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『二度目の目覚め』

『二度目の目覚め』ーゾンビになった私たちの終わらない旅ー


第一章 感染

目を覚ますと、知らない天井があった。

白い蛍光灯。消毒液の匂い。遠くから聞こえる誰かの泣き声。

病院だろうか。

私は廊下の長椅子に座っていた。

周囲には十数人の男女がいた。誰もが疲れ果てた顔をしている。

スーツ姿の男は震える手でスマートフォンを操作し、若い母親は小さな子供を抱き締めていた。

「ここは安全なんですか?」

私が尋ねると、隣に座っていた老人が顔を上げた。

「さあな。だが、外よりはましだろう」

「外?」

老人は答えなかった。

その代わり、廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。

続いて、何かが床に落ちる音。

そして、走ってくる足音。

「来たぞ!」

誰かが叫んだ。

人々が一斉に立ち上がった。

私は何が起きているのか分からないまま、彼らと一緒に走り出した。

振り返ると、廊下の奥から奇妙な人影が現れていた。

病院の患者服を着た男だった。

顔の半分が崩れ、片腕が不自然な方向に曲がっている。

それでも男は歩いていた。

いや、歩いているというより、何かに引きずられるように前へ進んでいた。

「ゾンビだ!」

誰かが叫んだ。

そんな馬鹿な。

そう思った瞬間、男が近くにいた女性へ飛びかかった。

私は逃げた。

階段を駆け上がり、廊下を曲がり、開いていた扉へ飛び込んだ。

そこは小さな診察室だった。

扉を閉め、鍵を掛ける。

息を整えようとしたとき、背後から物音がした。

振り返る。

診察台の上に、誰かが座っていた。

腐りかけた顔。

濁った瞳。

そいつはゆっくりと私を見た。

逃げ道はなかった。

私は悲鳴を上げた。

そして――。

何もかもが暗くなった。


第二章 死んだ私

次に気がついたとき、私は床に倒れていた。

身体が重い。

妙に喉が渇いている。

立ち上がろうとすると、右膝がうまく曲がらなかった。

「なんだ、これ……」

声が出た。

しかし、それは自分の声とは思えないほど低く、かすれていた。

壁に掛かった鏡を見た。

そこには、見知らぬ男がいた。

肌は灰色に変色し、頬の肉が一部剥がれている。

左目は白く濁り、唇の端から黒ずんだ血が流れていた。

私は思わず後ずさった。

鏡の中の男も後ずさった。

右手を上げる。

男も右手を上げる。

「……私なのか?」

どうやら私は死んだらしい。

そして、ゾンビになった。

不思議なことに、恐怖はあまりなかった。

むしろ、どうしてこんなことになったのかという疑問の方が大きかった。

私は診察室を出た。

廊下には何体ものゾンビがいた。

だが、誰も私を襲わなかった。

一体のゾンビが私の横を通り過ぎた。

私は思わず道を譲った。

相手は何の反応も示さなかった。

「……失礼」

つい口にしてしまった。

死んでも礼儀だけは残っているらしい。

病院を出ると、街はすっかり変わっていた。

道路には乗り捨てられた車が並び、信号機だけが律儀に赤と青を繰り返していた。

歩道にはゾンビがあふれていた。

私はその中を歩いた。

誰も私を襲わない。

誰も私に話しかけない。

生きていた頃、これほど他人に無関心な街だっただろうか。

そう考えると、少しおかしくなった。


第三章 老婆

何日歩いたのか分からない。

そもそも、ゾンビになってから眠った記憶がなかった。

ある日、私は古びた雑居ビルに入った。

何となく、人の気配がしたからだ。

三階の事務所に、一人の老婆が隠れていた。

老婆は私を見るなり、目を見開いた。

「ひっ……!」

机の下へ逃げ込もうとしたが、足がもつれて転んでしまった。

「待ってください」

私は言った。

老婆の動きが止まった。

「……しゃべるのかい?」

「ええ。どうやら」

「人間なのかい?」

「それが、私にも分からないんです」

老婆は恐る恐る私を見た。

「鏡を見たことは?」

「あります」

「じゃあ、人間じゃないね」

「そうですね」

妙に納得してしまった。

老婆はしばらく私を観察していた。

やがて、机の上にあった缶詰を差し出した。

「食べるかい?」

「食べられるかどうか分かりません」

「試してみな」

私は缶詰を受け取った。

だが、指先の感覚が鈍く、うまく開けられなかった。

老婆が缶を開けてくれた。

中身は桃だった。

一切れ口に入れる。

味がしなかった。

甘いはずなのに、甘くない。

「どうだい?」

「……味がしません」

老婆は悲しそうな顔をした。

「そうかい」

