闘う男
マンションはすぐに見つかった。高級マンションというのかもしれない。建物を見上げて俺はそう思った。ここ一帯は住宅街なのだが、その中でもかなりランクの高そうな外観だ。
エントランスへと入り階層ごとの表札を確認する。
「あった……ッ」
そして五〇二号室の表札に鷺沼の名字を見つけ出した。エレベーターを待つのももどかしく、俺は階段を一段飛ばしで駆け昇った。
早く、早く、と気持ちばかりが焦る一方、足は言う事を聞かず途中で立ち止まりそうになってしまった。エレベーターの方が早かったかもしれない。
そんな事を考えながらもようやく五階へと到着、俺は着くと同時に扉の右横に取り付けられた呼び鈴ボタンを押した。
ピンポーン、と画一的な音を聞きながら、呼吸と心拍音を整えようと胸に手をあてた。ドクンドクンと高鳴る心音を鎮めながら、意識を集中させた。
この中に星香は居るのだろうか? もしここに居なければもう手がかりは何もない。星香になんとしても会わなければ。俺の言葉届くかはわからない、だがなんとしても言わなければいけない事がある。
少しの間待ってみたが反応はなく、俺は呼び鈴をもう一度押してみた。ピンポーン、ピンポーンと何度か連続で押してみたが反応はなかった。
「星香! いないのか!? 俺だ、返事してくれ!」
右手で扉をガンガンと叩きながら、声をあげても意味はなかった。仕方なく俺はドアノブに手をかけゆっくりと下に捻った。
手前に引いてみるとドアは普通に開いた。鍵はかかっていなかったのか。ゴクンと息を飲み込んで俺は、部屋の中へと身体を滑り込ませた。
二人暮らしにしてはずいぶんと大きな部屋だった。玄関から見て左方にキッチン、右方の扉はおそらくバスルームに繋がっているのだろう。そして正面に続く通路は一枚扉で仕切られていて、奥の方は見えなかった。
「星香ー! 居ないのか!?」
左方のキッチンは奇麗に片付いていて、洗い物はおろか目に見える場所には食器の類は見つからない。
キッチンの前にはテーブル(五人くらいなら余裕で座れそうなくらいの大きさ)があり、その下に香がいた。
「う、うう……」
フローリングに広がった血液はすでに変色していて、黒い染みのようになっていた。死因は見ればすぐにわかった。香はテーブル下でうつぶせになって倒れている。そして背中には料理包丁が刺さったままだからだ。
反射的に吐き気がこみ上げてきた。この場を立ち去りたい、そんな欲求がうまれてくる。しかし……
俺は香であった肉片を置き去りに進み、奥へと続く一枚扉を開いた。
「星香!」
扉の先は十畳程の居間へと繋がっていた。黒皮の二人がけソファーが二つ、大きな薄型テレビが右正面に見える。
もうすぐ日が沈むのだろう。部屋の電気は点いてなく、ベランダへと続く正面の窓からの朱色に染まった太陽の残光だけが部屋を照らしていた。
そして……星香はそこにいた。ソファーに腰かけ、その視線は自然と正面に置かれた、何も映っていないテレビへと注がれている。俺がいる場所からはその横顔しか見る事が出来ない。だがその異常さは明白だった。
四肢の力が抜けきった星香は、まるでそこに置かれただけの人形のようだ。
「おい、星香?」
俺の来た事に気付いていないのだろうか? 歩み寄ってその視線の先に入り込んでもなんら反応を見せてはくれない。まさか……
「おい! しっかりしろ!?」
不安にかられ肩を揺さぶり、そしてさらに声を荒げた。
すると星香の瞳が、亀のような緩慢な動きで俺を捉えた。まるで夢でもみているかのようなトロンとした瞳だ。
「なんで、ここに?」
「お前を迎えにきたんだ」俺は力強くそう伝えた。
「……? 迎えに?」
「ああ、そうだ。俺が面倒みてやる。これまでみたいに一緒に暮らそう。もう迷惑だなんて言わねえ。香の事も全部俺に任せろ」
もう覚悟は出来ていた。星香の家族になろう、そう決心してここまでやって来たのだ。だが星香の反応は俺の予想とはまるで違うものだった。
「ああ、そうか……迎えに来たんだ」
