かぐや姫には幻滅だっ!
今までの一連の出来事で神経や体力をすり減らしていたのかもしれないが、それにしても今の月詠の倒れ方は普通じゃない。
とたんに鳩尾の痛みなど忘れて、俺は地に伏すかぐや姫の元まで駆け寄った。
「おい! 大丈夫かっ!?」
着物を身に着けているにしてはやけに軽いかぐや姫の体をそっと抱き起こす。
初めて間近で見るかぐや姫の肌は上気しているせいなのかほんのりピンク色に染まっていた。
腕の中で静かに吐息を立てるかぐや姫はただのか弱い女の子にしか見えなくて、思わず心を奪われそうになり目をそらしてしまう。だが、今はそんな甘ずっぱい雰囲気に浸っている場合じゃない。
呼吸は安定しているようだが、まぶたは閉じられていて意識がはっきりしているかわからない。
何でもいいから少しでも多く話しかけて意識を確認しなければと口を開こうとしたが、それを待つことなく、ちょうどその時かぐや姫のまぶたがうっすらと開かれた。
「……おにぎり、買ってきて」
だが微かにそう呟いただけで、かぐや姫は再びまぶたを閉じて途端に力が抜けた表情で眠り込んでしまった。
お腹が空いていただけなのかこいつは!
とりあえず大事には至ってはいないようだが、だからと言って本人のご所望通りおにぎりを買いに行くわけにもいかない。
ここにかぐや姫を放置したままこの場を離れるわけにはいかないし、かといってこんな時間に女の子を背負って店に入ればもれなく警察沙汰になるだろう。
よって俺に残された選択肢は一つだった。
背中にほのかな体温と柔らかい弾力を感じつつ、背負ったかぐや姫の体を上下させないように慎重に足を進める。
何しろ女の子と体を密着させているわけだからこういう時こそ平常心を保つことが大事だろう。
だがそうやって黙々と歩こうとはしているものの、かぐや姫の吐息が優しく俺の首筋をなでてきて、さらに女の子特有の甘い香りが鼻孔をくすぐってくる。
なんという誘惑っ! ……正直たまらない。
ついに誘惑に屈した俺は少しだけ寝顔を拝ませてもらおうと首を後ろにひねったのだが、その矢先、
「……ん。あれ、あたし……どうしたんだっけ」
不意に目覚めたかぐや姫と目が合いそうになり、とっさに顔を正面に戻す。
危機一髪。あの距離で目が合ったりしたら命の保証はなかった!
「大丈夫か? いきなり倒れたからびっくりしたじゃねぇか」
極力落ち着いた声で何気なく応答する。
別に照れ隠しというわけではないが、眠っている間にかぐや姫の、その……女の子らしい一面も見ちゃったわけで。
が、俺はここであることに気がついた。
……この状況はまずいんじゃないか、と。
いくら善意とは言え本人に無許可でかぐや姫をおぶっているわけで、彼女の体を支える腕は必然的にそのヒップに回されている。
つまり簡潔に言うと、セクハラで訴えられてもおかしくない。
それを自覚して、来たる一撃に備えて歯を食いしばる。
「あんたに心配される程じゃないわよ。おおげさねぇ」
「そっ、そうかい」
っておおぃ! おんぶについてはノータッチか!?
声のトーンは低いしやっぱり疲れは溜まっているのだろうが、それにしてもこの態度は穏やか過ぎるだろ!
そりゃ穏やかであることに越したことはないけども、やはり違和感があることは否めない。
さらにそれきり黙り込んでしまったかぐや姫に、こちらとしてもどう対応していいか分からずとにかく現状維持。
本当にどうしちまったんだこいつは?
気味の悪い違和感にさいなまれ、夜風とかぐや姫の体温との板挟みになりながらもなお前へ進む。
「……ところで、なんだけど。あんた先代から保護人の事を何も教えてもらってないって。……本当なの?」
そう何気なくかぐや姫が呟やいたのは、てっきり俺がかぐや姫はまた眠ってしまったのだろうと思い始めた時だった。
「本当だって。こんなの嘘ついたって何の得もしねぇよ」
「確かにね。……でも、それなら自分にそんな義務があるなんて知らなかったんでしょ」
「そりゃ当然知ってるはずねぇよな」
するとかぐや姫が何やら俺の背中でもぞもぞと動く。俺は依然として前を向いていたから定かではないが、きっとかぐや姫はその顔を俺の背中にうずめて呟いたのだろう。
「……じゃあなんでこんなあたしを助けてくれたわけ? 朝の踏切でも、電車賃のことも……。い、今だってあたしのこと、おぶってる……わけだし」
その言葉はかぐや姫の口から直接背中を伝わって俺の胸をドキリと刺した。
自分勝手で横暴で、人の苦労なんてそっちのけ。そのうえしまいには拳だって突き出してくる。本当に俺の理想とは程遠い暴君かぐや姫。
でも。それでも、ちゃんと今日あった事を覚えていて、
「そりゃあ……なんでだろーな。俺の自己満足の為かもしれないな」
素直になれない俺の自嘲気味な答えに対して、
「あっそ。やっぱ変なやつね、あんたって。……ま、一応礼は言っておくわ」
素直じゃないにせよ、礼を言えるかぐや姫は、
「まぁ、あれだな。俺たちどこか似てるのかもな」
そう思うと、ダメなとこばかりじゃないのかもしれない。
「はぁ? あたしとあんたがっ!? 冗談じゃないわ!」
「そーですかい」
「あーもう、着物もはだけてきたし。……まさか、あんたこれを狙ってあたしの『ないすばでぃ』を拝もうとしたんでしょ!」
「してねぇよ! それなら一旦降りて服を整えろって」
おぶった時とは反対に、慎重に態勢を低くしてかぐや姫の足を地に着ける。
その体を背中から下ろすと、女の子一人分の体重とはいえ滅多に使わない筋肉が重みから解放されて両腕はまるで雲のように軽くなった。
それからしばらくかぐや姫が後ろで着物を整えているうちに、溜まっていた乳酸を分散させるように腕をぐぐっと伸ばす。
その間、後方では布が擦れる音――に混じって豪快な腹の音が。
これを聞いてしまった時は、伸ばしていた腕をそれとなく下ろしそのまま自然体を保って次の展開を待つ。
やがて着物を整え終えたかぐや姫の指示に従って、対面するように後ろの方へ向き直る。
「……さっきの聞いた?」
案の定、かつてないトーンの低さで詰問が始まった。
「聞いたんでしょ」
「……さぁ」
この時、絶対に目を合わせないこと。ここ重要。
「いいわ、さっき頼んだおにぎりちょうだい。それでチャラにしてあげる」
「……まだ買ってきてない、って言ったら?」
すると恐れ多きも月の王女第10代かぐや姫は、顔が燃えるように赤くなるほどの恥じらいを誤魔化すように、全天で最も明るいシリウスだって比にならないくらい輝く満面の笑みを浮かべてこう言った。
「あと10回、鳩尾を殴るわ」
――かぐや姫には幻滅だっ!