第一部:死女の夜
この小説は、イギリスのロマン派詩人サミュエル・テイラー・コールリッジ氏が1778年に第一部、1800年に第二部を執筆し、そして1816年に出版された幻想詩『クリスタベル』を原作としています。
梟の声が、私を目覚めさせた。直後眠たげな雄鶏の声が響く。彼らもまた、梟の声に目覚めたのだろうか。
とても長い間眠っていたような気がする。はっきりとしない頭を振って、私は起き上がる。手が冷たい草に触れ、草叢の上に寝ていたことを私は知った。
目を開けると、辺りは闇。凍えた夜なのに不思議と寒くはない。自分の肌に触れてみると、氷のように冷たかった。体には白い絹のローブを纏っている。両腕は剥き出しで、酷く青白い肌が月光に晒されていた。
次第に頭が冴えて来て、私は眠る前のことを思い出そうとして、短い悲鳴を上げた。そして恐る恐る首に指を当てる。そこに傷はない。あれは、夢だったのだろうか。そう思おうとするが、自分の纏うローブに残った新しい血痕が、それを否定する。
私は灰色の鱗雲に覆われた空を見上げた。雲の向こうには満月が見える。月光がとても心地い。
それを感じられるのだから、私が生きていることは確かなようだった。私は殺された筈なのに。この首に、深く剣を刺されて。
私は立ち上がる。側には大きな湖があった。その向こうには森が見える。私を殺したあの男たちは、私の亡骸をここまで運んで来たのだろうか。
春の風に、水面は緩やかに揺れている。私は体についた草を払い、履物に覆われていない足で草を踏みながら、当てもなく歩き出す。
第一部:死女の夜
森の中を歩きながら、私は自分の体が途方もなく疲れていることを知った。一歩進むごとに体が重くなり、息が切れる。森に入る前はそうではなかったのに。月光が木々に遮られているせいだろうか。
そんな時、私は人の気配を感じて、びくりと足を止めた。私を殺したものたちが、追って来たのだろうか。そう思ったが、どうやら違うようだった。
どうしてか私の目は暗い夜の森の中でも良く見えた。木々の向こうに見えるのは、怯えたような表情で辺りを見まわす美しい少女の姿。年齢は、私よりも少し下だろうか。
私は重い体を引き摺って彼女の近くまで歩いて行った。少女は私を見つけて、私と同じようにびくりと体を震わせた。
「どうか、私を憐れんで下さい。疲れてほとんど話すこともできないのです」
私はやっとのことでそう言い、そして敵意を示さないためにそこで立ち止まった。少女は恐る恐ると言った様子で私に近付いて来る。
そして立ち止った私が逆に彼女を恐れているのだと思ったのかも知れない。彼女はそっと口を開き、こう言った。
「怖がらないで、私はクリスタベル。貴女のお名前は? どこからいらっしゃったの」
クリスタベルと名乗った少女は私に手を伸ばす。
「私の名前はジェラルダインと言います。白馬に跨った五人の兵士が昨日の朝私を襲い、そして捕らわれ、そして逃げて来たのです。気を失う間際に彼らがこう言っているのを聞きました。このオークの木の下に私を置いていく、急いで戻るのだ、と。彼らの目的も、彼らがどこに向かったのかも私は知らない。故にお話しはできません。しかし、恐ろしいのです。あの男たちがまた戻って来るかもしれないと考えるとどうにかなってしまいそうです。だから……、どうか逃げる手助けをしてください」
私が一度死んだことを話していない以外は、嘘ではなかった。私は町で兵士たちに襲われ、連れ去られ、抵抗して、そして首を刺された。そこで私の記憶は途切れている。
しかし恐ろしいのは確かだった。私はまだ名前しか知らぬ少女に、哀願していた。この少女のことだって、詳しくは知らないのに。
クリスタベルは目を細め、そして私を慰めるように言った。
「大丈夫よ、高貴な奥方様。そんな話を聞いて放っては置けません。私のお父様のお城へとご案内しましょう。貴女を安全かつ自由に守ってご案内致します」
クリスタベルにとっても見ず知らずである筈の私に、彼女はそう手を差し伸べてくれた。優しい娘なのだろう。私は必ず何か礼をするとクリスタベルに言い、そして彼女に支えられながら歩き始めた。
クリスタベルの城へは中々辿り着かなかった。私がただ一歩歩くのにも苦労していたせいだろう。それでも夜が明ける前にはクリスタベルとともに鉄でできた門を目の前にしていた。
クリスタベルは門の前に作られた掘の上の橋を渡って、そして小さな鍵を取り出して門のすぐ側の扉を開けた。
クリスタベルに招かれ、私も扉を潜る。
中庭を横切る途中、クリスタベルは聖処女マリアを讃える言葉を発した。私には何故だか、その言葉がとても恐ろしく聞こえた。
「ああ、悲しや!」
私の口から不意に言葉が漏れていた。クリスタベルが驚いたように私を見ている。私は慌てて次の言葉を紡いだ。
「私は、弱っていて話せないのです」
クリスタベルはそれを聖処女を讃える言葉を発せないことに対する悲しみだと捉えたのだろう。深く頷いて、また私に肩を貸して歩き始めてくれた。
