1.注文と独白
朝、起きてすぐに窓を開ける。昼間よりも冷たい空気が頬を撫で、肺を満たす。
かすかに甘く感じられる古い木の匂いと、芽吹いたばかりの草独特の青い匂い。その二つが混ざり合い、すっと目が覚めるような爽快感を与えてくる。
渇いた喉を空気が刺すが、その痛みなどこの爽快感の前には無に等しい。
少し明るすぎる太陽の光に目を細めつつ森を眺めていれば、がさりと音を立てて遠くの茂みが揺れた。
風や小動物ではありえない、大きく強い音。
反射的に、その辺に放り投げてあった獲物をこちらへ引き寄せる。
が、そんなイェルドの警戒は徒労に終わった。
「イェルドさーん!いらっしゃいますかー!」
茂みの中から出てきたのは魔物などではなく、やたらと溌剌とした笑顔の爽やかな青年だった。
こちらへ何か届け物があれば毎回運んでくる、街の配達員。そして、イェルドに対して謎の好意を向けてくる人間の一人。
名前は確かエドゥだったはずだ。
「そんな大声で呼ばなくても聞こえてる。どうした?」
声をかけると明るい瞳をさらに輝かせこちらへ駆け寄る。
「イェルドさん!手紙届けに来ました」
「ああ」
戦争や魔物による大規模な獣害でもあれば別だが、注文の手紙はたいてい一週間に一通程度だ。それくらいが忙しすぎずちょうどいいと思っている。というか二週間に一通でもいい。
「そんな嫌そうな顔しなくても……イェルドさん一応商人でしょうに」
ほらほら、と手紙を差し出すエドゥを見て軽く口を歪め、手紙の封を手でちぎる。
それはいつも通りの注文書だった。北の国と隣接する関所からさらに北の方角へ、馬に乗って1、2日で着く町からだ。量も大したことはない。
しかし、武器の種類を確認して思わず空を仰いだ。
「歯車技術を使うのか……」
「えっ」
歯車技術。少数の専門家にしか扱えない、高度な技術。
細かい部品をいくつも組み合わせ、小さな労力で圧倒的な力を生みだすものだ。
鉱石や薬を混ぜ強力な毒を作り上げたり、小さな火種を放り込むだけで魔力のない者でも炎と暴風による被害を与える薬品を作ったりするものもある。
そして、それは知識と加工技術があればその辺の丸太でも武器に変えられる。それでも知識がなければ作り方など見当もつかない。だからこそ歯車技術を使った物は高価だ。
イェルドはその専門家の一人だった。だからこうして辺鄙なところに住んでいても注文が来るし、他人に比べて仕事をしていなくても余裕がある。
独り言を聞いた エドゥが慌てた様子で声をひそめる。
「ちょ、注文内容ってそんな簡単に口に出してもいいんですか!?」
「この町の注文は理由を知ったら納得するだろうし、後ろ暗い事もない。後腐れも恐らくない」
それに歯車技術は幅が広い。その中の何を使うのか知られなければいいのだ。
万一この情報が漏れたとしても、具体的な事を知らなければ対策などできない。
その町では数ヶ月前の冷害によって生活できなくなった農民が盗賊になり、市場を荒らす事が度々あったそうだ。
大抵は良心の呵責に耐えかね自分から罪を償ったが、一部の者は味をしめた。
衛兵を市場に常駐させる事は難しいため見回りを強化したが、あまり効果はなかったらしい。
身軽な盗賊と、軽い方であるとはいえ鎧を着込んだ衛兵。どちらの足が速いかといえば、無論前者に軍配が上がる。
当然といえば当然だった。
「で、根城を潰せばなんとかなるって事で今頑張ってるんだと」
「最後すごく説明適当になりましたね。でも納得しました」
「まあ、納得してもらわなきゃ困るところだった。大変残念なことに今から大仕事だ」
「部品すごい細かいですもんね……じゃあ、そろそろお暇します」
「じゃあな」
「はい、また来ます!」
仕事が嫌になり始めたのはいつだったろうか。
一人になり、ぼんやりと考える。
最初は、金が欲しかった。それだけが目的であり、成功の指標だった。
そのために家族と離れた。故郷を出た。何かを想う感情などただの足枷にしか思えなかった。自分の動きを拘束する何もかもを捨てて、自分の糧になりそうな何もかもを吸収した。貪欲だ、飢えた獣のようだ、と何度も言われた。渇いた目をしている、と。
武器での儲けが一番大きかったので武器を専門に売るようになった。売買を仲介するより作るほうが儲けられたので、そうするようになった。
商売は成功した。豪遊さえしなければ一生暮らしていけるだけの貯蓄ができた。それでも喜びは薄かった。
そんな時、故郷が流行病で全滅したという噂を聞いた。残念だ、と思った。多分悲しくも思っていた。口から「帰りたかった」という言葉がこぼれた。そのうち帰る気でいた事に、誰よりも自分が驚いていた。
望んでいたものはどうやら金ではなかったらしい。それでも気付くのが遅すぎた。
もう望むものを手に入れるのは無理だと思い、諦めることにした。どれほど金を積もうがもう手に入らないのだ。それなら働いても意味がない。
意味がない労働が好きな人間などいない。仕事を好きなままでいるのは到底無理な話だった。
しかし今でもなお、「飢え渇いた目だ」と言われている。
そんな事よりも、注文が来たからには仕事をしなければいけない。
どれほど無意味に思えようが、それを投げ出すのは、今までの自分を全否定する事なのだから。