【19】
菓子屋の出来事はあっという間に広がり、翌日のお昼辺りには全員知るくらいだった。それくらい大きく、そして衝撃的な事件だった。別宅から女性達が救出され、泣き出す者がいる始末だった。どうやら金で妓女を身請けし、その後、ケシの花を使い、気持ちよくさせてから、縄で縛ったり、剣で切りつけたりと、悪趣味なことをしていたらしい。金の権力は偉大かもしれないが、何かあると一瞬で崩れるものだと、皆学んだのである。
それから数日経った夕方、とある人物が動き出した。よく磨いた包丁を手に持ち、柄をぎゅっと握りしめる。これから自殺するつもりだった。
ーもういい、自分は。
その人物は本当は金和真を殺したかったのだが、役人の手によって公に裁かれたほうがいいと判断したのだった。
ーあの男さえいなければ…!!
許せなくて泣けてくる。死んだ女性ー包丁を持った女性の妹が可哀想だとずっと思っていた。そして妹から色んなことを聞いていたのに、助けられなかった自分が悔しかった。
ーいつも…。いいからって、あの子…!!
もうこの世にいない妹に向かって後悔の念を募らせる。妹が苦しんだのなら、自分もそちらへ行って一緒になろうと、決めたのだった。しかし
「ーこんにちは」
戸を叩く音がした。しかも、それはよく聞く声で、雑貨屋の凛のものだった。どうしようか迷ったが、包丁を一旦おろすと、対応に向かう。
「はい、何でしょう?」
何でもないふりをして出ると、急に戸が大きく開かれた。男ー雅巳も一緒で怖い顔つきをしている。
「雅巳さん、捕まえて!!」
「ああ、分かっている」
雅巳は素早く動くと、相手の手を後ろに回し、捕まえる。捕まった相手は驚いて動けないようだった。凛は室内を見回し、包丁を発見して取り上げる。
「…自殺しようとしていたんですか?」
「…」
相手は何も答えない。凛は深呼吸すると、安心させるように言う。
「ーぼたんさん。馬鹿な真似はやめてください」
相手ーぼたんははっとし、凛を見つめてくる。その目には泣いていたのか、しずくがたまっている。まるで雪解けの透明な水のようだと感じる。
「…。よく分かったわね」
ぼたんが落ち着いた声で言ってくる。凛はうなずくと、彼女の首を指す。
「亡くなられたほたるさんと一緒の守り袋、していますよね?」
「…何で知っているの?」
ぼたんが不思議そうに聞いてきたので、凛はゆっくり答える。
「橋の上で転んだ時、見えたんです。守り袋の中には…指輪が入っているはずですよね? 違いますか?」
「…」
ぼたんが胸元を見たので、凛達も注目する。彼女は抵抗しないようで、静かに言ってくる。
「その通りよ。私とほたるは姉妹なの。でも、事情があって幼い頃に別れて…。私だけ母親に聞いていたの」
凛は相づちを打つだけにし、続きを促す。
「本当は身請けされて幸せになれると思ったのに…!! あの男!! 憎くて憎くて…!! くそ!! くそ!! くそ!!」
感情を丸出しにするぼたんは初めてだった。そして気づく。ぼたんのことを何も知らないことに。彼女がこれまでどうやって生きてきたのか、全然、誰も知らないのではないだろうか。
「あんなに細くなって…!! 豆乳を飲んでいるから大丈夫って、お客さんと作り手の関係だけだったけど、私にとっては楽しい会話ができる人間だったのに…」
ぼたんが涙を零し始め、鼻を啜る音が響く。しかし次の瞬間、打って変わって穏やかになる。
「最期は力を振り絞って、凛ちゃんの店の前に倒れていて良かったのかもしれない。あの子だけは助けてって言いに行ったんだと思うわ」
「…文を戸に挟んだのは、ぼたんさんですよね?」
「…そう。凛ちゃんと雅巳くんなら、何とかしてくれるかもしれないと勝手に思って…。ごめんね、怖かったでしょう?」
「それは…別に。助けてって、聞こえるような気がしたので、動いただけです。ぼたんさんとほたるさんの執念というか…」
「…そう。その思いが届いたの。だったら私はもう何も言うことがないわ。あー!! 自殺するのはやめた」
「ぼたんさん…」
3人が黙り込むと、窓から夕日の優しい光が入ってくる。緊張していたのが、すっかり穏やかなものとなっていく。
「ぼたんさん、もう自殺は…?」
念のため確認すると、ぼたんがくすりと笑う。
「もう本当にしないわよ」
「じゃあ放してもいいか?」
雅巳の言葉に、凛はしっかりうなずく。もうぼたんは憑き物がおちたように静かだった。襟元を正すと、守り袋を見せてくれる。
「ーこれ。ほら色違いでしょう?」
赤色の宝石がついた指輪だった。どうやって手に入れたのか、ほたるの分の青い宝石の指輪もある。ぼたんは大事そうに持ち、袋の中へと戻す。
ー何か言わなくちゃ。
そんな気がして、凛は口を開く。
「ぼたんさんは、ぼたんさんは、手作りしている豆腐みたいに優しくて、柔らかくて、私にとって欠かせない人間です。だから決して後ろを振り向かず、真っすぐ進んでください。お願いします」
「凛ちゃん…。ありがとうね」
「俺も一言だけ言わせてもらう」
雅巳の言葉に、ぼたんが驚く。
「何? 嫌味?」
「違う…!! 雅巳さんはそんな人じゃ…!!」
「分かっているわよ。だてに色んな人間を相手にしているわけじゃないんだから。経験値が違うわよ」
「その通り。その才能はもったいない」
「才能? 客商売を才能と呼ぶの?」
「そうだろう? 職人と一緒だ。毎日毎日、手作りでどうやったら美味しく作れるか、客が喜んでくれるか、考えながら作るんだから。こいつが美味しいって食べるくらいなんだから、あんた、もったいないんだよ。客相手だって、1人でこなして、あしらい方や丁寧に対応する方法を学んでいるから、一種の才能だ」
「雅巳くん…。ありがとう」
ようやくぼたんが微笑み、体から力を抜く。雅巳は少し迷った末に続けて言う。
「指輪、2つ揃って良かったな。センスの良い指輪だ。妹さんだと思って大事にしたほうがいいと思う」
「それは…もちろん」
はっきりした声に、凛は安堵し、息を吐きだす。
「ぼたんさん、また豆腐、買いに来てもいいですか?」
「当然!! うちの豆腐は絶品だからね」
ふふと女同士で笑うと、凛は腕を伸ばす。
「あーお腹すいた。帰ろうか、雅巳さん」
「そうだな。お前も今回、疲れただろう? ゆっくりしろ」
「そうよ。包丁で切りつけられたりとかして、痕にはなってないけど」
「うっすらとはあるけど、綺麗に治るはずだ」
「そう。若いっていいわね」
ぼたんはそう言うと、清らかさに満ちていた。もう1人にしても大丈夫だろうと、凛と雅巳が踵を返す。
「それじゃあ、ぼたんさん、また」
凛は手を振り、雅巳は軽く頭を下げた。ぼたんは2人に手を振り、別れたのだった。




