子爵令嬢ソフィア・ロンバルディと結婚した第二王子の話
「子爵令嬢ソフィア・ロンバルディの話」に出てきた第二王子サミュエルが頑張る話です。だいぶ長くなってしまいました。単独でも読めます。
「兄上、どうしました?何か良いことがありましたか」
会議に向かう途中、すれ違いざまに弟のルイに聞かれた。
「いや、そんなことはないぞ」
「そうですか、それならスキップは止めた方がいいですよ。心配されますから」
「え?俺、スキップしてた?」
「自覚がないんですね、お大事に」
「お、おう」
その後も、俺としたことが会議中に気が逸れて、議題に向き合うよう努力しないといけなかった。
夕食の席では、妹のミシェルに、
「お兄様、なにか嬉しそう。どうかなさったの」
と、聞かれた。
「そうか、ふふ、これから良いことがあるかもしれないんだ」
「なあんだ、まだこれからですのね」
「昼間も会議に向かう途中でスキップしてたよ」
ルイが余計なことを言う。
「まあ!いよいよサミュエルお兄様に、春が来たのかしら」
「来たかどうかは分からないけど、確実に頭の中には花が咲いているね」
何とでも言うがいい。俺は今日という日に感謝するぞ。
それにしても、この場に両親や兄上がいなくて良かった。いたら絶対こんな生ぬるい追究ではなかっただろう。
昼間、宰相のところに資料を置き忘れてきたことに気付いて、取りに向かった。いつもなら近くにいる誰かに行かせるのだが、ふと気が向いて、中庭を突っ切って自分で取りに行くことにした。
中庭は今、キンモクセイの花が咲いていて、甘やかな芳香を放っている。束の間のリフレッシュにちょうど良い。
所々に配置されたベンチの一つに懐かしい顔を見つけた。
俺が王立学園3年の時に、文官科で共に学んだ仲間だ。数字に明るく、いずれは財務関連の仕事に就きたいと言っていた覚えがある。
「久しぶりだな、ジュリア」
「お久しぶりでございます、サミュエル殿下」
ジュリアは立ち上がって、恭しく礼をした。同級生だった頃の親しさは鳴りを潜め、緊張した文官一年生の姿に、俺は一抹の寂しさを覚えた。
第二王子の俺は、将来王となる兄を助けるために、積極的に多方面のことを学んでいた。
12歳で入学した王立学園は、一年次が一般教養で、二年次から領主科、騎士科、文官科、淑女科の各科に分かれる。俺は淑女科を除く3つの科に一年ずつ在籍した。そこで入学前に習っていたことの復習と内容のアップデートをし、人脈を広げることを目指した。
印象深いのは三年次の文官科で、ここでは自分で身を立てなければならない貴族家の子息・息女、そして領主から推薦された優秀な平民が切磋琢磨していた。
王子である俺がいることから、課題は背伸びしたものになったが、皆しっかりと食らいついてきたし、俺自身も成長したと思えるような充実した一年であった。
その文官科の女性のうち特に優秀だったのが、このジュリアと、その友人のソフィアという共に子爵家の息女であった。
「文官科だった皆は元気にしているか」
「はい、つつがなく。今はまだ一年目ですので、各部署を順に回って、あれこれ詰め込まれているところでございます。頭を傾けると、覚えたことが耳からこぼれそうです」
ジュリアは最初こそ固い表情だったが、話し始めると学生時代が甦ったかのように口が滑らかになった。
「そういえば、あの領地が砂漠化した伯爵家の話ですけど、聞きますか?」
ジュリアは、いたずらっぽく笑いながら聞いてきた。
砂漠化した領地というのは、文官科で俺たちのグループが取り上げた課題だ。伯爵家の次男アダンが自領の砂漠化を食い止めたいと言い出し、その原因を調べ、その解決策を模索したのだ。
原因は羊の過剰放牧と、牧草地を拡大するために木を伐採し続けたせいだった。すぐできる対策としては、伐採を止め、植林し、羊を適正な頭数にまで減らすことだが、さらに多種多様な灌漑技術を紹介し、その地にあった方法をとってもらうことになった。
国土の3割が砂漠という国からの留学生が、自国の最新灌漑技術を紹介してくれたことも思いがけない収穫であった。
その後、俺がその話を国の専門機関に持ち帰ったことで、いくつかの領地で新しい灌漑技術を試す事業が始まった。これを最初に提案したのが、ジュリアと仲の良かったソフィアである。自領をモデル地区にするなら父が全力で取り組むとアピールし、結果としてモデル地区に選ばれ、補助金を手に入れた。中々したたかだと感心したものだ。
「灌漑事業は上手くいっているのかな」
「はい。それで、ソフィアが余所の領地の灌漑に興味を持ってしまって、何度かアダン様のご実家の伯爵領を訪れたみたいです」
「熱心なことだな」
「で、次期伯爵様がすっかりソフィアを気に入ってしまって、求婚したらしいですよ」
寝耳に水だ。
「断ったんだよな?」
「なぜ?」
「なぜって、・・・なんでかな?」
自分でもなぜそう言ったのかわからない」
「そうしたら次男のアダン様が、伯爵夫人になったら文官を辞めないといけなくなる、だから同じ文官の俺と結婚しようって言いだして」
ジュリアはここで言葉を止めて、ニヤニヤと俺を見た。なんだよ、何が言いたい。
「結局、どちらもお断りしていました」
「そうか。まだ就職したばかりだしな」