私はその表情を見て、初めて自分が失ったものの大きさを理解した。

食べ物の味。

身体の温かさ。

そして、誰かと同じ世界に生きているという感覚。

私はもう、その世界の住人ではなかった。

翌朝、老婆はいなくなっていた。

机の上には短い置き手紙があった。

『北へ行きなさい。まだ人がいるかもしれない』

私は紙を折り畳み、ポケットに入れた。

そして北へ向かった。


第四章 旅の仲間

彼女と出会ったのは、海沿いの小さな駅だった。

駅舎のベンチに、一人の女性が座っていた。

年齢は三十歳前後だろうか。

長い髪。

薄い青色のワンピース。

そして、明らかに腐敗した左腕。

「こんにちは」

私が声を掛けると、彼女は顔を上げた。

「……あなた、しゃべれるの?」

「ええ。あなたも?」

「そうみたい」

彼女は小さく笑った。

それが、私たちの出会いだった。

名前は美緒といった。

もっとも、それが本名なのかどうか、本人にも自信がなかった。

「死ぬ前のこと、あんまり覚えていないの」

「私もです」

「でも、名前だけは覚えている」

「いいですね。私は名前すら思い出せません」

「じゃあ、私が付けてあげようか」

「何と?」

美緒はしばらく考えた。

「旅人さん」

「それは名前ですか?」

「今はそういうことにしておきましょう」

私たちは一緒に旅をすることになった。

目的地はなかった。

ただ、どこかへ行こうと思った。

ゾンビに襲われる心配はない。

食料も必要ない。

宿泊場所を探す必要もない。

考えてみれば、これほど気楽な旅行もない。

「生きている頃に、こんな旅行ができたらよかったのに」

美緒が言った。

「生きていたら、仕事を休まなければなりませんね」

「それに、お金もいるわ」

「今はどちらも必要ありません」

「でも、写真が撮れない」

「スマートフォンがあっても、指紋認証が通るか怪しいですね」

美緒は声を上げて笑った。

私も笑った。

死んでから初めて、楽しいと思った。


第五章 腐っていく時間


旅は続いた。

山を越え、廃墟になった町を抜け、海岸線を歩いた。

私たちは夕日を眺めた。

味のしない果物を食べた。

誰もいない映画館で、途中までしか映らない映画を観た。

美緒はときどき歌を歌った。

音程は外れていたが、不思議と心地よかった。

しかし、時間は私たちに優しくなかった。

ある朝、美緒の右手の指が一本落ちた。

彼女は地面に転がった指を見つめていた。

「……あら」

それだけ言った。

私は指を拾った。

「付け直せませんかね」

「接着剤でもあればね」

彼女は笑った。

だが、その笑顔は少し寂しそうだった。

やがて、美緒は歩くのが遅くなった。

足の筋肉が腐り始めていた。

私も同じだった。

左腕はほとんど動かず、片方の耳はいつの間にかなくなっていた。

それでも、私たちは歩いた。

ある日、美緒が言った。

「ねえ、旅人さん」

「何ですか?」

「私たち、いつまで生きていられるのかしら」

私は答えられなかった。

「もう死んでいるのに、変な質問よね」

「そうですね」

「でも、考えちゃうの」

彼女は自分の手を見つめた。

「身体が全部なくなったら、私の意識はどうなるんだろう」

「分かりません」

「消えるのかな」

「……たぶん」

「それって、二度目の死ね」

私は何も言えなかった。


第六章 最後の朝


美緒が立ち上がれなくなったのは、海の見える丘だった。

そこには小さな展望台があった。

かつては観光客で賑わっていたのだろう。

今は誰もいない。

私たちは展望台のベンチに座った。

美緒の両足は、もうほとんど動かなかった。

「ここでいいわ」

彼女は言った。

「もう少し休めば、また歩けるかもしれません」

「無理よ」

美緒は笑った。

「自分の身体のことくらい、分かるわ」

私は隣に座った。

海は青かった。

空も青かった。

世界は、何も変わっていないように見えた。

「ねえ、旅人さん」

「はい」

「私、楽しかった」

「私もです」

「死んでから、こんなに楽しいことがあるなんて思わなかった」

彼女はゆっくりと私の手を握った。

冷たい手だった。

私の手も冷たかった。

「もし、もう一度生まれ変われたら……」

「はい」

「今度は、生きているうちに旅をしましょう」

「約束します」

美緒は目を閉じた。

しばらくして、握っていた手から力が抜けた。

私は彼女の名前を呼んだ。

返事はなかった。

もう一度呼んだ。

やはり返事はなかった。

私は長い時間、そこに座っていた。

どれほど経ったのか分からない。

やがて、海の向こうから朝日が昇った。

私は思った。

ああ、これで本当に一人になったのだ。

そして――。

目が覚めた。