中庭には犬小屋があった。その横でマスチフ犬が眠っている。そして、マスチフ犬は目を覚まさないまま怒ったような唸り声を上げた。
それは私に対するものだと、私は直感的に思った。
「家の者は皆休んでおりますわ。ただ私の父、レオライン卿はとても眠りが浅いの。だから出来るだけそっと歩いて下さいますか?」
修道院の独居房のような静けさに包まれた城の中で、クリスタベルはそう言った。足音を立てないためだろう。彼女は既に私と同じように裸足になっている。
とても大きな城だった。だが真夜中であったため、微かな松明の明りと窓から入り込む満月の光が城内を照らすのみで、景色はとても暗い。その暗闇が何故だか私をとても安堵させた。
私はクリスタベルの部屋へと案内された。部屋の壁は奇抜な彫刻で飾られている。しかしそれらは何故だかクリスタベルにとても似合っているように見えた。彼女がこの部屋に佇むことで、この部屋の景色は完成するのだろう。
銀のランプは消えかかってぼんやりと燃えていた。クリスタベルはランプを調整し、それを明るくした。私は疲れ果てて、身を低くして床の上に座り込んでその様子を眺めていた。
「本当に疲れておりますのね。これを飲んで下さい。気付けのワインです。私の母が野草の花から作ったの」
私は彼女から手渡された血のように赤いワインを、ありがたく受け取った。そして少しずつ嚥下する。お腹の中から次第に体が温まっていくのが分かった。
「貴女のお母様のワイン、とてもおいしいわ。お母様もここにいらっしゃるの? それなら明日、お礼を言わないと」
少し元気が出てきた私がそう尋ねると、クリスタベルは目を伏せ、首を横に振った。
「お母様は私が生まれたその時に亡くなってしまったそうです。死の床にあって私の母は、私の結婚の日にお城のかねが十二回鳴るのを聞くつもりだと仰ったのだと、白髪混じりの修道士が教えてくれました」
私はクリスタベルと同じように目を伏せた。とても親切にしてくれた彼女を悲しませるつもりはなかった。そして謝ろうともう一度目を上げた時、私はクリスタベルの後ろに漂うそれを見た。
私はそれを見た時、それが死者であることを瞬時に理解した。遥か昔からその存在を見知っているように、私はそれをこの世の理から外れた死人の魂であると知っていた。
その姿はクリスタベルに似ていた。そして、その白い煙のような腕が背後から、そっとクリスタベルの首に回されようとしている。私は思わず叫んでいた。
「離れなさい、彷徨える母親よ! ひどくやせ衰えて! 私にはお前を消えるよう命じる力がある。離れなさい! 今は私の時間、例えお前が守護霊であろうとも、離れなさい、女よ!」
まるで今までの私とは別の私から発せられたような声が響いた瞬間、クリスタベルの背後にいた霊の姿は消えていた。
私は自分の口に手を当てた。咄嗟に何故あんな言葉が出たのかが分からなかった。私はクリスタベルを見る。彼女は憐れむような、悲しむような目で私を見て、そして私の側に座った。
「愛しい貴女様。貴女は悪しきものに惑わされているのでしょう。その疲れ切った体を、悪魔が利用しようとしているのかもしれません。気を確かにお持ちください」
本当に、何かが私の体に入り込んでいるのかもしれなさい。私はクリスタベルに手渡されたもう一杯の野草のワインを飲んだ。そして言う。
「天空の上に住んでいる人々は皆、信心深い貴女を愛しているのでしょうね、クリスタベル。もう夜も遅いわ。私はもう大丈夫だから、もうお眠りになって。私のためにその体を壊してはいけない」
クリスタベルはベッドに体を横たえた。何を考えているのだろう。愛らしい顔をした少女は、しばらく目を閉じないまま私を見つめているようだった。
私はランプの下で首を垂れていた。そして私の身に起きたことを考えた。私は確かに一度死んだ。覚えている。あの深く冷たい闇の底へ落ちて行く記憶を。首を貫かれた痛みを。
私は胸の下から帯を解き、そしてクリスタベルが用意してくれていた着替えを身にまとった。私が兵士たちに追われていた際に身に着けていた絹のローブは、血や土で薄く汚れてしまっていた。
微かな声でクリスタベルが私を呼ぶのが聞こえた。彼女は自分のベッドを半分だけ使い、私を待っているようだった。
冷たい床ではなく、温かなベッドの上で眠らせてくれるということなのだろうか。私は彼女の心遣いに感謝する。森の中でさ迷っていた見ず知らずの私を助けてくれただけでなく、寝床までも分け与えてくれるなんて。
私がそっと彼女の側に潜り込むと、クリスタベルは静かに傷ついた私を抱きしめてくれた。彼女の体はとても暖かく、私はすぐに眠りについた。
その夢と現の狭間の中で、私は私の声でこんな言葉を聞いた。
「この胸に触れれば呪いは作用する。それはあなたの言葉を支配する。あなたは今夜知り、そして明日も知るでしょう。この私の恥辱の印を、この私の悲しみの封印を。しかしあなたは抗っても無駄。なぜならこれ一つきりなのだから」