「ソフィアは、自分の家族があんなだから、結婚というものを信用していないんです。頼るのも、頼られるのも苦手で。裏切られないように、自分の足だけで立とうとしています。でもそれって、寂しいことですよね」
「そうだな」
俺は彼女の境遇を知っているから、ずっと独身で文官を続けるものと思い込んでいた。だが、せめて仕事で父親に認められたいという気持ちが見え隠れする時があった。その気持ちを俺はどうしてやることもできなくて、もどかしく思っていた。
ソフィアは子爵家の優秀な長女なのに、後妻の娘に跡継ぎの座を奪われた。子どもの頃から疎外されていて、家族というものに対して、諦めと憧れを植え付けられているように見えた。ことさら冷静に見えるのは、感情を隠すことで強くあろうとしたのだろう。
しかし、授業になると、そんな同情など吹き飛ばすかのように、果敢に議論を挑んできた。その落差に最初は戸惑ったが、彼女の勢いにクラス中が感化されて、活発な意見交換ができるようになっていった。そんな彼女が眩しく見えた。
「それでですね、ソフィアがある時、ぽろっとこぼしたんですよね。これまでで一番信用できる異性は、サミュエル殿下だった、って」
「は?」
「でも、身分が違い過ぎて、ないわあ、って笑ってました」
「うん」
「では、私はこれで。殿下は周りにたくさん頼りになる方がいらっしゃるので、なんとかなるんじゃないですか」
ジュリアは、言いたいことを言って満足とばかりに去っていった。
「俺、一番信用できる男なの?ソフィアの中で、一番?」
じわじわと喜びが湧きあがってきた。あれ?なんだろう、これ。
ふわふわした気持ちのまま自室に戻った。
「あれ?殿下、忘れ物を取りに行かれたのでは?」
肝心の用事を忘れていた。
その後の会議に行く途中で弟とすれ違い、スキップを止めるようにと指摘された。なんだか俺は浮かれていたようだ。
その夜、俺は考えた。
俺は今日まで、ソフィアのことが好きだと知らなかった。知らなかったというのも変な話だが、そういう対象として考えないようにしていた。ソフィアは子爵家の息女だ。王族の結婚相手にはなれない。
だがそれだけではない。ソフィアに、まったく、そんな気配がなかったからだ。
そもそも、信頼と愛情は別の物だ。身分を抜きにしても、信頼しているからといって、俺の求婚を受けてくれるとは限らない。けれど、ソフィアが一番欲しているのは、互いに信頼し合える人間ではないかと思うのだ。愛情なんて後から育てていけばいい。俺は、彼女が欲しくてたまらなかった家族というものを与えてやりたいのだ。偉そうだ?まあ、そうだな。望まれてもいないのにな。
ここは慎重に行こう。
順番を間違えるな。
王太子のスペアである俺は、浮かれた気分のまま突っ走るわけにいかない。影響が大きすぎる。迷惑をかける人が出てくる。許可を得なくてはならない人も多すぎる。
外堀を着実に埋めていく方向で行こう。
長丁場になりそうだ。
翌日、俺は弟のルイに相談を持ち掛けた。一番大変な目に遭うのは多分、ルイだ。
「ルイに折り入って頼みがある」
「何?昨日のスキップと関係ある?」
プライベートな場では、ルイは俺に敬語を使わない。年も1歳半しか離れていないし、こいつはやけに大人びている。
「王太子の兄上に万が一のことがあったら、ルイが王太子になってくれないか。即位後だったら王に」
「待って、何がどうなってそういうことになるんだよ」
「隠しても仕方ないから言うけど、結婚したい人ができた。家は子爵家だ、結婚できるかさえ分からない」
「いや、無理でしょ」
「それをこれから可能にすべく手を回そうと思う。ついては、一番とばっちりを受けるであろうルイの了解を取りたい。スペアとして自由が利かなくなるけど、ルイの婚約者は侯爵家の娘だろう?ルイさえ覚悟を決めてくれればいいと思うんだよ」
「簡単に言ってくれるよね。で、その子爵家の娘ってどんな人?」
「俺の同級生で、今年文官になった超優秀な子」
「難関の文官試験に合格したのに玉の輿に乗ろうなんて、目的をはき違えているんじゃないの」
「いや、彼女にはまだ言ってない」
「ただ付き合ってるだけの段階?」
「付き合ってもいない。なんなら気持ちも確かめていない」
「・・・、あのさ、俺に相談する前に、本人に確認取りなよ。婚約者がいるかもしれないし。俺、修羅場に巻き込まれるの嫌だからね。本人の意思を無視して人生曲げさせるつもりなら、協力できないよ。王家の力をそんな風に使ってはだめだ」
「それは重々承知してる。ただ、求婚する前に、周りの障害をすべて取り除いておきたい。年単位で根回しする覚悟をしてるんだ。頼む」
「その人のこと知らないから、まだ応援できない。ちょっと俺の方で調べさせて。納得すれば協力するから。それと、ミシェルには早めに言っておいた方がいいよ。あいつは勘がいいから、いずれ嗅ぎつける。それより先に話しておかないと、へそを曲げて協力してくれないと思う。ミシェルはまだ10歳だけど、女性の支援者がほしいなら彼女は頼りになるよ」
というわけで、ルイからの返事は保留となった。
その代わりにもらったアドバイスの通り、妹のミシェルに話をすることにした。
「へえ~、ほお~、ふ~ん、意外ですこと」
ミシェルの返事はあまり芳しくなかった。
「何が不満だ。子爵家というのが気に入らないのか」
