第二部:死人帰りの貴婦人は
祈祷の鐘が鳴っている。私はその音に今までにない不快さを覚え、柔らかな寝床から上半身を持ち上げた。
昨夜からやはり何かが変だ。鐘の音などこれまでに幾度となく聞いているが、こんな気持ちになったことはなかった。
横を見ると、私をここへと連れて来てくれたクリスタベルが可愛らしい寝息を立てていた。私は彼女を起こさぬよう慎重にベッドから立ち上がる。
第二部:死人帰りの貴婦人は
クリスタベルに貰ったワインのお陰か、昨夜に比べれば体はとても軽くなっているように思う。
私が脱いだままにしていた絹のローブは、いつの間にか綺麗に洗われ、きちんと畳まれて机の上に置かれていた。洗ってくれた名も知らぬ誰かに感謝しながらそれに袖を通し、髪を整えていると、クリスタベルが目を覚まそうとしている気配がした。
私は彼女の側に屈み、そして挨拶をする。
「麗しのクリスタベルお嬢様。良くお眠りになられて?」
クリスタベルは目を瞬きながらゆっくりと上体を起こした。しかしその目は怯えるように私を見ている。その様子は彼女の小柄な容姿も相まって、まるで震える子犬のように見えた。
「確かに、私は罪を犯してしまった」
すぐ側にいる私にも聞こえるか聞こえないかというような声で、小柄な少女はそう呟いたようだった。そして続けてその小さな唇が微かに動く。
「今、全てが良くなるように天に祈らないと」
そう言って、クリスタベルは初めて私の存在に気が付いたかのように私にその瞳の焦点を合わせた。そしてどこかぎこちなく笑み、小さく頭を下げる。
「おはようございます、ジェラルダイン様。申し訳ありません、悪い夢を見てしまったようで……」
クリスタベルはそう、心底申し訳なさそうに、そして困惑した様子で私に言った。私は首を横に振り、彼女を慰めるように言葉を掛ける。
「私を同じ寝床に招いたいて頂いたせいで、おかしな夢を見てしまったのかもしれませんね。重ねがさねお礼を言わせて下さいな。ありがとうクリスタベル」
クリスタベルは弱々しい笑みを見せ、立ち上がって服を着替え始めた。その華奢な体が純白のドレスで覆われ、その首に十字架のネックレスが掛けられる。また妙に嫌な気持ちがして、私は目を逸らした。十字架なんて私の父の城にも幾つもあったのに。
その十字架のせいか、今度は唐突に吐き気がした。腹部に嫌な感覚がある。私の中で何かが蠢いている、そんな気味の悪い想像が頭の中を巡り、私はお腹を抑える。私の体に異変が起きていることは確かなようだったが、原因が分からない。
そもそも私は一度、確かに死んだという記憶を確かに持っているのだ。それなのにこうしてここで息をしている以上、体に異変が無い方がおかしいのかもしれない。死人であった時、私の体がどうなっていたのかという記憶にはないけれど。
私は何になってしまったのだろう。不安から、私は何度か両手の指を曲げて伸ばした。体はきちんと私の意思で動くようだ。少なくとも、今は。だけど私の父が言っていたことを思い出す。一度死人となったのにも関わらずこの世に帰って来たものは、もう人ではないのだと。
ふと顔を上げると、私を心配そうに覗き込むクリスタベルが見えた。私は彼女を安心させるべく笑みを作る。
そして私は、自分が無意識に朝日を避けていることに気が付いた。光に触れようと手を伸ばしても、どうしてか恐怖心が沸いてこの皮膚を光に晒すことができない。
太陽が怖いなんて感覚は初めてだ。月の光はむしろ心地よかったのに。
「ジェラルダイン様、お体の調子が悪いのですか?」
私の様子がおかしかったのだろう。クリスタベルがそう声を掛けてきた。私はまた笑みを作り、答える。
「いいえ、心配なさらないで。昨夜の疲れが未だ抜けていないみたい」
