第五部:死人の群れ
その夜からまた数日の時が経った頃、あの私の城へと遣いに出されていた吟遊詩人が帰って来た。
私はその知らせを聞き、ベッドから急いで立ち上がろうとしてふらついた。昼間はどうしても体に力が入らない。だが今はそんなことを憂いている場合ではない。
私の城はどうなったのだろう。お父様とお母様は無事だろうか。それが知りたくてならなかった。
私が大広間に辿り着いた時、ブレイシーはレオライン卿の前に立っていた。その横にはクリスタベルも佇んでいる。
レオライン卿は私にこちらに来るように言い、そして吟遊詩人に尋ねる。
「よくぞ戻った、ブレイシーよ。ローランドの城はどうであった」
ブレイシーはどこか虚ろな目を彼に向け、それに答える。
「残念ながら人の姿はありませんでした。あの跡を見るにどうやら近くの川が氾濫し、大きな洪水が起きたようです。それで皆逃げ出したのか、あるいは……」
彼の抑揚のない声は、私にとっての絶望を告げていた。私は思わずブレイシーに駆け寄り、問う。
「一体私の父の城はどのような状態になっていたのですか!?」
詩人は私にゆっくりと首を向け、言う。
「城の半分は崩れ、流されていました。人の姿は無く、ただ城の残骸が放置されていたのみでしたよ」
ほとんど表情を変えぬままにブレイシーは答えた。私は自身の唇が震えるのを感じながら、思わずレオライン卿を振り返る。自分の中で様々な感情が渦巻き、今にも溢れ出して来そうだった。
彼は私の方を見返して、ゆっくりと頷いた。
「ジェラルダイン嬢、気を確かに持ちなさい。間違っても先走って行動してはならないぞ。準備を整え、明日にも我らとともにトリアーマインへと向かおう。そしてローランドらの無事を確かめるのだ」
その落ち着いた声に私は幾分かの冷静さを取り戻し、首肯する。
「……はい。取り乱して申し訳ありません」
確かに私一人で城に戻ったところで何もできることはないかもしれない。ただでさえ太陽の下では力が奪われる上に、この数日間ほとんど食事を取っていないのだ。闇雲にこの城を出たところで、道半ばにして行き倒れるだけの未来が見える。
それならばレオライン卿の提案してくれたように、彼らとともにトリアーマイン城へ向かうべきなのだろう。幸いにも吸血鬼としての衝動はこのところ沈黙している。まだ私は彼らとともにいられるはずだ。
「近頃体調が優れんようだし、今日はとにかく休みなさい。そして明日に備えたまえ。心配することはない。きっとローランドは生きている。あいつは洪水ごときで死ぬような男ではないよ」
私を慰めるようにレオライン卿はそう言ってくれた。私は口を結んだまま再び頷く。そう信じたかった。だが私の中でその洪水の日の記憶が抜け落ちている以上、不安は消えてくれない。
私は洪水が起きた時何をしていたのだろう。父と母を見捨てて自分だけ逃げ出したのか。それとも、あの兵士たちに連れ去られたせいで両親と引き離されたのか。そもそもあの兵士たちは何者だったのだろう。
やはり何も思い出せない。私は歯を噛み締める。もどかしさで胸をかきむしりたい気分だった。
「ジェラルダイン様、私は何の力にもなれぬかもしれませんが、お気を強く持ってください」
クリスタベルが心配そうな目で私を見る。私は彼女のその顔が苦手だ。彼女にそんな表情をさせてしまうことに罪悪感を抱いてしまう。でも、同時にその気持ちが嬉しくもある。
「ありがとうクリスタベル。私は大丈夫です。あと数日もすればきっと全てが分かるでしょうから、それまではあなたの言うとおり、私が強くならなければ」
クリスタベルは安堵した顔をする。それで私の不安も少しだけ和らいだ。明日以降のこともある。とにかく今は少しでも体力を温存しよう。
私はその場を辞して自分に宛がわれた部屋に戻った。そして柔らかなベッドに身を横たえる。すぐに睡魔が襲って来て私は目を閉じる。
第五部:死人の群れ
