えげつない男
「ただいま…」ボソッとそう言って扉を開けた。 実はこの言葉、星香が来てから初めて使う言葉だった。
例えば通行人、道端で見知らぬ誰かとすれ違ったら挨拶などするだろうか?誰もしないだろう。俺だったらたとえ隣人の住人だとしてもそんな真似はしない。
何故か?興味がないからだ。道端ですれ違う相手にいちいち関心など持ってはいられない。
それと同じように俺は星香に対して無関心を続けてきた。
だが今日は星香の事を知ろうと、つまり関心を持ったので自然とその言葉が出たのだった。
「あ、おかえりなさい」
部屋に入ると星香がやたら仰々しく頭を下げてそう言った。星香は異常と思える程礼儀正しくてこちらとしても気分がよ良い。
俺は部屋着へと着替えてから居間のテレビの前にどかっと腰を座り込んだ。
「ビール飲みますか?」
その横にちょこんと座り込んだ星香が尋ねる。
首を縦に動かし頷くと「わかりました」と嬉しそうに台所に向かって行った。
星香は俺の役に立てることが嬉しくてたまらないように見える。改めて考えてみるとなぜなのだろう? 少し薄ら寒い気がしてくる。
「はい、どうぞ」星香がにこやかな顔で缶ビールと冷やしたグラスを持ってやってきた。
俺は今まで缶ビールは直接口をつけて飲んでいた。それが変わったのは星香のおかげだった。まったく何処で知ったのかグラスを冷蔵庫で冷やして持ってきて、それがまた美味かったのだ。
本当に気が利く、否利きすぎる。何が星香をこうまでさせるのか。
プシュッとビールのタブを開きグラスに注ぎながら俺は単刀直入にあっさりその言葉を口にした。
「お前ってさ、何者なの?」と
「え? ええと、それは……その……」星香の態度はあからさまに動揺していた。
家事が万能だったり、気が利くといっても所詮は年端もいかない女子、動揺や感情を隠せるほどの場数は踏んでいないのだろう。
「やっぱり何かあんのか?」続けて尋ねる。
「えっとですね……それが、その少し、なんて言うか……」
お茶を濁そうとしているつもりなのだろうか。口どもってもごもごとしている。だが今日は星香の正体を突き詰めると決めたのだ。
「今までお前にも事情があるんだろうと察して聞かなかったけどそろそろ話せよ」
……我ながら薄っぺらい嘘だなあと思う。本当は興味が無かった、ただそれだけだ。だが子供相手ならこんな嘘も十分通用するだろう。
「ほら、話してみな?」きっと鏡を見たら噴き出してしまうような笑顔を貼付けて、星香に向かって微笑みかけた。
「私、嬉しいです。わかりました全部話します、いえむしろ聞いて欲しかったんです」
やはり子供だ、馬鹿正直に喜んでいる。
「そうか、でなんなんだ? 何を聞いて欲しいんだ?」俺がそう促すと星香は意を決したように語りだした。
「鷺沼 香って名前わかりますか?」
「さぎぬま、かおり? ……誰だ、それ?」
異口同音にその名前を口にして首を傾げる、どこかで聞いた事のあるような名前だったが思い出せない。
「私のお母さんの名前なんです、あの烏山高校でバレー部だったらしいです、思い……出せませんか?」星香の顔が不安気になる。
「高校? バレー部……鷺沼……ああそういえば」
記憶のかけらが少しずつ浮かんできた。そしてそれらの記憶が結びつくと急速に記憶がよみがえってきた。
「お前、香の子供なのか……懐かしいな」
遠い過去、学生時代の思い出がよみがえってくる。香……そうだ、高校の時俺と付き合ってた彼女だ。他にも学生時代の思い出が次々とよみがえってきて、懐かしくてたまらない。みんな今どうしてるんだろうな……。
香は今どうしてるんだ? そう口にしようとしたところで俺は冷静に戻った。
ドクン、と心臓が高鳴る。
なぜ香の子供が俺の家にやってきたんだ? 当然の疑問が浮かんできた。
この時すでに微かな予感がしていた。しかし……まさか……。
「それで……なんで俺のところに、来た……んだ?」息詰まりながら尋ねる。
「それは……私のお父さんだから」
「……………………。」
頭が真っ白になった。全くと言っていい程に頭が使い物にならなくなってしまったようだ。なんだ? どうなってる?
俺は身体が昆虫のごとく硬直してしまい身動きひとつとれやしなかった。口を動かす事が出来ず、言葉を発っする事も出来ない。
「 。」
星香が何かを言っている。だが全く耳に入ってこない。
その後、俺が何をしたのか、翌日になるまで思い出せなかった。
この日から星香は俺の前から姿を消した。
翌日、目覚めると頭が異常に痛んだ。二日酔いだ……昨日馬鹿みたいに暴飲したせいだろう。
俺はそんなに酒が強い体質ではない。二、三本も飲めば十分に酔っぱらってしまう。だが床には空になったビール缶が十近く転がっていた。
「うっぷっ!」
起き上がると急に吐き気がこみ上げてきて、俺は台所に顔を突っ込んで吐きちらした。……気持ち悪い、最悪の気分だ。
気持ち悪かった……星香が俺に向かって「お父さんだから」と言った時、気色悪い虫が全身を走ったような感覚が襲ってきた。ぞわぞわっと鳥肌がたち、星香の存在が突然、気味の悪い他の生物へと変貌を遂げたかのようだった。
「帰れ、帰れ、帰れ!出てけ、早く出てけ!」
そんな単純な言葉だけを俺は何度も何度も繰り返した。何も考えられず、ただただ拒絶する事しか出来なかった。
星香の腕を強引に掴んで追い出そうとしたが、不思議と星香は一切の抵抗を見せず、大人しく俺の言葉に従った。
「……やっぱり私って要らないんですね……」
悲しい眼差しとその言葉だけを残して星香は出て行った。
「くそッ! 騙しやがって!」
床に散らばる空き缶を踏みつぶすと、缶底に残っていた残滓がじわっと床に広がった。……騙された、それは星香が自分の正体を隠していた事だけじゃない。理不尽で自分勝手な考えだとわかっていたが、それ以上に頭にきている事があった。
星香はただ単に献身的に俺の役に立とうと思っていたのだと、妄信していた。だが違った。星香は俺の為なんかでなく自分の保身の為、俺に気に入られようとしていたのだ。勝手な思い込みで、考えてみればあり得ない事だが、そう思っていたのだ。裏切られた気持ちだ。
それは例えるならば、可愛がっていたペットが突然喋りだし「お前と一緒に居るのはエサくれて都合がいいからなだけで、お前が好きな訳じゃないよ」と言われたような気分だった。
今なら認められる。俺は星香の存在を気に入っていたのだ。それが裏切られ苛立ちが押さえられない。
「なんなんだ、なんなんだ俺は?」
なんてくだらない、なんて……愚かなんだ?
その時ふと、床にノートが落ちているのが目に入った。俺には見覚えのない物だった。拾い上げ中身をパラパラと開くと、一目でそれが星香の物だとわかった。
突然追い出したのだから忘れ物の一つあってもおかしくない。
「なんだ、これ日記か?」
ノートの中には丸っこい文字で几帳面にびっしりと書かれていた。先頭のページは二週間前の日付だった。
何気なくその内容に目を通す。パラパラパラパラ……と本当に何気なく。
やがて俺は言葉をなくし夢中で読みふけった。




