
もう一度、食えと言う主人に、私は抗議した。
「無理」
「……何故ダ」
「食べる道具がない」
「…チ」
ガチャン!と大きな音がすると、目の前にナイフとフォークが無造作に置かれていた。
私はそれを持つと、肉を切り口の中に放り込む。
着実に肉を減らしていく私に、主人は特に声をかける訳でもなく、ただ静かにそこに座っている様だった。
私が食べ終え顔を上げると、すぐ目の前に主人がいた。
長かったテーブルがどうしてか短くなり、机の上には私が食べ終わった皿、それにナイフとフォークすら消えている。
指から肘程の長さしかないテーブルを乗り出して、主人は笑う。
「アンタ、運がいいナ。ソレを食べなかったラ、俺はアンタを殺すツモリだった」
「そう」
「……アンタ、俺が怖くナイみたいだナ。叫んダり、逃げ出そうとしてモ、殺すツモリだったのニ」
「何でそんな面倒くさいことしなくちゃいけないの」
「…ヒャヒ、面白いヨ、アンタ。気ニ入った。ちなみニ、コノ屋敷は俺の魔力で作られてイルからナ。俺が思う部屋にシカ繋がらナイことになってイル。アンタの行きたい部屋ニハ、辿り着けるとは限らナイ」
それを聞いて、私は思い付いたことをそのまま口にする。
「それなら、常に主人と行動していればいいということ?行きたい部屋へは主人に言えばいいんでしょう」
「………クッヒャヒャヒャ!怖いモノ知らずってヤツなんだろうナァ、アンタ。特別ダ。アンタは行きたい部屋ヘ行かせてヤル。ただし、俺が許可した部屋ダケだけどナ」
「そう。ありがとう」
主人は私がそう言うと笑みを消し、動きを止めた。
だが、それはすぐにまた、にやついた笑いに変わり、主人は目と鼻の先程の距離まで近付いてきた。
「……俺は、ガロンだ」
「ガロン」
「そうダ。ガロン。ソウ呼べ」
「はい」
返事をすると、ガロンは赤い目を細め、消えた。
私は立ち上がり、ベッドのある部屋へと向かう為、扉を開こうとドアノブを握ると、後ろから重量のある物が落ちる鈍い音がした。
振り返ると、そこには机と椅子は無くなり、大きな天蓋付きベッドが元々あったかのように置かれている。
私はベッドに潜り、目を閉じた。
身体を横たえると、怠く感じていたものがどっとのし掛かり、私はすぐに眠りについた。
「オヤスミ」
懐かしい響きが、聴こえたような気がした。
ガロンは、1日に何度かは私と接触する機会を設けているようだった。
時々、扉に鍵がかかっている時と扉を開いても私が思う部屋に繋がらない時がある。
後者には必ず、ガロンがいつもの笑みを浮かべて待っているのだ。
そうして、私に1つ何かを残して消える。
4日前は、確か黒い草だった。3日前は、黒い紐だった気がする。2日前は、黒い布だっただろうか。昨日は、黒い箱だった。
……黒い物が好きなのだろうか。
また、ガロンなりのルールがあるのか、私の食事の際にはガロンが用意し、私が食べているのをただ見ている。
何が面白いのか分からないが、黙って見ているだけなのだ。
ガロンはよく分からない。
私はここでは、気儘にしたいことをして過ごしている。
ただ何も考えないでじっとして1日を過ごす日もあれば、ただ歩き回って過ごす日もある。
まあ、したいことと言っても、特にはないのだが。
私はどこか人間としての機能を失っているようで、生理的欲求がないこと、痛みや感情が希薄なことに気が付いた。
だからと言って、不便なことはなにもない。
今日も私は、ここで静かに過ごす。
今日は何となく、外に出てみたくなった。
私は扉を開けた。
けれど、そこにいたのは、笑顔のガロンだった。
今日は何をくれるのだろうと動かずにいると、意外にもガロンは話しかけてきた。
「残念ダナ。外には出さナイ」
「そう。それならそれでもいい」
その返答に満足したのか、ガロンは私に「手を出せ」と言った。
私は右手の手のひらを上に向け、ガロンに差し出した。
すると、手の上に硬質な黒い輪が落とされた。
私はそれを手に取り、近くで眺める。
これは。
「指輪?」
私は黒い指輪を自分の左手の薬指にはめ、天井に手を翳すように見上げる。
嬉しい。一生大事にすると心に決め、私は笑いかける。
私の、愛しい人に。
しかし、そこには誰もおらず、私は我に返った。
今、私は、ガロンと誰を重ねようとしていた?
