かぐや姫ーー?
「い、今何時! 教えてっ」
息が整わないうちに、切羽詰まった様子で問い詰めてくる月詠。
向けられた真剣そのものの瞳に圧倒され、急いで時計を確認する。
「ああ、えっと。今は7時前だけど……」
時間を気にしているのは門限があるからだろうか。
今日から引っ越してきたとすると、何時頃に家に着くか連絡していたという可能性もある。
特急も使ったわけだし予定より大幅に時間が遅れていることもないが。
しかしそんな俺の不安を一切合切裏切って、月詠はまるで探偵が犯人の証拠を見つけた時のような顔でこう言った。
「なら、やっぱりだまされたみたいね」
誰もが予想しなかった言葉に静まり返る玄関。
もちろん、ばあちゃんも含めて。
それにも関らず月詠は、
「とりあえず、着替えさせてくれない?」
まるでそれが当たり前だというように唐突にそう言った。
降ってもいない雨に濡れたはずもなく、少し走ったくらいでこんな寒い時期に汗で服が蒸れるとも考えにくい。
そもそも制服以外の何に着替えるのか。
しかしその疑問は案外すぐに解消された。
月詠が両手で持つぱんぱんに膨れた鞄の中に入っているのは、他でもなく――。
「さぁ、予想以上に時間がかかっちゃったけど、さっそく作戦会議を始めるわよ」
十数分後。
次に俺が目にした月詠は着物を身にまとっていた。
朝にも見た姿だが、やはり月詠の長く清らかな黒髪は着物姿によく映えると思う。
月詠を包んでいる着物は虹で染められたように鮮やかで、その似合い具合はまるで彼女以外にまとわせることを許さないかのようだった。
虹と言えば、着替えを手伝っていたらしいばあちゃんが
「(あの子のパンツ、しましまだったわ。若いっていいわねぇ)」なんて耳打ちしてきたのだが。
それもあって邪念が湧いてくるのも時間の問題のような気がしたので、俺は月詠の着物から視線をそらしつつ当然の質問を投げかけた。
「作戦会議、って着物に着替えたことも何か関係あるのか?」
もちろん当然の質問というのは「じゃあブラジャーはどんな柄?」ではない。
興味がないというと嘘になるが。
だがその当然の質問に対して月詠が当然のように返した答えは、
「当然あるわよ。第10代とはいってもあたしはかぐや姫なんだから」
どう聞いても不自然なものだった。
かぐや姫?
こいつは何を言ってるのか。
冗談だと思う。
思うが、月詠のこれ見よがしに胸を張って自慢する姿が俺に安易な結論を出すことを拒ませる。
俺は同情を求めるつもりでばあちゃんの方を見たのだが、手招きをされたので近寄ってみると、
「(あの子、ちゃんと胸元につけてたわよ)」
などと再び耳打ちしてきた。
ばあちゃんの目線からして、それがブラのことだろうとはすぐに分かった。
が、俺が今欲しい情報は女の子の下着の事じゃない。
ていうかどこまで変態なんだこの老婆は。
しかしそんな俺たちをいぶかしげな表情で見ながらも月詠は話を続ける。
「とりあえず宿は確保できてるからいいけど、問題はもう一つの方。月の使者の到着が予定より早すぎるわ」
今日一番の真剣さで月詠は語っている。
だが俺はそれが日本語で話されていることくらいしかまともに認識できないほど混乱していた。
「だからあなたにも協力してもらうわ。もちろん保護人としてね」
また新たなワード。
かぐや姫。月の使者。保護人。
そのいかにも中二病らしい言葉の羅列にある考えが思いつく。
つまり、これはごっこ遊びなんだろう。
そうと分かってしまえば簡単な話。
俺はあくまで月詠を目的地まで送れと言われただけだった。
月詠を特急に乗せる義務も、コンビニの冷やかしに同伴する義務も、ましてや他人のごっこ遊びに付き合う義務もさらさらない。
「いい? あたしが使者の気を引きつけておくからその間に――」
「あのさぁ、ごっこ遊びなら他でしてくれないか」
これ以上時間を無駄に浪費したくない。
これだから誰かといるのは疲れる。
ならば俺は一人でいる方がよっぽどいい。
それに。
「な、何言ってんのあんた! あたしは本当にかぐや姫だって--」
「かぐや姫なんているわけないだろ」
俺にもかぐや姫はいると信じていた子供の時期はあった。
じいちゃんもかぐや姫はいるんだと語っていた。
だが、それは幼かった俺に向けた言葉。
考えてみろ、高校生にもなってサンタクロースを信じている人間はどのくらいいるだろうか。
アンケートをとるのもばかばかしい。
俺は軽い気持ちだった。
高校生とはいえ、子供を卒業した人間として当然のことを言っただけのつもりだった。
しかし月詠は、
「一瞬でもあんたを頼ろうとしたあたしがバカだった! もういいっ」
顔を真っ赤にさせて感情を爆発させるようにそう叫び、かと思えばそのままドアを乱暴に開けて外に飛び出していった。
「なんなんだよ、あいつ」
俺は置いて行かれた荷物とともに呆然としていた。
いや正直に言えば、追いかけた方がいいのかもしれないと思う自分もいたが、そんな漫画の主人公のような行動は俺の名状しがたいプライドが許さなかった。
だがそんな時、ばあちゃんは俺に容赦なく鋭い一言を刺してきた。
「早くあの子を追いかけなさい」
もしかしたら俺は、こうやって背中を突き飛ばしてくれるような言葉を待っていたのかもしれない。
と心の片隅ではそう思いつつ、
「……分かったよ」
とだけ返事して目の前のドアを押し開けた。