その日私が再び目を覚ましたのは、城に響き渡った悲鳴によってだった。この城の日常にそぐわぬその声は瞬時に私の意識を覚醒させた。
吸血鬼の聴覚は、それが城の一階から響いていることを教えていた。窓の外にはもう夜が訪れている。それを確認した直後、再び悲鳴が私の耳に届いた。今度は多数のものだ。私は立ち上がり、扉を蹴破るようにして廊下に出る。
もう人の目を気にしている状況ではない。城に人々の叫びが、恐怖が充満している。私は出来る限り速く駆け、そして城の広間へと辿り着いた。
そこで繰り広げられていたのは、化け物たちが人々の体を貪り食らう光景だった。血がそこら中に滴り落ち、石の床を朱に染めている。
下女も、兵士も、執事も、料理人も、職人も、牧師も全て区別なく血と肉に塗れて倒れている。
化け物たちは人の姿をしていた。だがそれらは生きていなかった。意志を持たぬ死者の群れ。心を失った屍たちが城の扉を抉じ開け、窓を割り、雪崩れ込んで来ている。
「一体何が……」
私は呟き、そして迫ってきた一人の死人に腕を叩き付けた。その体は脆く、腐臭を撒き散らしながら崩れ落ちる。私は不快感に顔を歪ませて、そして死にぞこないたちに意識を向ける。
私は倒れた兵士が握っていた槍を右手に取り、持ち上げた。槍術など習ったことはないけれど、今の体ならば難なく扱える。
横に振るった槍が一度に三体の死体を薙ぎ払う。腐った血肉が飛び散った。私は槍を握ったまま、尚も私に群がる死者たちを跳び越える。今は迷っている時間も考えている時間もない。とにかくクリスタベルを探さねばならない。そう思った。全ては彼女を救ったその後だ。
私は耳に意識を集中し、クリスタベルの声を探す。その小さな悲鳴を捉え、私は死人たちの頭を踏み付けながらそちらへと急いだ。クリスタベルの声は、恐らくレオライン卿の部屋から聞こえて来る。
「何故だブレイシー、どうしてお前が……」
閉じられた部屋の扉を蹴り壊して中に入った時、まず耳に入ってきたのはそんな言葉だった。直後クリスタベルの悲鳴が響き渡り、そしてレオライン卿の胸が赤く染まった。
間に合わなかった。私は立ち止り、主を手に掛けた吟遊詩人を睨む。彼はレオライン卿から銀色の短剣を引き抜くと、虚ろな目で私を見据えた。レイライン卿は倒れ、彼を中心に血溜まりが広がって行く。
私はブレイシーの表情が、私が催眠術を掛けてしまった時のクリスタベルと似ていることに思い至る。ブレイシーもまた、あの死者たちと同じように操られているのか。
私は槍を構え、ブレイシーに向かって突進する。機械的に振り下ろされる短剣を避け、そしてその刃に槍を叩き付ける。短剣は宙を舞い、壁に突き刺さった。
「クリスタベル!」
私は放心して動けないでいる彼女の手を握る。レオライン卿はもう手遅れのようだった。吸血鬼としての私の目が、彼の死を捉えている。彼が殺される理由など何もなかったのに。私は怒りに手が震えるのを感じた。
せめてクリスタベルだけでもこの城から遠ざけなければならない。今、私にできるのはそれだけだ。私は彼女の腕を引いて部屋を出る。
死者の群れが私たちに向かって来る。私は近くに置かれていた机を蹴り飛ばし、迫る亡者たちを薙ぎ倒した。そのままクリスタベルを抱え上げ、一気に駆け抜ける。
私だけではこの城の人たち全てを助けることはできない。だからせめてクリスタベルだけでも。幸い今は夜だ。城の外に出ても私の体に影響はない。
床に巻き散らかされた血で足が滑りそうになるのを堪え、私は走る。死者の数は増え続ける。この城で死んだ者たちまでも、生ける屍となって私たちを狙っている。昼間まではあんなに穏やかで平和な時が流れていた城の内部は、一夜にして地獄と化していた。
私の足を切りつけるものがあった。太ももを深く抉られ、私はバランスを崩して倒れ込むと同時にクリスタベルを放してしまう。