分からない。顔が、思い出せない。
けれど、確かにいる。
私の記憶の中に、いるのだ。
愛しいと、そう思う誰かが。
いや、そんなこと考えなくていい。
今の生活にそんなもの不要だ。
私は指輪を外し、ガロンから与えられた袋へと入れる。
私の部屋だという所に直接つなげられているこの袋は、昨日ガロンが私に、食事の後渡してきた物だ。
恐らくあの指輪は、ベッドのある私の部屋のどこかに落ちているだろう。
1人で納得し、目を閉じる。
暫くして目を開けると、目の前にガロンが立っていた。
相変わらず、にやにやとふざけた表情をしている。
「嬉しいカ?」
「いいえ」
「……何故ダ」
一瞬、ピクリと眉を上げたが、またいつもの笑顔に戻る。
私はガロンから目を逸らさず答えた。
「だって、ガロンはあの人じゃないから」
視界がぶれたと思ったら、ガロンが私を押し倒していた。
そして、首に手をかけられた。
圧迫されているのは分かるが、苦しいとは感じない。
やはり私はどこか人間として欠けてしまっているようだ。
私はだんだん締まる首に意識が薄れていくのを感じながら、ガロンを見る。
ガロンはいつもより笑みを深めながら、私を見ている。
ガロンは私と目が合うと、更に力を入れた。
「……ドウした?何故ソンナ顔をしてイル?足掻け、もがけヨ。何で、苦しまナイ!」
視界がぶれていく中、私は答えた。
「……ガロ…のが、……苦し、顔……して、る………」
その瞬間、ガロンは消え、私は圧迫から解放された。
私は咳き込んだ後、荒いながらも呼吸を繰り返す。
人間の本能として、息を性急に取り入れているみたいだ。
ガロンのあの表情、見覚えがある。
よくあの人がしていた表情だ。
顔も分からないのに、何故その表情だけ覚えているのか。
難しいことは考えたくない。
ただ、分かること、それは。
ガロンは、悲しいと、そう思っていたということだけだ。
何か悲しいことでもあったのか。
私は荒い呼吸のまま、理由を考えてみるが、早々に諦める。
ガロンの思考が把握出来れば、苦労はしない。
それからガロンが、私の前に現れることはなかった。
ガチャリと扉を開けると、ガロンがいつもの笑みを浮かべて立っていた。
いつぶりだろう。そんなに経っていない気もするが、長くあの笑顔を見ていない気もする。
私がガロンの顔を見ていると、ガロンは目を細めた。
ガロンが話す様子が見られないので、私から疑問を投げ掛けることにした。
「ガロン、何故出てこなかったの?」
「……本気で言っているノカ?」
珍しく眉を潜め、信じられないという表情をしたガロンに首を傾げる。
「意味が分からない」
「………アンタは、本当に面白いナ。アンジェ」
キヒヒ、と笑うガロンに、変わらず気味が悪いと思いながら佇む。
その笑いをピタリと止めると、ガロンは私の鼻があたりそうな位置に鍵を差し出した。
いちいち距離感が可笑しいなと感じながら、それを受けとる。
「ソレは、今まで開けようと思っテモ開かナかった部屋の鍵ダ」
「……書斎?」
「ソウだ。正確ニハ、図書館と言っテモいい。ココは本来、魔法使いが住んでイタ屋敷ダ。俺は物を若干変質させタリしてモ、取り替えタリ、破壊シタリはしてイナイ。面倒だからナ」
「そう」
「ソノ図書館には、多くの知識ガ詰め込まれてイル。アンジェは、知りたいカ?」
「別に」
「ククッ、マァ、コレは預けてオク。気が向いたトキにでも、開けてミルといい」
そう言うと、ガロンはぱっと消えた。
残されたのは、右手に握っている黒い鍵だけだ。
私は、服に唯一つけられている収納袋にそれを入れる。
知らなくていい。
知って、何になる?
このままでいい。こうして大人しく過ごしていれば、楽に過ごせる。
私は、苦しみたくない。
辛いのは、もう嫌だ。
私の頭の中に、顔も思い出せないあの人のことが浮かんだけれど、黒く塗り潰した。
私はアンジェリカ。ガロンに飼われるアンジェリカ。
名前も思い出せない私に、蓋をして。
愛しいと思う、この気持ちと一緒に。
さあ、ガロンが待っている。行かなければ。
………あれ、私は何を考えていたのだろうか。まあ、どうでもいいことだろう。
私はいつもと同じように扉を開ける。
扉は、鈍い音を立てて、固く閉じられた。