「そんなじゃありませんわ。だって、ロマンスの欠片もないのですもの。ついでに脈もなさそうですし」
「えっ、脈なし?なんで?世界で一番信頼してるって言われたのに?」
「正確には、言われてませんよね。世界で、なんて言葉はついていなかったし、異性では、っていう部分を省くのはなぜですか?お兄様、昨日から急にポンコツになっていませんか」
その自覚はあった。
中庭でジュリアに会ってから、文官科の頃の出来事が次々思い出された。王族だからと遠巻きにされたのは、ほんの数日。文官を目指すだけあって、皆、理想は高い。現実との兼ね合いを考えつつ、人々の暮らしを良くするには、強い国にするにはどうするか、飽かずに語り合った。
俺と皆は国の立場から話をするのに、ソフィアだけは、いつも領主寄りの意見で対抗してきた。だから、家で領主教育を受けてきたのかと思ったのだ。だが、異母妹の陰で、ひたすら本を読んで、父親のすることを見て学んだらしい。領主になれなくても、ソフィアは腐ったりしなかった。いつでも生き生きと議論に参加していた。クラス内では、王族への配慮なんてすっかり消え失せ、俺は初めて仲間ができた気がした。
あの頃の無敵感に後押しされて、突っ走ってしまいたくなる。
だが、それではダメだ。
「お兄様、聞いていますの?」
ミシェルが頬を膨らませている。
「俺はね、知らないうちに何年も片思いしていたようなんだよ」
「まあ、鈍感にもほどがありますわ」
「彼女からの信頼だけは勝ち得ているようだから、そのうちミシェルにも協力してほしい。どんな女性かは、今ルイが調べているから、客観的な評価を聞いてごらん。芯の強い、素敵な女性だよ」
「ふうん、分かった。為人を聞いてから判断するわ。お兄様に相応しいかどうか」
「俺が彼女に相応しいかどうかも判断してくれ。じゃないと公平じゃない」
「ふふっ、ポンコツお兄様に釣り合うかどうかね」
ミシェルが初めて笑顔を見せた。
この時俺は、年単位で頑張るつもりだと言いつつ、2年もあれば余裕だろうと考えていた。
それは甘い見通しだった。
ソフィアは農業関連の政策に興味があり、農業大国である隣国への視察にも、自ら手を挙げてついて行った。まだ雑用がほとんどだが、語学に堪能なことを重宝がられ、その後の報告書も任されることがあった。読みやすく分かり易いと好評だった。
相変わらずソフィアはソフィアで、自分の目の前の仕事にまっすぐ取り組んでいた。俺のことを頭に思い浮かべることなんてあるのだろうかと不安になった。
ソフィアが文官になって二年が経っていた。
俺は中庭のベンチに座って、頭上の真っ白いジャスミンの花を眺めていた。甘い香りだが、キンモクセイとはまた違う。花の香りで季節が巡ったことを知る。乙女かよ。
「たそがれてますね、サミュエル殿下」
書類の束を抱えて目の前に立ち止まったのは、一年半前、ここで俺を焚きつけたジュリアだった。
「いかがですか、進展は」
「まるでなし。むしろ後退」
「周りは敵だらけですか」
ジュリアは意外そうに聞いてきた。俺なら何でもできるという刷り込みの信頼があるのかもしれない。あいにく俺は、何の権限もないただの第二王子だ。その第二王子の役割さえ降りようとしている。
「およそ2対8かな、賛成と反対が」
「少なっ」
「さらに最悪なことに、ソフィアも8の方に入ってる」
「それとなく探ったのですか?」
「本人に当たって砕けた」
ジュリアの顔が、バカですかと言っているのが分かる。
「そりゃあ、今の段階で告げたらそうでしょう。外堀埋めてから、くらいの慎重さでいくと思っていました」
「そのつもりだったんだが、砂漠伯爵の子息がまたプロポーズしたと聞いて、つい」
「弟のアダン様も、諦めてないですもんね」
「どう考えても俺よりあいつらの方が有利だよな」
「まあ、どこからも文句は出ないでしょうし。殿下から以外」
「はっきり言うなよ、友だち甲斐がないぞ」
「友だちなんて畏れ多いです。でも、ソフィアと婚約できたら友達面を許します」
「謙遜と不遜のバランスがおかしい」
「まあ、ソフィアは次期伯爵様ともアダン様とも婚約しないから大丈夫ですよ。それより殿下の方が、婚約の打診が来たりしないんですか」
「それは断ってる。ソフィア以外とは結婚しないと両親には言ってある。主張が通るかはわからないが」
「前途多難ですこと」
「そういうジュリアはどうなんだよ」
「もうすぐ婚約しますよ」
「え」
「相手も文官ですから、仕事は続けます。殿下の相談役も継続しますから、安心してください」
「そうか、おめでとう。定年まで国に仕えてくれ」
「御意に」
◇ ◇
一年前、ソフィアの異母妹のマルティーナが、王立学園を卒業した。
当初の予定では、領主科を卒業したマルティーナがいずれロンバルディ子爵を継ぐはずだった。しかし、領主になるには何もかも足りず、見栄と欲望と自尊心だけが膨れ上がったマルティーナに、さすがの子爵も匙を投げ、親族から養子を迎えた。彼は現在、王立学園の2年領主科に在籍し、家でも次期子爵としての教育を受けている。
マルティーナは、母親のレベッカと共にごねまくったが、子爵から三つの道を示された。
一つ目は、二人とも今後8年間は新しいドレスを作らず過ごせるなら、その間は子爵家に置いてやる。8年間というのは、レベッカがソフィアにドレスを作らなかった期間と同じである。
