囚われの男
降らないはずの雪が降ったのだ。誰も言ってくれなかったんだ、雪が降るなんて事。ここで雪が降ったのは、あの日以来の事だったのだ。見なれぬ青白い絨毯のような道。足跡一つ無いのは、まだ夜明け前だから。夜と朝の狭間だから。どうして僕は、こんな天気の日に限って早く起きてしまうのか。
群青の空。全てが淡く群青に染まっている。雪だけがただ青白く光る。あの日もそうだった。鮮やか過ぎる記憶は、自分を静かに傷つけるだけだというのに、身に沁みついてしまった。進んで思いだしたことなんてないというのに。あの日以降の日々は、年月相応にぼんやりと消えかけているというのに。
いっとう鮮明なのは緋。
そう、群青でもなく、光る青白さでもなく、緋。黒く濁った赤。絵具じゃ作れない。血液の緋。
どうしてと聞かれて、分かるような、答えられるような、そんな単純な動機なら、きっとあんなことしなかった。サバイバルナイフが緋で覆い固まるまで、手を振りかざしたりはしなかった。
何がしたかった?何がしたかった?何がしたかった?ねぇ、僕は何がしたかったの?
先が見えない迷路のような、動機。考えれば考えるほどに、だんだんと輪郭を無くす。掴めなくなってゆく。ああ、どこかに行ってしまいたい。全て忘れてしまいたい。鮮やか過ぎる緋も、離れない群青と光る青白さも。人々の怯えた顔も、鏡に映らない内なる狂気と恐怖をも。全部。
今日もまた、悪夢が襲ってくる。
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「あの死刑囚はまた窓の外を見てるのか?」
「ああ。刑務所に来てからというもの毎日だな。もう三カ月以上になるぜ?」
「ずっと雪ばっかりなのにな。毎日毎日。寒くないのかよ」
暗い牢屋の間を渡りつつ、男たちは自分の腕を寒そうにさすっている。彼らが蔑んだような目で睨んだのは、ずっとずっと窓に張り付いている、無差別殺人犯。道行く人を次々とサバイバルナイフで刺した、少年のような男。
「寒さとか、分かんないだろ。罪悪感で」
「罪悪感で」
彼らはニヤリと笑った。しかしその後は、それ以上の興味を無くしたように、彼らは世間話をしだした。彼らにとっては風化する話題。いつか処刑される男、遠い男の話。
暗い牢屋がずらりと並んだ間を、彼らは抜けてゆく。ひたひたと足音が響く。会話をする小声が響く。寒々しい鉄格子。色のない世界。ただ、記憶の中にだけ、いやに鮮やかな色彩が広がっているのだ。




