第1話:視えない世界と名もなき青年
本編、始まります…多分…
「……見えないな…」
窓の外を眺め、彼は呟いた。
それは、彼にとって初めての感覚だった。
幼い頃から、誰にも見えない“それ”が、彼には見えていた。
けれど今、目を凝らしても、心を澄ませても、何も映らない。
ユウヒは、静かに息を吐いた。
世界は静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
罪悪感のレリクスが討伐されてから、もう何年も経つ。
それなのに、次の“何か”は、まだ現れない。
ユウヒは、図書館ーリーヴァリーーの奥で静かに本を閉じた。
普段見えているはずの"白き塔"が、今日も、見えない。
彼にしか見えないはずのもの。
誰にも説明できない、誰にも理解されないもの。
世界を貫いているものが、今は見えなかった。
「……ユウヒ?」
背後から、柔らかい声が響いた。
振り返ると、ホウジュンが立っていた。
「最近、よくここにいるな……何か、あったか?」
ユウヒは少しだけ目を伏せた。
答えようとしても、言葉が見つからない。
「……いや、何も。」
嘘だった。
でも、それは誰かを傷つけるためのものじゃない。
自分を守るための、ささやかな防壁だった。
ホウジュンはそれ以上は何も言わなかった。
ただ、隣に座り、静かに本棚を見つめていた。
その沈黙が、ユウヒには少しだけ、救いだった。
ーーー
セントリウムの広場は、夜明け前の静けさに包まれていた。
ほんの少しだけ空が白み始めている時間。
キキョウは、足音を潜めるように歩いていた。
ふと、視線の端に人影が映ったように感じた。
「………?」
こんな時間に?と、自分を棚上げしつつ、そちらに視線を向ける。
淡い色の髪色。
焦点が定まってなさそうな瞳。
ここでは見かけたことのない顔だった。
「お前、誰だ?」
思わずかけた声に、青年はゆっくりとこちらを向いた。
けれど、反応は鈍かった。
呼ばれたことへの反射だけで、意味を理解していないような、そんな感覚。
「………俺?」
青年はポツリと音をこぼし、胸に手を当てる。
「俺、は……」
そこで、彼の顔が苦痛に歪む。
手を額に当て、ふらりと体を折り曲げたかと思うとーーー
「っ、……」
膝をつき、そのまま、崩れ落ちるように倒れた。
「おいっ!!」
キキョウは慌てて駆け寄る。
青年は、冷たい体温のまま、気を失っていた。
「……なんだよ」
誰ともなく呟きながら、キキョウは彼を抱え上げた。
ーーー
医務室へと連れて行き、彼を託す。
運はれていった彼を見ていると、ひとりの看護師が事情を説明してくれた。
「あの子ね、外で倒れているのを巡回組が見つけたのよ。保護したのは、いいんだけど…」
「………けど?」
「目が覚めたら、勝手に抜け出しちゃったんだって。探してたの」
だから、助かったと、苦笑まじりに言われた。
キキョウは寝かされている彼に視線を向ける。
思い当たることと言えば、オブリシカ災害だ。
あれに巻き込まれて、家族や友人…全てを失う人もいる。
そして、あまりの衝撃に、精神を病んだり、記憶を失うことだってザラだ。
「......にしては、妙だけど」
「?…何か言った?」
オブリシカ災害は確かにある。が、最近ではオブリシカが顕現していない。
時差的に被害があることもないこともないが、それにしても中途半端な期間である。
そんなことを考えて、つい零れた言葉に反応され、キキョウは苦笑をして、首を横に張った。
邪魔にならないように壁際に凭れ、キキョウは彼の様子を少しの間うかがっていた。
「名前は?」
「……」
見を覚ました青年に、医師はゆっくりと問いかける
けれど、彼は少し考えた素振りを見せ、首を横に振った。
「わからない。......何も」
キキョウは、一度目を伏せた。
やはり、記憶がなくなっているらしい。
気の毒と思いながら、あと自分ができることは何もないと思い、部屋を出ていこうとした。
「あ………っ」
彼が出ていこうとする素振りを目端に捉えた青年が声を発し、キキョウは咄嗟に足を止める。
少し逡巡しながら、青年に近づいたキキョウが、どうかしたか?と問いかけた。
「あ、いや…なんでも、ない…」
悪い。とバツが悪そうに零し、首を横に振った。
あからさまになんでもなくない様子に戸惑うキキョウ。
ふと、視線を医師に向けると、医師は軽く頷いて、その場をキキョウに譲り退室した。
残されたキキョウは、先ほどまで医師が座っていた椅子に腰掛ける。
「なにも…覚えてないのか?」
キキョウは問いかけ、青年は再度考え込む。
が、何を思い出そうとすると頭が痛むらしく、彼は顔を歪めた。
「いや、無理しなくていい…悪かった」
「……何も、ないんだ…」
目を伏せた彼が、キキョウの問いに言葉を探すように、唇を震わせた。
ポツリと、掠れた声が零れる。
何かを、思い出せないのではない。
最初から、何も持っていない。そんな口ぶり……
キキョウは青年の表情を見つめる。
その瞳は、何も映してないようにすら見えた。
そして、不思議な透明さが際立っていた。
この青年はまるで、“名前がないこと”が当然のようだ。
不自然のまま、自然にそこにいる。
ーーーなんなんだろう。
胸の奥に、ひどく言葉にしづらいざわつきが生まれる。
喉に引っかかるような違和感。
声をかけようとして、でも呼びかける“名前”がない。
世界から置き去りにされた誰かに、手を伸ばしたいのに、届かない。
そんな、もどかしい気持ち…
ーーこのまま、何者にもならず、誰からも名を呼ばれなければ、
ーーこの存在はきっと、跡形もなく消えてしまう。
名もなく、生まれもなく、行き場もなく。
誰からも望まれず、見過ごされたものの末路を、キキョウは知っている気がした。
理由なんてなかった。
けれど、そのとき…キキョウの口から、自然と言葉が漏れた。
「………カナタ」
「え?」
キキョウの言葉に、青年は小さく瞬きをした。
「カナタ、でどうだ?(仮)だけど…お前の名前…」
苦笑しながらキキョウが言う。
なんとなく浮かんだ名前を、彼に贈った。
しばらくの沈黙。
そのあと、青年は微かに口元を揺らす。
「カナタ……」
「名前ないと、不便だろう?だから…」
思い出すまでの、暫定。
「気に入らなかったら……」
「いや…!」
キキョウの言葉を遮るように、青年ーーカナタは顔をあげて、ニカッと笑った。
「気に入った!」
「そうか」
先ほどまでの雰囲気を一変させたその表情に驚くが、つられるように、キキョウも笑みをこぼした。
ワンコ属性カナタを、よろしくお願いします。
あと、キキョウ…男です(何)