二つ目は、貴族籍から抜けて、二人とも平民として暮らせ。ここに来る前と同じだけの生活は保障する。働かなくても生活できるが、贅沢はできない。
三つめは、二人で修道院に入れ。もちろん貴族籍からは抜く。というものだった。
マルティーナは、貴族でいられても、新しいドレスを作れないなら、社交ができないと喚き散らした。修道院なんて規則正しく清貧な生活なんて無理!と言い切って、二人で平民に戻ることを選んだ。母親のレベッカは貴族に未練がありそうだったが、マルティーナに、家から出られない貴族令嬢なんて何の楽しみがあるの、それくらいなら平民で自由に暮らしたいと言われ、渋々家を出ることにした。
子爵オスカー・ロンバルディには、かつて愛したレベッカも、二人の娘も手元に残らなかった。虚しくはあったが、今は次のロンバルディ子爵を育てることと、領地を富ませることに注力しようと決意した。
ロンバルディ子爵家の顛末は、しばらく貴族社会を賑わしたが、これまでの子爵の領地経営に問題はなかったので、レベッカとの離縁の件はきわめて個人的な問題とされ、ソフィアを煩わせるような醜聞にはならなかった。
◇ ◇
ロンバルディ子爵は、俺とソフィアが結婚しても特に不利益はないことから、反対はしないと思う。むしろ王家と縁付いて喜ぶかもしれない。だが、ソフィアにした仕打ちは到底許せないので、うまい汁を吸わせるつもりはない。
しかし、考えてみれば、子爵がソフィアを文官にしたからこそ、俺はソフィアとの結婚を考えられるようになったのだ。ソフィアが女子爵になっていれば、さすがに俺が婿入りする道はなかった。とりあえず、少しくらいは感謝してやろう。
同じ王宮にいても、俺とソフィアが顔を合わせることはほとんどない。勤務場所が離れすぎていて、普段どうしているのかまるで分らない。たまたま会ったジュリアや、かつての文官科の連中から、話のついでにソフィアの近況をそれとなく訊ねてみるが、どうにももどかしい。前よりもっと会わなくなった気がする。
あるいは、俺が先月やらかした唐突な求婚に呆れて、ソフィアが俺を避けているのだろうか。
あの日、文官科時代の友人が、アダンとその兄が懲りもせず、ソフィアに二度目の求婚をしたと笑いながら話してくれた。俺も笑って聞いていたが、焦りと動揺で我慢できなくなり、ソフィアがいるであろう棟まで走った。
偶然にも、廊下を歩くソフィアの後ろ姿を見つけ、全力で走って追いついた。
「ソフィア!」
振り向いたソフィアは、俺を見ても特に喜ぶでもなく、妹ミシェルの『脈はない』という言葉が正しいのかと不安になった。
「サミュエル殿下、お久しぶりでございます。王宮を全力で走るのは、お止めになった方がよろしいですよ。皆、何事かと心配します」
「そうだな、確かに。だが、俺にとっては緊急事態だったんだ」
「殿下にとっての緊急事態とは、ごく個人的なことですか」
「そうだ。俺の将来に関わる」
「でしたら、こちらの方が優先です。農業大臣に至急と言われた資料です。本当なら私も走りたいくらいなんです」
「だったらすぐ済ますから聞いてくれ。ソフィア、俺と結婚してくれ」
「即答いたしかねます。いえ、時間を置いても答えは同じですね。お断りします。では、急ぎますので失礼します」
ソフィアは去っていった。
え? こんな簡単に振るものなの?
俺は、間違ったのか?
これほど性急に事を進めるつもりはなかった。せめて胸の内を語りたかった。子爵の娘でも王族と結婚する方法を説明したかった。何より、彼女の気持ちを知りたかった。
だから、今じゃなかったよなあ。
後悔ばかりが押し寄せる。
夕食の席で、俺はさらに追い詰められることになった。
父親から、他国の姫を娶れと言われたのだ。
「あの砂漠の国の姫ですか。友好国ではありますが、あそこは今、次の王位を巡って荒れています。どの妃の王子が後を継ぐかによって、姫の価値も変わってきます。趨勢が明らかにならないうちに、それを決めるのは愚策ではありませんか」
「数年前、そこの王子の一人が留学生として文官科にいただろう。かの国の最新の灌漑技術を紹介してくれた」
「はい、私もその時、文官科に在籍しておりましたので、アーリフとは親しくしておりました。あの灌漑技術は、我が国の農業の安定化にも寄与してくれました」
「それが今になって問題視されておる」
「どういうことですか」
「あの最新の灌漑技術の開示は、あの王子の独断でなされた。しかも、わが国は対価を払っておらん。学生の立場の者が気軽に教えてくれたから、もはや砂漠の周辺国では広く知られた技術だと思いこんでしまったのはこちらの咎。言い逃れができぬ」
「ですが、こちらからせがんだわけでもなく、あちらから厚意で教えてくれたもの」
「学生同士の話ではない。国と国の話だ。あれの対価として、姫を一人もらい受けろと言ってきた」
「ということは、向こうにとっては厄介払いになる姫ということですか」
「そういうことになる」
眩暈がした。いったいどんな姫なのか。そもそも、俺たち文官科でやらかした失敗だ。責任を取るなら俺しかいないのは分かる。
ソフィアとの結婚はこれでなくなった。まあ、もともと20%の可能性だったし、国のためなら仕方がないか。
仕方がない?