「そうなのですか。起き上がってもよろしいのですか?」
クリスタベルは小首を傾げる。これ以上憂虞されるのは忍びない。ただでさえ助けてもらった身なのだ。自分の心配は後にしよう。
私が人でなくなっていたのだとしても、今はまだ彼女に危害を加えることはなさそうだから。
いや、私はただ独りになるのが怖かっただけなのかもしれない。こんな人ならざるものとなった体で孤独となるのが恐ろしくて、ただクリスタベルの側にいたかったのだろう。
「ええ、もう大丈夫。ありがとう。それよりも一晩も泊めていただいたのだから、あなたのお父様にもご挨拶しなければならないわ。ご案内していただけるのなら嬉しいのだけれど……」
「貴女様が良いのならばご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
今度はどこか虚ろに見える瞳をこちらに向けて、クリスタベルはそう答えた。彼女の父の名はレオライン卿であるという。その名には覚えがあったが、どこで聞いたかが思い出せない。ただ、ずっと昔だったように思う。
私はクリスタベル連れられ、城の中を移動する。昨夜は真夜中であったため他に人影を見かけることはなかったが、この城には多くの人間がいたようだ。大広間には召使や下男と思しきものたちがせわしく歩き回っている。私の服を洗ってくれたのも、この中の誰かなのだろうか。
私たちはその間を抜け、レオライン卿の謁見室へと向かった。クリスタベルは煌びやかな装飾が施されたドアの前で立ち止まり、そして告げる。
「お父様。ご客人をお連れして参りました」
ドアの向こうから返事が聞こえた。クリスタベルはそっとその重そうなドアを開く。その部屋の向こう側に、豪奢な椅子に座ったレオライン卿と思しき男性の姿が見えた。
病でも患っているのか、酷くやつれているように見える。髪はほとんど色を失くし、皮膚には深い皺が刻まれている。クリスタベル程の齢の娘がいるようには見えない。
私が彼のすぐ前まで歩み寄ると、レオライン卿の窪んだ眼が私を映した。私は左ひざを引き、膝を曲げてお辞儀をする。
「お初にお目にかかります。ジェラルダイン・ド・ヴォーと申します。昨夜どこのものとも分からぬ兵士たちに攫われ、そして討ち捨てられ傷付いていたところをクリスタベル様に救って頂きました。深く感謝しております」
私はそう名を告げた。レオライン卿が立ち上がる。その瞼はどうしてか驚愕するように見開かれている。その口からしわがれた声が発せられる。
「私はレオライン。この城の主だ。お会いできて光栄だ、ジェラルダイン嬢。そして済まないが、そなたの父君の名を教えてはくれまいか?」
クリスタベルの父は私にそう問うた。
「名はローランド・ド・ヴォー。トリアーマイン城の領主です」
私は答える。私の父も、レオライン卿と同じように一城の主だった。そして私は思う。父は、今どうしているのだろう。
あの夜、私が城を出た理由が思い出せない。何故私は兵士に襲われた理由も思い出せない。
父の顔も、母の顔も、城の情景や城にいた人たちのことも覚えているのに、彼らがどうなったのか、私が最後に彼らを見たその光景だけが思い出せなかった。覚えているのは父母と向かい合って取った最後の夕餉の穏やかな光景と、そしてこのあの兵士たちに捕らえられ、連れ去られる時の絶望だけ。
私がそんな思想を巡らしている間に、レオライン卿は私の目の前に立っていた。そのしわがれた声がすぐ間近に聞こえる。
「ローランド……」
レオライン卿が呟くように言い、そして瞳を閉じて一度だけ深く頷いた。
「そうか、君はあのジェラルダインか。覚えているかい? 君がまだ幼いころ、私は君に会ったことがある。私とローランドは、かつて親友だったのだ」