第七章 選ばれなかった男


そこは会議室だった。

長い机。

並べられた椅子。

壁に映し出された地図。

私は椅子に座っていた。

周囲には十数人の男女がいた。

誰もが真剣な顔で、スクリーンを見つめていた。

「では、最終選考に入ります」

スーツ姿の男が言った。

「避難先は沖合の離島です。感染者の侵入を防ぐため、移送人数を厳しく制限します」

私は周囲を見回した。

何が起きているのか分からなかった。

「候補者は二十名。実際に移送できるのは十二名です」

男は名簿を読み上げ始めた。

一人、また一人。

名前を呼ばれた者は安堵の表情を浮かべた。

呼ばれなかった者はうつむいた。

私は待った。

しかし、最後まで名前は呼ばれなかった。

「以上です」

私は立ち上がった。

「待ってください」

男がこちらを見た。

「私の名前がありません」

「残念ですが、あなたは選考から外れました」

「どうしてですか?」

男は資料をめくった。

「医療関係者、技術者、若年者、家族構成などを総合的に判断した結果です」

「つまり、私は必要ないということですか?」

男は答えなかった。

私は窓の外を見た。

街にはまだ人が歩いていた。

ゾンビなど、どこにもいなかった。

そのとき、奇妙なことに気がついた。

会議室の壁に掛けられた時計。

その針は止まっていた。

そして、窓の外に見える街並み。

見覚えがあった。

あの病院がある街だった。

私はゆっくりと振り返った。

「……ひとつ聞いてもいいですか?」

男が頷いた。

「この会議は、いつ開かれているんですか?」

「本日です」

「何月何日ですか?」

男は怪訝そうな顔をした。

そして日付を答えた。

それは、私が病院で目を覚ました日の、前日だった。

私は息を呑んだ。

では、あの旅は何だったのか。

美緒は?

あの海は?

あの最後の朝は?

全部、夢だったのか。

それとも、これから起きることなのか。

私は机に手をついた。

そのとき、隣に座っていた女性が小さく声を掛けてきた。

「……大丈夫ですか?」

私は顔を上げた。

薄い青色のワンピース。

長い髪。

見覚えのある顔。

「美緒……?」

女性は驚いた表情を浮かべた。

「どうして、私の名前を?」

私は答えられなかった。

女性は困ったように笑った。

「私たち、どこかでお会いしました?」

その笑顔は、あの海の見える丘で見たものと同じだった。

私は何かを言おうとした。

しかし、その瞬間、会議室の扉が激しく叩かれた。

「感染者だ!」

廊下から悲鳴が聞こえた。

人々が一斉に立ち上がった。

美緒が私の腕をつかんだ。

「逃げましょう!」

私は彼女の手を握り返した。

そして思った。

今度こそ、彼女を死なせたくない。

その瞬間――。

本当に目が覚めた。


終章 目覚まし時計


そこは自分の寝室だった。

見慣れた天井。

窓から差し込む朝日。

枕元では目覚まし時計が鳴っていた。

私はゆっくりと起き上がった。

右手を見る。

指は五本ある。

左腕も動く。

顔を触る。

皮膚は柔らかく、温かかった。

私は生きていた。

夢だった。

全部、夢だったのだ。

病院も、ゾンビも、旅も、会議室も。

そして、美緒も。

私はしばらくベッドに座っていた。

不思議な夢だった。

より奇妙なのは、ゾンビになったことよりも、あの女性と過ごした時間が妙に懐かしく感じられることだった。

実際には会ったこともないはずなのに。

私は立ち上がり、窓を開けた。

外にはいつもの街が広がっていた。

通勤する人々。

走る自転車。

信号待ちの車。

何も変わらない朝だった。

私はスマートフォンを手に取り、何気なくニュースを開いた。

画面には、ある記事の見出しが表示されていた。

『沖合の離島で大規模避難訓練を実施へ――参加者十二名を選抜』

私は思わず画面を見つめた。

偶然だ。

そう思った。

きっと、昨日どこかで似たようなニュースを見たのだろう。

私はスマートフォンを置いた。

そして、朝食を取るために台所へ向かった。

冷蔵庫を開ける。

中には、昨日買った桃があった。

私は一切れ口に入れた。

甘かった。

驚くほど甘かった。

なぜだろう。

その瞬間、涙がこぼれた。

私は桃を食べながら、誰もいない部屋でつぶやいた。

「……今度は、生きているうちに旅をしよう」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

ただ、窓の外では信号機が赤から青へ変わっていた。


――了。


夢で見た内容に肉付けしただけの小説です。


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