いや、やっぱり諦めるのは無しだ。ソフィアを幸せにするのは俺でありたい。最後まで足掻いてやる。
俺はまず、留学生だったアーリフから話を聞きたいと思った。
アーリフは、かの国の第三側妃の息子で、第六王子だったはずだ。そこでは、母親が正妃であろうと、側妃であろうと、先に生まれた者が王位を継ぐ。ただし、より強い者が王になるのが好ましいので、兄弟同士で争うことも咎められない。生き残ったうちで一番先に生まれた者が王になる。
そして、ひとたび王位に就けば、その権力は絶対で、争うことは許されない。だから、王位に就くまでが勝負とばかり、激しく争う。それで国が滅びかけたことが何度もあるが、この風習は、妻を何人も娶る習慣がなくならない限り続くだろう。王子が多すぎるのだから。
アーリフと連絡を取る方法を探しているうちに、輿入れするという姫が、挨拶にやって来ることになった。
俺は朝から憂鬱だった。
午後から、砂漠の姫との顔合わせがあるからだ。
午前中、落ち着かないまま執務室で仕事をしていると、来客だと告げられた。断ろうと思った矢先、ドアの向こうに懐かしい顔を認めた。
「アーリフ!」
連絡を取れずにいたアーリフが、なぜかここにいた。
「すまん、サミュエル」
部屋に入るなり、アーリフは頭を下げてきた。
「いや、それより話を聞かせてくれ。そちらからの一方的な話だけで、要らない姫を押し付けられても困る。午後には、俺と姫の顔合わせがあるんだ。情報が欲しい」
「それを知らせに来た。俺としても、あんな女をサミュエルに押し付ける気はない。享楽主義の毒婦だ。なまじ見た目が美しいから、騙される者が後を絶たない」
「だが、王の娘なのだろう?」
「母親は酌婦だった。子を産み捨てて消えた。逃げたのか殺されたのかは分からない。一応、王の娘なのは確かだから、王宮で同じように教育を受けたはずが、教養は身につかず、あのように育った。何をしでかすか分からない、爆弾みたいな女だ。俺は一応お目付け役として来たが、制御できると思わないでくれ。」
「ますます冗談じゃないぞ」
それから俺は、アーリフの国の情勢を聞かせてもらった。
王太子だった第一王子はすでに命を落とし、つい先ごろまで第二王子と第四王子が争っていた。灌漑技術に関する言い掛かりで、厄介者の姫を押し付けてこようとしたのは、第二王子の仕業らしい。王は技術が広まることをむしろ歓迎していたのだが、病気でもう先が長くないことから、第二王子が勝手なことをし始めたのだという。
だからこの縁組はそもそも正式なものではないのだが、来てしまった以上、国の面子もあるから、そのまま姫を送り帰すわけにもいかない。丁重にもてなして、その後穏便に解消の手筈を整えようということになった。元凶の第二王子は、つい先日誰かに毒を飲まされ、復帰は難しい状況らしい。
次の王としては、今現在、アーリフと同腹の第三王子が有力だという。穏健派らしいので、彼に期待したい。
そして、憂鬱だった顔合わせに、姫はとうとう姿を見せなかった。王都に遊びに出かけたという。
もう尻を蹴飛ばして送り返していいかな。アーリフに言うと、ついでに帰り道で山賊に攫われないかな、とアーリフも物騒なことを言い出した。
顔合わせで待ちぼうけを食らわされた俺は、姫の顔も知らないまま、姫と第六王子の歓迎晩餐会に出ることになった。
晩餐会の会場に現れた砂漠の国のフェリダ王女とアーリフ王子は、自国の正装に身を包んでいた。エスコートしているアーリフが苦い顔をしていることから、フェリダの格好が好ましいものではないのだろう。正装をアレンジしたのか露出が多すぎる。23歳の豊満な体に目が釘付けになっている男もいるが、正気か。下品極まりないだろう。
俺にこれを娶らせようとしたあの国の第二王子が失脚してくれて本当に良かった。俺は仮にも友好国の王子だぞ。18歳の俺に、あれはない。
晩餐会は、とにかく苦痛の一言だった。
まだ一応は婚約を結ぶかもしれないしれない相手だ。丁寧な対応が求められる。だが、ねっとりとした口調に、意味のない噂話、自慢話、赤い唇から紡がれる言葉に悪酔いしそうだ。時折、アーリフが助け舟を出してくれるが、将来の夫婦の邪魔をするなとヒステリックに喚く。感情の起伏も激しい。
いい加減我慢の限界が近づいたころ、最後の一皿であるデザートが運ばれてきた。
真っ白なブラマンジェの横に、見たことのないザクロのような色の果物が添えられていた。コントラストが美しい。皆が見とれていると、フェリダ王女殿下より贈られたメリダルという果物だと紹介された。このことはアーリフも知らなかったらしく、驚いていた。
「うちの特産品なんだ。日持ちがしないので輸出はしていないが、美味いぞ」
アーリフがそう言うのでさっそく食べようとすると、勢いよく駆け込んできた男が、大声で言った。
「お待ちください。その果物は食べてはなりません!」
叫んだのは弟王子のルイだった。
一気に会場が騒然とした。
俺の隣に座っていたフェリダが立ち上がった。
「失礼なことを言うでない。お前は誰だ」
「愉快犯に名乗る名前はありませんよ」
太々しさでは、ルイはフェリダに負けていなかった。
「このメリダルという果物自体には問題ありません。ただ、特定の薬を服用している者には、眩暈や幻覚症状が現れることがあります。また、アルコールを摂取した状態だと症状はさらに強く出て、酷い場合は昏睡状態に陥ります」
言い終わった時、どさり、と椅子から崩れ落ちた者がいた。さっそく口にしたのだろう。他にも頭を抱え込んで動かなくなった者もいる。
「ふふふふ、幻覚なんて楽しい夢じゃないの。慌てることはないわ、命に別状はないでしょう?アルコールが抜ければ元通りよ」