私は群がる死者を槍の柄で殴り飛ばすが、クリスタベルの姿は死者の波に飲まれてすぐに見えなくなる。私はこのままクリスタベルまで失ってしまうのか。そう唇を噛んだとき、クリスタベルが消えた方向で白い何かが動いた。
やがて死者の群れがその白い光に押し戻されるようにして後ろに引き始めた。そして私は、白い腕がクリスタベルを包んでいるのを見た。這い寄る死者たちから彼女を守るように。
それは死した彼女の母の魂の姿だった。初めてクリスタベルと出会った夜に見た、あの姿だった。
クリスタベルの母は私を見て、優しく頷いた。そして守護霊はその白く細い指で一点をさす。その先にあるのは、あのブレイシーに付き添っていた若者の姿。
私は頷き返した。あの男がこの死者たちを連れて来た元凶ということか。死者たちの中にあって、あの男だけは屍たちに襲われていない。
足の傷はもう塞がった。私は床を足裏で叩き、その男へと飛び掛かる。構えた槍を突き立てようと振り上げるが、それは男が構えた大鎌によって弾かれた。
この男は人間ではない。それを本能的に察知した。私は群がる死者を薙ぎ払い、男と対峙する。男の瞳が私のほうを向く。
私の見ている前で男の姿が変わった。肉が溶けるようにして蠢き、そして新たな姿を形作る。その姿を見て私は目を見開いた。
「どうしたジェラルダイン? そんなものはお前には似合わないよ。さあ、仕舞いなさい」
男は優しげな声でそう告げる。その顔も、声も私の父のものだった。父は大鎌を引き摺りながら私に近付く。私は動くことができずにその姿をただ見つめていた。
「さあ、私とともに帰ろう。私たちの城へ」
父の手が私の頬に触れる。その瞬間に私の思考は奪われる。
そう、私は帰らねばならない。私の家に。母が待つ私たちの城に。暖かくて、とても優しいあの場所に。私の手から槍が落ちた。槍が落ちる乾いた音が、死者たちの呻きに掻き消される。
お父様と一緒に帰ろう。トリアーマインに。私は父の手を取ろうと手を伸ばす。
「ジェラルダイン様!」
だがクリスタベルの叫びが、私の意識を現実に引き戻した。私は首を横に振る。そうだ、これは私の父などではない。父の姿を真似た化け物だ。私は父の亡霊の手を振り払い、そして後ろに跳んで距離を取る。
あの手に触れられた瞬間、あの亡霊に意識を支配されたようだった。私は亡霊を睨む。その姿は、既に父のものではなく、あのブレイシーに付き添っていた若い男のものに戻っている。
「お前は我が傀儡に相応しい性質を持っていたのに、死した後自ら怪物となってしまった」
男が感情を見せぬ声で言う。
「私がお前の傀儡に?」
「そうだ。お前の体は俺の魔力の器としては素晴らしいものとなるはずだった。お前はただ死体となれば良かったものを、化け物になってしまった。意志のある吸血鬼等と言う、特異なものに」
あの化け物は私の死体を利用するために、私を殺したと言うことだろうか。ならば、私を連れ去ったあの兵士たちもまた、この男の傀儡だったということだろうか。それに私は、そんなことのために殺されたのか。この化け物の人形になるために。
亡霊は尚も続ける。
「あの娘を殺せと命じた時も、お前は抗った。お前は死人でありながら俺に逆らった。なぜ死者でありながらお前には心がある。何故私に逆らい、刃を向ける」
亡霊は感情の籠らない声でそう問いかける。それで私は知った。私がクリスタベルに危害を加えようとしたのは、この男のせいだったということを。私の心に入り込んで、この悪魔は私にクリスタベルを殺させようとしていたのか。
亡霊は相変らず無表情のまま私を見つめている。私は今すぐにでもこの男を殺してやりたかった。
「もう一度試してみるか」
だがその言葉が聞こえた直後、体の中で何かが蠢くような、あの不愉快な感覚が私を襲った。私の中に巣食う何かが私の心を掻き回す。そして唐突に、私の中にあの日の夜の光景が甦った。私が人として死んだあの夜の記憶が。