今度は私が目を見開いてレオライン卿を見た。彼の名前に聞き覚えがあったのはそのせいだったのか。しかし、少なくともこの十年以上は私の父の口からレオラインという名を聞いた覚えはない。勿論クリスタベルの名も。
「かつて親友だった、とは?」
「もう十五年も前の話だ。私と彼とは些細なことで口論を起こしてな、決別してしまった。それからもう二度とは会っていない。だが、確かに君の顔には若かりし頃のあの男の面影がある。何と、懐かしい。歓迎しよう、ジェラルダイン嬢」
レオラインが私を抱擁した。彼の体が間近に迫る。そして私は彼の腕の中で、今までに嗅いだ事のない匂いを感じる。
いや、嗅いだことが無いわけではない。この匂いは赤を連想させた。皮膚の下に流れる血液の匂いだ。その香りは今までに感じたことが無い程に濃密で、私の鼻腔を強く刺激して頭を朦朧とさせる。同じようにクリスタベルと密着していた時には感じなかったのに。
本能的に口を開こうとした私の意識は、レオライン卿の体が自分から離れた瞬間に引き戻された。思わず私は口を押さえる。
「そなたに害を加えた卑劣な兵士たちを私は決して許しはしない。彼らの卑劣な魂を、この世から取り除くであろう。そしてそなたを、必ずや故郷へと安全に送り届けよう」
私の行動には気付いていなかったようで、レオライン卿の両の目尻には涙が溜まっていた。私は礼をする。そして私の戸惑いに感づかれないように、顔が見えないように頭を下げた。
それから私たちは場を食堂へと移した。テーブルの上には一枚の皿が置かれ、その上にパンと茹でた牛肉、チーズが乗せられている。そして横には赤いワインが注がれたグラスがひとつ。
「空腹だろう。遠慮しないで食べなさい。まだ話したいこともある」
レオライン卿がそう言った。私は頷き、ナイフとフォークを手に取るが、食欲は湧いては来なかった。
空腹でなかったわけではない。昨夜から一杯のワインしか口に入れていないのだから、むしろ強い飢餓感を感じていた。それなのに目の前の食事に対して一向に欲を感じなかった。とにかく何かお腹に入れようと、茹でられた牛肉を小さく切り取り、口に運んだ。
私は眉を顰めた。味は分かるものの、まるでおいしいとは思えない。味が口に合わないというよりも、何か弾力のあるものが口の中にあるというだけで、食べ物を噛んでいるという感じがしないのだ。まるで体が拒否しているようだった。
ただ吐き出す訳にも行かず、作業のように咀嚼し、ワインで喉に流し込む。ワインに関してはきちんといつものように味わうことができた。それがまた不気味だった。
私はクリスタベルを見る。彼女もまた生気のない目をして、ただ皿の上の朝食を見つめるばかり。心配になり、声を掛けようとすると、その前に彼女の父が口を開いた。
「どうしたクリスタベル。今朝から様子がおかしいぞ。一体何が私の愛しい娘を苦しめているのだね?」
クリスタベルは一瞬私の方を怯えたような目で見て、それから父に目を向け、弱々しく笑んで答える。
「全く、何でもありませんわお父様」
それきり彼女は口を閉じてしまった。まるで誰かに抑えられているように口を結んだまま開かない。それは、昨晩の少女が纏う穏やかで温かな雰囲気とはまるで違う。どこか物憂で、それなのに張り詰めている。そしてひどく疲労しているようにも見える。
「そうか、なら良いのだが」
その変化に気が付かないのか、レオライン卿は私に目を向けた。
「ジェラルダイン嬢。そなたを我が友、ローランドの住む城へと送り届けることは私が保証しよう。ブレイシー!」
レオライン卿の呼び声に、食堂の隅に座ってこちらを見ていた法衣に身を纏った若い男が反応した。歳の頃は二十の半ばたぐらいだろうか。私よりも二、三歳年上に見える。