「申し訳ありません」
アーリフが立ち上がって、90度の礼をし、国としての非礼を詫びた。
晩餐会は締めの挨拶もなく、慌ただしくお開きとなった。
アーリフは、フェリダを、あてがわれた客間に軟禁するよう自分の部下に指示した。フェリダの周りには逆らえるものがいないようだ。フェリダの侍女たちは、会場に残された。話を聞くためだ。
会場では片付けは後回しにして、給仕や料理人などの使用人を集め、事情聴取が行われた。招待客の貴族たちは、心配な者は医師の診察を受け、それ以外の者はそのまま帰ってもらった。症状が出たのは一人だけで、30分もしないうちに回復した。他に話を聞いて気分が悪くなった者がいたが、果物を口にしていたわけではなかった。ルイが早くに知らせてくれたおかげで、ひどい症状の者が出なくてすんだのは、せめてもの幸いだった。
翌日。
おおよそのことが明らかになった。
メリダルを贈り物にするようフェリダに勧めたのは、例の失脚した第二王子だった。理由は、相性の悪い薬を服用している者がいれば面白いことになるかもな、という、いかれた発想からだった。フェリダはこの異母兄と仲が良く、その案に飛びついた。
フェリダはさらに、その状況を大胆に演出しようと、度数の高い酒を厨房に持ち込ませ、祝いのための高級酒だと触れ込んだ。給仕たちは、お客様側からの厚意だからと、毒見の上、提供することに決めた。もちろん毒ではないのだが、メリダルに反応しやすい成分が入っていることが一部で知られている酒だった。
フェリダの侍女たちは、最初、フェリダ様に命じられて断り切れず、などと言っていたが、自国の言葉で話しているのを聞いていた者がいた。ルイはその者から報告を受け、晩餐会の会場に乗り込んできたのだ。ルイは聞いたままを証言した。侍女たちはすべて承知の上で、面白がって協力していたことが明らかになった。罪が重くなりそうだと悟った侍女は、私たちの言葉を理解している者なんてここにはいなかった。私たちを陥れようとしているのだ、話せる者がいるなら連れてこいと騒ぎ出した。
確かに友好国であるが、普段は大陸公用語で話すので、かの国の言葉を話せる者は少ない。言語体系がまるで異なるので、学者や研究者以外で砂漠の国の言葉を話せる者を、俺も知らない。証言は本当なのだろうか。
「私が話せます」
現れたのはソフィアだった。ソフィアは侍女たちの前に行き、長々と砂漠の国の言葉で話しだした。みるみる侍女たちの顔色が悪くなっていく。最後は諦めて項垂れた。
ソフィアはこちらに向き直って、今の会話を説明してくれた。すべてフェリダと侍女、ほか使用人で結託してやったことだった。
その後、俺の執務室にアーリフとソフィアを招いて話をした。
「ソフィア、アーリフの国の言葉、話せたんだな」
「大陸公用語のほかに最低3か国語をマスターしないといけなかったでしょ。どうせなら、みんなが話せる言葉より、マイナーな方が有利じゃないかと思ったの」
「マイナーで悪かったな」
「だって綴りも発音も難し過ぎるじゃない。みんな途中で諦めるのよ」
「ソフィアはよく諦めなかったな」
「それは、いつか砂漠の灌漑の様子を見に行きたいと思っていたから。現地の人と話すのに、大陸公用語じゃ、通じないかもしれないでしょう」
「それも灌漑のためなのか。どれだけ好きなんだ、灌漑が」
「だって、すごい種類があるのよ。点滴灌漑だって、実は古代からその発想はあって、すごく素朴な方法でやっていたの。人間の農業に対する情熱に惹かれるのよ」
聞いていたアーリフは面白そうに笑って、俺に小声で言った。
「君より灌漑の方が好かれているよね」
「知ってる」
だが、俺は諦めるつもりはない。灌漑以下の男で終わってたまるか。
「しかし、これで、あのとんでもない姫との縁談はなくなったな」
「うちとしても、フェリダとその取り巻き、第二王子一派、これ幸いとフェリダを追い払うために縁談を推し進めてきた連中を一掃できるな。友好国になんてことをしてくれたんだと。年寄り連中がだいぶ片付いてすっきりする」
「最新の灌漑技術を教わった対価は、この件でチャラになるかな」
「もともと農業技術は広く共有すべきだっていうのが父の考えなんだ。だから、そうだな、チャラにしてくれるなら、むしろ礼を言うのはこちらの方だ」
「そこのところは国としてきちんと書面に残そうか、反省を活かして」
「そうだな」
こうして砂漠の爆弾姫との話がなくなって、俺は心から安堵した。
もちろんソフィアとの話が進んだわけではないが。
後日、父親である陛下に呼ばれた。
「先日のことは無事片がついた。それで、お前が結婚したいと言っていた相手は、あの国の言葉が話せる文官だったな」
「はい、ソフィア・ロンバルディ子爵令嬢です」
「うむ。とっさにルイに知らせたのは良き判断であった。ほかの者であれば、あの場にあのように乗り込む無作法をためらったかもしれん。おかげで友好関係を壊さずに済んだ」
「それは彼女の手柄になりますか」
「公にできる手柄ではないな」
「確かに」
「だが、これからも彼女の動向に注目しよう」
「それは、私の結婚相手として見極めるという意味ですか」
「いや、世間話の一つにすぎん」
「では、今日の呼び出しの理由は」
「シモーニ侯爵家の次女との縁談がある」
「断ってください」
「分かった」
あまりにあっさり言うから驚いた。
「良いのですか」
「今のお前と結婚しても、その娘は幸せにはなれぬわ。お前の仕事への意欲も減退するだろうしな。
王太子のところには、来月、子が生まれるし、ルイにも婚約者がいる。お前ひとり多少フラフラしていても、仕事さえしっかりしていれば構わん。だが、文官の娘との婚約を認めるというわけではないぞ。猶予を与えるというだけだ」