星香はそう言うと、すっとソファーから立ち上がった。
「え? おい、どうした?」
そう問いかけても返事も振り返る事なく星香は玄関へと向かって歩いていった。
「おい、どこ行くつもりだ」
その背に付いて歩いていくと星香はキッチンで立ち止まり、そしてしゃがんだ。ちょうど香の死体がある辺りだ。
星香はそっと背に刺さった料理包丁に手を添えて、一気に立ち上がった。その凶器はあっけなく抜け、星香の右手へと納まった。
そして俺の左腕に突き刺さった。
「ぐああああ!?」
切っ先が力こぶの下部、上腕の骨に突き刺さったようだ。ありえない痛覚と出血が溢れてきた。
「ねえ、なんで避けるの? 迎えにきたんだしょ? 何してるの? はやくこっち来てよ。消えに来たんでしょ? 偽物なんでしょ? 助けに来てくれたんだよね。よかった、これで私は本当になれるんだよね。うれしいよ。うれしい、うれしい、sれしい。うれしいよ!!」
「お前ッ、うっ痛ッ……。どうして、どうしたんだよ!?」
「偽物がなくなれば、本当になれる。嘘がなくなれば、本当になれる。私が偽物? そうじゃないよね、お母さん達だよね? 私を認めてくれないのはお母さん達がいるからだったんだよね。私は居るんだもん。居たいんだもん!」
語尾を荒げてそう言うと、星香は突き刺さった料理包丁をさらに押し込んだ。
「ぐあ……ぐはッ」
さらなる痛みが全身に走ったが、俺は悲鳴をあげるより先に星香の右腕を掴み上げた。
「お前、どうしたんだよ!」
「愛してくれない両親は、私の本当じゃない。誰も私を愛してくれない。誰も優しくしてくれない。どんなに頑張っても頑張っても……本当じゃないから、本物じゃないから、そうだったんだ、だから全部壊さなきゃいけないの!」
星香は余った左手も料理包丁に添えて両手で、力を加えてきた。片手しか使えない俺は少しずつ押されていく。
「お前に会いたくて、せっかく会えたのに」
「なんで、なにが? なんでそんな嘘、いまさら……言うの?」
「うそなんかじゃ……ねえ!」
強引に引き寄せ、強く抱きしめる。
「全部本音を話してやる。昨日俺が言った事は嘘だったんだ。俺はお前と一緒にいるのが本当に気に入ってたんだ。居心地がよくて、一緒にいるだけで嬉しい、そんな風に感じていた。……だけどお前から話を聞いて俺は悔しかったんだ」
「……悔しい?」星香が疑問符を浮かべて聞き返す。
「そうだ、俺はお前の事を好きになっていた、だからお前も同じ気持ちで側に居るんだと、そう思い込んでいたんだ。だけど、そうじゃなくて、ただ単に俺がお前の親だから居るだけだと知って……悔しくて悲しくて……」
「そんな事……」
「わかってる!」
俺は星香の言葉を遮り、声を荒げる。
「お前の日記を見たんだ。だからお前の気持ちはわかる」
「嘘だ!!」
「ぐうあああ!」
星香の持っていた包丁が俺の右腿に突き刺さった。
「いまさら! いまさらそんな小さい希望なんか知らない! 嘘に決まってるんだよ!」
そう言うと、包丁を抜き取り一歩後ずさりした。そして両手で握りしめ、切っ先を俺の心臓へと構えた。
「いやああああ!」
包丁が心臓めがけて近づいてくる。だが俺はそれを避けようともせず、それよりも星香に言葉を伝える事を優先させた。
「俺はお前を愛してる!」
鋭い切っ先が胸に触れ、そして刺さる事なく手前で止まった。包丁が床に落ちた。
「うわあああん、ああんん!」
悲鳴をあげて泣き出した。背を丸め小さくなり、血に染まった手のひらで顔を覆いながら、星香は泣き続けた。
目の前で震え泣き続ける星香の身体を、俺は固く抱きしめた。
「俺が、これからはずっと一緒にいるから、だからもう無理しなくて良いんだ」
「おとう、おと……ぐすん、ぐすん……」
「そうだ、俺がお父さんだ。家族なんだ。だから一緒にいる。当たり前だ」
「おとうさん、おとうさん、おとうさん! うあああんん!」
星香は俺の胸の中で「おとうさん」と何度も叫びながら、いつまでも泣き続けた。




