現実
通勤ラッシュの電車を抜けだし駅を出てみると、周りの風景がいつもと違っていて新鮮な心地がした。寝過ごして終点駅まで乗り越しちゃったんだもんな。当然と言えば当然だ。
だが幸いなことに、学校の最寄り駅とこの終点駅は一駅分、距離で言うと徒歩10分ほどしか変わらないので順調に歩いて行けば登校時間にはギリギリ間に合う。ていうかこの距離に2つも駅を立てる必要あるのかよ。
駅前の信号が青に変わり歩きだしたはいいものの、今日に関しては周りに学生の姿が1人として見当たらない。そりゃ現時点で少し遅刻気味ではあるが同じように遅刻している1人や2人いたってかまわないじゃないか。ちょっと心細い。
しかもそのおかげで、道行く女子高生の足元をチェックして、「どれだけの女子がタイツを着用しているか」からその日の寒さ指数を導きだすという俺の大事な日課もこなせない。
これは雨が降っている時に、「あー、傘さしてるのは2、3人だからあんまりキツイ雨じゃなさそうだな」と考えたりするのと同じなのだ。別に制服スカートから覗く引き締まった足に興味があるとかそういうわけじゃない。
ちなみに言うとうちの学校は黒の靴下もしくは黒のタイツの着用を女子に義務付けている。グッジョブ校長、よく分かっておいでだ。
ともかく、歩きがてらにそんなどうでもいいことを考えてしまうくらいに行く道の景色は殺風景だった。
ついこの間まで見ていたはずの緑はいつの間にか姿を消し、代わって真っ赤に染まった紅葉の葉もいつの間にか梢に残るのはほんの数枚ほど。ほとんどの木は既に落としきった枯れ葉で暖をとっていて、そんな様子を眺めていると無性にこたつが恋しくなってくる。
さらにそんな気持ちに追い打ちをかけるように肌寒い風は容赦なく頬に吹き付けてくるが、今を乗り越えればエアコンの完備された暖かい教室で今日も1日ゴロゴロできる。いざ行かん、マイクラスルーム。
車がたくさん通る大通りを避けて住宅街の中を歩いてみたが、狭い路地に風が入り込んできて思っていたよりもかなり寒い。こんなことならやっぱりマフラーを巻いてくるべきだったかもしれない。校則違反だけど。
そしてとうとう冷えた手の指先が痛くなってきたころ、住宅街を抜けた俺の前に踏切が現れた。
普段の通学路には踏切が無く慣れていないので踏切を渡るのが怖いとかそんなチキンな俺ではない。というより踏切を渡るのに慣れるもくそもない。だが、今回に限って俺は踏切を前にして完全に体が凍ってしまった。
「踏切の中に……何かがいる?」
目の前の状況よりも自分の目の方が疑わしい。目をつぶってからもう一度踏切の中をよく見てみると、地面に反射する朝日にまぎれながらも、確かに映るなめらかなシルエット。
――踏切の中には着物姿の少女が立っている。
俺はこれに近い光景をどこかで見たことがある気がした。多分、既視感ってやつだ。
だからなんとなーくこの先どうなるのか、俺には分かった気がした。
そしてまさしく、俺の脳裏に浮かんだ通り、踏切の遮断棒がまるでためらうことなく見る見るうちに下りていく。なのに彼女はその場から動こうとしない。まるで自分がどういう状況にあるのか分からない、まさかそんなはずはないと思うが、踏切の中で1人立ちすくむ彼女の姿は俺の目にそんな風に映った。
そうだ、これは今朝も見た夢に似ているんだと気づいた頃にはすでに少女は踏切の外から完全に隔離されていた。本当に夢で見た通りに事が進んでいく。だんだんもしかしてこれは白昼夢かもしれないという気までしてきた。
仮にだ。もしこれが夢であるならば、と思って俺はとっさに周囲へ目を向けたが、周りには誰もいない。いつもの夢ならここで颯爽と男の子が現れて踏切の中の女の子を華麗に助け出してくれるのに。
視界のはるか彼方に捉えた列車がここに到達するまでにはまだ時間があるだろう。
おそらくこれは夢じゃない。とすると、いつも自分の代わりに女の子を助けてくれたヒーローの男の子はやって来ない。つまり今ここで俺が動かなければあの子は本当に電車にひかれてしまう。
うごく。
足を一歩踏み出す。
一歩、もう一歩。
気づいたときにはもう俺の体は風を切っていた。
遮断機を軽く一蹴りで飛び越えて隔離された空間、少女のもとへと足を踏み入れる。
その時初めて間近で見た彼女の顔立ちは一瞬息が詰まるほどの美しさだったが、もちろん見とれている訳にはいかない。俺は構わず手を引いてそのままレールの外へ連れ出た。
電車の侵入までには時間があった。それが1分だったのか10秒だったのかは分からない。
だが確かに俺は電車が流れていくのを見送っていていた。
「あの……?」
すぐ隣から小鳥のさえずりのような声が聞こえてふと我に帰った。手の平には温かくて柔らかい感触がある。
声のした方を見るとかなり近く、肩くらいの高さに若干うつ向きがちな女の子の顔があった。
大きな黒い瞳に、長いまつ毛。触れてみたくなるほどに柔らかそうな唇。まさに別格、この世の理想を体現したかのように美しく可愛らしい。
夢の中で俺に優しく手を差し伸べてくれていたあの子は、今目の前にいる彼女なのかもしれない、そう思うと胸の鼓動が一層激しくなる。
ああ、もしかしてアニメや漫画の見すぎでついに2次元と3次元の区別がつかなくなってしまったのかもしれない。そういうのは高校デビューと共に卒業したはずだったんだけどな。
容姿も性格も完璧な女の子は2次元にしか存在しない、それがこの世の理だと思い込んでいた……!
ふっ、と女の子の唇が揺れた。
「気安く触らないでください、ヘンタイ」
結論。
やっぱり理想の女の子はこの世にいない。