「はい」
与えられたのは猶予だけだった。これは、諦める時間をくれたということだろうか。それを確認する勇気はなかった。
仕事の合間に、中庭のベンチで束の間の休息をとる。いつの間にか習慣になってしまった。
侍従には先に執務室に戻ってもらった。
「サミュエル殿下?」
話しかけてきたのは、例の砂漠化した伯爵家の次男、アダンだった。
「アダンか。珍しいな、こんなところで」
「あの、めったにない機会ですので少し話をしたいのですが、時間はありますか」
「少しなら」
「あの、シモーニ侯爵家の令嬢と婚約が決まったというのは本当ですか?」
「そんな事実はないぞ」
「本人が言い回っているので、さすがに本当なのかと思ったのですが」
「いや、先日父を通して話があったが、その場で断った。微塵も迷わなかったのだが、断られたことを知らないのか?」
「噂を広めてしまえば、淑女に恥をかかせてはいけないと思ってもらえると考えたのではありませんか」
「質が悪いな」
「それだけではありません。ソフィア嬢に、あることないことで言い掛かりをつけているらしいですよ」
「なんだそれは」
「殿下はソフィア嬢に求婚したんですよね」
「アダンと、アダンの兄もだろう」
「そうやって三人の男を手玉に取って、とかいうふざけたセリフを私も直接耳にしました。私も殿下も、手玉に取られた間抜けな男扱いですよ。なんとかしてください」
「いや、自分のけりは自分でつけるが、お前たちの面倒までは見ないぞ」
「俺に言いに来るわけじゃないから微妙に絡みづらいんですよ。下手に出ていって庇えば、火に油でしょうし。正解が分かりません」
「俺がその現場に居合わせれば、対処もしやすいんだがな」
「とにかく、そういうわけですので、お知らせだけでもと思いまして」
「分かった。忠告に感謝する」
シモーニ侯爵か、そう野心家にも見えなかったが、何か企んでいるのか。それとも、娘の暴走を止められないだけなのか。しかし、身分さえあれば、俺の婚約者を騙ることも平気でするのか。自分自身にどれだけの価値があると思っているんだ。
身の内に不満をくすぶらせながら夕食を食べていると、思わぬところから攻撃を食らった。
「サミュエルお兄様。ソフィア様とはどうなっているのです。一向に嬉しい報告がないのですが」
「・・・」
「お兄様?」
「ミシェル、兄上には、今のところ、気乗りしない縁談しか来ていないからね。肝心のソフィア嬢には、それはきっぱりとお断りされたようだし」
「一度振られたくらいで諦めるんですの?聞いたところでは、廊下で呼び止めて、唐突に結婚してくれって言ったのですってね。ロマンスはどこに置き去りになさったの?乙女は、ときめきませんわ」
「ときめきとか、要らないだろ。結婚は現実で、生活で、人生だ」
「まあああ、この唐変木お兄様!ルイお兄様も何とか言ってください」
「仕方ないよ、そこが兄上の良いところでもあるんだから。そしてそれは、ソフィア嬢の求めているものに近いと思うんだけどな」
「どこがですの」
「好きだとか、愛してるとか、そういう一過性の激情など信じないってこと。一生を共に過ごす覚悟を示す方が有効だと思うけど」
「でも、それだって口にしていないでしょう。少なくとも、急いでいる相手に廊下で話すようなことじゃないわ」
「それは、完全に同意」
「私がせっかく、おばあ様や、バルベリーニのアウローラ様にご賛同いただいたのに、お兄様がそんなでは、話が進まないのよ。外堀を埋めることも大事だけど、うかうかしていると、傍から埋めたはずの外堀を掘り返されてしまいますわ」
「まあ、そうだよね。外堀は秘密裏に埋めるもの。これだけ噂が広まっていれば、邪魔だてするものも現れるよ」
「俺がソフィアに振られた話は、そんなに広まっているのか」
「いや、何言ってんの。普通に誰でも通る廊下でのことでしょう。即日、すごい速さで広まってたけど?」
「誰も何も言わなかったのは、気の毒がられてたってことかな。ごく一部に知られているだけだと思っていた」
「だから、ソフィア嬢は兄上に会わないように気をつけていたし、シモーニ侯爵家の令嬢のように、今がチャンスだと思う者が出てきたんじゃないかな」
「ああ、そういうことか」
「とにかくお兄様、外堀埋め作戦より、ソフィア様の心を動かすことをなさいませ。他国に逃げられても知りませんわよ」
「他国?」
「今度、治水関係を学ばせるために他国に若手文官を派遣するする話があって、希望者を募ることになったんだ。ソフィア嬢、灌漑とか治水とかやけに関心あるよね。ほとぼりが冷めるまで逃げ出すかもしれないよ」
「お前たちはなぜそれを知っているのだ」
「私は、バルベリーニのアウローラ様からお聞きしました。治水といえば、バルベリーニ公の管轄でしょう。アウローラ様は、王立学園で騎士科に転科できたことをすごく感謝しているの。ソフィア様が直接したことではないけれど、転科という道を示してくれなかったら、領主科で変な女に絡まれて、くすぶっていたと思うのですって。騎士科でのびのびと学園生活が送れたことを喜んでいるのよ」
「そういえば、今でもたまに、騎士に交じって訓練してるな。性に合っていたんだろう。当時の俺の判断、グッジョブ」
「おばあ様もね、母国の言葉を流暢に話せるソフィア様が気に入ってるみたいよ。輿入れについてきた侍女は、もう引退して身近にいなくて、たまに母国の言葉が懐かしくてたまらないらしいの。私が一度ソフィア様を招いて、おばあ様とお話してもらったら、おばあ様すごく喜んでくれたわ。サミュエルお兄様とのことを話したら、いつでも協力するわって請け負ってくれたのよ」
