悪役令嬢は国を捨て、契約と誇りで砂漠の女王となる
侯爵令嬢フィオナ・アズライトは、幼い頃に前世の記憶を思い出し、自らが乙女ゲームの悪役令嬢であることを知った。
十八歳。王太子であるエドワード殿下の卒業パーティ。フィオナが、ヒロインの伯爵令嬢アイリスを階段から突き落とそうとしたという濡れ衣を着せられ、断罪される『運命』の舞台だった。
エドワード殿下は、真紅のマントを翻し、激情に駆られた瞳でフィオナを指さした。 「フィオナ・アズライト!貴様との婚約を今をもって破棄する!貴様の傲慢極まる行いは、この国の規範を乱す!直ちに、魔物蠢く南方の『灼熱の砂漠領』へ追放する!」
ざわめく大衆の中で、フィオナは静かに微笑んだ。 「畏まりました、殿下。わたくしの追放を受け入れましょう」
フィオナが断罪を甘受したのは、復讐心からではない。
この王国は、あと五年で『砂漠化』による深刻な食糧不足と、内乱で滅びる運命にあった。国の基盤である『魔力水路網』は老朽化し、王族はその事実から目を背けていた。エドワード殿下も、アイリス嬢も、目の前の愛憎に囚われている間に、足元の砂が崩れていることに気づいていなかったのだ。
フィオナにとって、婚約破棄と追放は、沈みゆく泥舟から脱出する『唯一の合理的な選択』だった。
「わたくしは、愚かな王族の呪縛から解放されました。これで、思う存分、新しい人生の投資ができますわ」
フィオナは、追放令を喜んで受け入れ、辺境の砂漠へ向かう馬車に乗り込んだ。彼女の心中には、悪役令嬢としての『矜恃』と、前世の記憶にある『地質学と灌漑技術』という、二つの大きな武器があった。
◇
灼熱の砂漠領は、その名の通り、荒れ果てていた。昼は焼けつくような熱波、夜は凍える寒さ。住民は、わずかに残ったオアシスの水脈にしがみつき、細々と暮らしていた。
領地に到着したフィオナは、まず領主館の改修を命じる代わりに、領民を集めた。
「わたくしは、貴族の施しを行うつもりはありません」
フィオナは、貴族社会を離れたことで、一層冷徹で合理的な顔つきになっていた。
「しかし、わたくしにはこの砂漠を緑に変える『知恵』と『資金』があります。貴方たちには、わたくしとの『契約』に基づいた『労働』と『忠誠心』を求めます」
フィオナが着手したのは、前世の知識による『地下水脈の探査』と『ドリップ灌漑システム』の構築だった。
王国の古い魔導技術では、水は上から供給されるものとされていたが、フィオナが考案したのは、魔導回路の熱で地中を掘り進み、深層にある古代の水脈を発見する技術だった。
作業は困難を極めたが、フィオナは自ら現場に立ち、領民と共に汗を流した。彼女の指示は正確であり、その技術は間違いなく結果をもたらした。
「労働の対価は、穀物ではなく、『水路利用権』と『土地改良権』です。貴方たちが水と緑を生み出した分だけ、貴方たちの財産となります」
わずか三年で、砂漠の一部は緑の農地に変わった。フィオナの領地は、『オアシス経済圏』として、隣接する貿易国家『メザール商業連合』との間で食糧輸出を独占するまでになった。
フィオナは、この成功を『ノイシュタイン公社』という企業体として運営した。彼女自身は最高経営責任者(CEO)として経営に専念し、利益は住民への再投資と、新しい技術開発に惜しみなく使われた。
彼女は、古い王国の「身分と血筋」による支配ではなく、「契約と資本」による新しい世界を、砂漠の中に築き上げたのだ。
◇
五年後。
王都は、フィオナの予言通り、砂漠化と食糧不足で機能不全に陥っていた。旧来の水路は完全に干上がり、王族や貴族の権威は地に落ちていた。
エドワード王太子は、痩せ細り、かつての威厳を失った姿で、フィオナの『緑の城塞』に、わずかな従者と共に現れた。彼の隣には、やつれた顔のアイリス嬢がいる。
「フィオナ……フィオナ、会いたかった。私は、君を理解していなかった。君の力が必要だ!」
エドワードは、フィオナの執務室の絨毯にひざまずき、哀願した。
フィオナは、深緑色の高級なドレスをまとい、優雅な姿勢を崩さない。彼女の執務室は、精密な魔導機器と、緑に囲まれたテラスが融合した、機能的かつ美しい空間だった。
「殿下。久しゅうございます。しかし、わたくしたちが『会う』ことに、何の『契約』的意義があるのでしょうか」
フィオナは、彼の感情的な言葉を、ビジネスの論理で切り捨てた。
「あの時、殿下はわたくしを『傲慢極まる悪』と断罪しました。その悪女が、なぜ今、殿下を救わねばならないのですか。わたくしには、このノイシュタイン公社に対する責任があります」
「砂漠化を防ぐ技術だろう!君が持っているはずだ!あれは、王国の資源で開発されたものではないのか!」
「いいえ、殿下」
フィオナは静かに、しかし冷徹に笑った。
「この技術は、追放されたわたくしが、自らの私財と、この領地の住民の労働力のみで開発したものです。王国からの援助は一円たりとも受けていません」
「では、売ってくれ!いくらだ!金は、金なら用意する!」
「金ですか」
フィオナは、王太子が差し出した、古い金貨の詰まった袋を一瞥した。
「残念ながら、殿下の国が発行する通貨は、今や国際市場で『紙くず同然』です。そして、わたくしの開発した『深層水脈探査技術』は、すでに隣国『メザール商業連合』に独占販売権を供与しました」
「な、なんだと!?」
その時、執務室の隅から、一人の男が立ち上がった。メザール商業連合の若き指導者であり、フィオナのビジネスパートナーである、ゼファ・メザールだ。
「エドワード殿下。ノイシュタイン公社との契約は、既に完了しています。フィオナ様との契約は、単なる技術供与ではなく、『技術と経営手腕』に対する、我が連合の『政治的庇護』の提供です」
ゼファは、フィオナの肩にそっと手を置いた。
「フィオナ様は、この砂漠領の『完全な自治権』と『独立した経済主権』を得る代わりに、我が連合への技術提供と食糧輸出を約束してくれました。貴国の内政干渉は、我が連合への宣戦布告と見なされます」
ルイス王太子は絶望した。彼が追放した「悪役令嬢」は、自国の救世主になるどころか、自国を切り捨て、隣国の巨大な経済力を手に入れ、『対等な支配者』となっていたのだ。
フィオナは、ひざまずく王太子を見下ろしながら、かつて悪役令嬢として言った台詞を、皮肉を込めて繰り返した。
「殿下。わたくしが本当に悪女だったのは、貴方たちの腐敗した王国に見切りをつけ、『わたくしの矜恃』と『この領地の住民の幸福』を優先したことです」
彼女は、静かに結論を告げた。 「さようなら、殿下。わたくしは、感情論ではなく、『ビジネスの論理』で動きます。そして、破綻した取引先に、無料で救いの手を差し伸べるほど、わたくしの人生は暇ではありません」
フィオナは、背を向け、ゼファと共にテラスへ向かう。そこから見渡せる砂漠領は、一面の緑に輝き、生命力に満ち溢れていた。
彼女が選んだのは、偽りの愛と腐敗した王権ではなく、自らの知性と契約がもたらす、誇り高き自由と富だった。