「ブレイシー、汝に任せよう。あの若者を連れて、山々を超えて急ぎ行くのだ。ノレンの荒野を越え、ヘイルガースの森を抜け、さすれば素晴らしき城へと辿り着く。そして声の限りに呼び掛けるのだ。貴方の娘はラングデールの館に匿われていると!」
レオライン卿は一口ワインを飲み、そして気を落ち着けるように一度深い息を吐いた。
「私はあの日のことを後悔している。敵意ある侮蔑の言葉を吐いたことを。あの不幸な時間が過ぎ去って以来、数多の夏の太陽が照り輝いて過ぎて行った。そして私はあの日以来、決してローランドのような友を見つけることはなかったと、そう伝えてくれ」
その声には、彼の深い悲しみが読み取れた。私の父と彼との間に何があったのか、詳しくは分からない。しかし私がクリスタベルに助けてもらったのも偶然ではないのかもしれない。
「レオライン様、ひとつ、私の見た夢についてお知らせしておきたい」
ハーブを片手にした吟遊詩人は、返答の代わりにそう言った。
「私は幻影によって警告された。眠っている時に私は鳩を見た。貴方が愛するあの優しい鳥を。そして私はその可愛らしい鳥がどんな困難に遭っているのかを知るために。しかし私が彼方に見つけた彼女の悲痛な叫びには何も原因がないように思われた。だが私は進み、その鳩を抱え上げようとして、そして見つけた。緑色をした蛇を。その蛇は鳩の翼と首に巻き付いていました。そして鳩を丸呑みにせんと鎌首をもたげて、そこで私は目を覚ました」
ブレイシーは一度クリスタベル、そして私の方を見てから、再びレオライン卿の方に向き直った。
「目が覚めてからもこの夢は鮮明に私の瞼の裏に焼き付き、消え去りはしない。それ故に私はこの日に誓いを立てた。卑しくも無為な時を過ごさないようにと」
その言葉の意味は私には良く分からなかった。レオライン卿もまた微笑みながらブレイシーの言葉を聞き、そして私を見た。
「可憐なローランド卿の鳩よ、竪琴よりも歌よりも強い腕を持って、私とそなたの父とは邪悪な蛇を退治しよう」
「ありがとうございます」
私は頬を熱くして、一礼した。友人の娘であるとはいえ、ただこの城に近くで倒れていただけの娘である私に親切にしてもらえることが嬉しかった。
その時、かたりと小さな音がした。私はクリスタベルに目を向ける。彼女の手から離れたフォークがテーブルの上に落ち、微かに振動しているのが見えた。
クリスタベルがはっとしたように目を瞬き、そして私を見た。その可憐な口が開かれる。
「お母様の魂にかけて私はお願い致します。この方をどこかよそへやってください!」
直後、彼女は何者かに喉を押さえられたように唐突に沈黙し、そして私から目を逸らすように下を向いた。
私は困惑してクリスタベルを見る。今のは私に対する言葉だった。昨夜の、彼女の母に対する私の言葉が思い出された。あれが原因なのだろうか。それなら、何故今になって。
それとも、私の中で起きている奇妙な変化を、彼女もまた感じ取っているのだろうか。私が言葉を発せずにいると、レオライン卿が口を開いた。
「ブレイシー! 何故お前はぐずぐずしているのだ。私はお前に命令したぞ!」
厳しく、ぶっきらぼうな調子だった。クリスタベルがびくりと体を縮め、そして吟遊詩人はすぐに立ち上がり一礼してその場を後にした。
「ジェラルダイン、そなたはこちらに」
幾分落ち着いた調子でレオライン卿が私に手を差し出した。私は断る訳にも行かず、その手を取る。
クリスタベルが怯えた目で私を見つめているのが見えた。一体彼女は私に何を思っているのだろう。クリスタベルに対し心が軋むように痛むのを感じながら、私は食堂の開けられたままの扉を潜った。