「そうか」
「だから、しっかりね、お兄様。乙女にロマンス、絶対必要だから!」
12歳の妹に、はっぱをかけられてしまった。ロマンス、必要なのだろうか。
その翌月。
俺は、アダンを介して、ソフィアを執務室に呼んでもらった。前のように、廊下で立ち話という愚はおかさない。
「出発は、明日か」
「はい。一年間の予定で行ってまいります」
ソフィアは、治水を学びに他国に行く3人の中に選ばれた。
「帰国したら、改めて結婚を申し込むが、良いだろうか」
「サミュエル殿下、なぜ私なのです。相応しい相手は他にいるのではありませんか」
「爵位の話か?」
「はい。わざわざ反対されるような相手を選ばなくても、と思うのです」
「では、爵位と、周りの反対がなくなれば、申し込みを受けてくれるのか」
「なんだか意地になっていませんか?」
「いや、欲しいものを欲しいと言っているだけなんだ。結婚するなら、一緒に同じ方向を向いて話ができるソフィアがいい。頑張っているソフィアを褒めてあげるのは、ロンバルディ子爵じゃなくて、俺でもいいじゃないか」
「それって、上司と部下の関係でも、できることではないですか」
「ソフィアは、結婚しないつもりなのか」
「今は、その予定はありません。幸せな家庭が、想像できないのです」
「じゃあ、俺がソフィアの代わりに想像する。そして色々なパターンを提案する。良さそうなのがあったら採用してくれ。そういう家庭を築くように努力しよう」
くすくすとソフィアが笑い出した。
「私が採用、不採用を決めるのですか」
「そうだ。思いつくたびに手紙で知らせよう。そして一年後に、どれを採用するか聞かせてくれ」
ソフィアは笑って、ゆっくり考えますと言ってくれた。
「サミュエルお兄様、それが渾身のロマンスですか」
ミシェルに促されてソフィアとの会話を聞かせれば、ことさら大きなため息をつかれた。
「でも、ソフィア嬢は笑っていたんだろう?それで良いと思うけど」
ルイの感想は好意的だ。
「そうですね、これで手紙を何通でも送りつける理由ができたと思えばいいのですね。お兄様、頑張って!私もお茶会で、お兄様の自称婚約者候補を蹴散らしてまいりますわ」
「ほどほどにしてくれよ。ソフィアが悪者にならないように」
「心得ておりますわ。アウローラ様とおばあ様も味方ですもの。近いうちにお母様も味方に引き込むつもりよ」
「ミシェルが味方で心強いよ」
さて、俺も妹に頼るばかりじゃなくて、腹をくくって根回しをしなくてはだな。それと、ソフィアが納得するような幸せな家庭を想像して書き送ろう。
そうして俺は、一年の間に何通もの手紙をソフィアに送った。
結婚式に始まり、二人の生活、季節ごとの楽しみ、日常、旅行、仕事、食事、子どもが生まれて一緒に遊んで、さらに家族が増えて・・・。
なんだか妄想日記みたいになって、我ながら気持ち悪いと思う時もある。笑い飛ばしてくれたらいいが、読まずに机の奥にしまわれていたらと思うとへこむ。
その間にも、ミシェルたちの援護射撃で母親が首を縦に振り、ソフィアの上司である伯爵が、身分が必要なら伯爵家の養子にしようと言ってくれた。ただし、結婚をしても仕事を辞めさせないとの言質を取られた。もちろんだとも。
長いようで短い一年が過ぎようとしていた。
王太子である兄のところには昨年男の子が生まれ、すくすくと育っている。
母と兄と、アウローラの義父であるバルベリーニ公の後押しで、とうとう父の承諾も得た。
あとは、ロンバルディ子爵だが、ここはソフィアと一緒に行きたいと思う。
「お帰り、ソフィア」
俺は執務室で帰国したソフィアを迎えた。
「ただ今帰国しました、サミュエル殿下。お手紙ありがとうございました。異国の地で、寂しさを感じることなく仕事に集中できたのは、殿下のおかげです」
「それで、返事は、どの幸せのパターンを採用する?ちなみに、陛下や王太子殿下の承諾は得たからね。爵位のことなら、君の上司が伯爵家の養子に迎えることもできると言ってくれたから、あとは二人でロンバルディ子爵のところに報告に行くだけなんだ」
「・・・そんなこと、手紙では一言も書いてなかったではありませんか」
「だって、手紙に書いて送ると約束したのは、俺の想像した幸せな家庭だから、現実の些末なことはどうでも良かったんだ」
ソフィアが静かに涙を流し始めた。
「え、どうした、どのパターンもだめだった?まさかの不採用?」
「いいえ、いいえ、どの手紙も幸せそうでした。これが本当であればいいのに、と思いながら読みました」
「じゃあ、本当にしよう。あとはソフィアが頷くだけでいいんだから」
ソフィアはようやく笑って、頷いてくれた。
あの日、中庭でジュリアに焚きつけられてからの俺の悪あがきは、無事に実を結び、ソフィアと結婚することになった。
ジュリアはその後、ただ傍観していただけかと思ったら、自分が結婚した後、どれだけ毎日が楽しいか、信頼できる人といることが安らげるか、折に触れソフィアに話して聞かせたらしい。それを聞いて、ソフィアは、結婚を真面目に考えてみる気になったらしい。
思った以上にたくさんの人に助けられてしまったが、同時に祝福されているということでもあるから、心置きなくソフィアと幸せになろうと思う。
俺の書き送った幸せな家庭の手紙は、今でもソフィアの机の中に大切にしまわれている。
日々の暮らしの中で、ふと、こんな未来を書き綴った気がするなあと思い出すことがある。そうするとソフィアも、俺の方を見て笑う。ソフィアも覚えているんだな、と思うと嬉しくなる。
書ききれなかった未来はどこに向かっていくのか、二人でゆっくりと確かめていきたい。
読んでいただき、ありがとうございました。