第8話 醒めないでいるために
朝、カーテンの隙間から差し込む光が、ゆっくりと留譜のまぶたをくすぐった。
目を覚ましても、すぐには体を起こさない。静かに、じっと、天井を見つめていた。
夢の中で誰かと話していた。言葉の細部はもう思い出せないが、穏やかな声と、ゆるやかに動く景色だけが残っている。
もう少し眠っていたかった。でも、同時に、醒めたことに少しだけ安心もしていた。
今日は大学に行く日でもバイトの日でもなかった。特別な予定もない。
それでも、着替えて、髪をとかして、外に出る。理由はない。ただ、そうしておきたかった。
歩く速度はゆっくりだった。途中で立ち止まることもあったけど、それでもまた歩き出せた。
道ばたの花の名前は知らないが、咲いていることにだけは気づけた。
図書館の入り口で、思いがけず宮坂と出会った。
「奇遇ですね」
「うん、たまに来たくなるんだよね、ここ」
「私もです」
互いにそれ以上理由は訊かなかった。
自然な流れで館内に入り、階段を降りて、いつもの閉架書庫の前に立った。
言葉は少ない。けれど、ふたりのあいだには前よりずっと温かな静けさがあった。
ひとしきり本を探したあと、留譜は、ふと宮坂に尋ねた。
「……この前言ってた、“がんばらないで動く”ってこと、まだ続いてますか?」
宮坂は、少し考えてから答えた。
「たぶんね。相変わらず自分が何をしたいのか、はっきりわかってるわけじゃないけど……この間、屋上で風に吹かれたとき、思ったんだ。
“これが答えじゃなくても、答えを待ってる時間も、案外悪くないな”って」
「……うん」
「それでさ、最近は、探すのをやめることじゃなくて、“探し続けてる自分”を置いておくって感じ。無理しないで。
焦ると見つからないし。焦らなくても、見つからないかもしれないけど」
「でも、見つけようとするのって、動いてるってことですよね」
「そう。止まってるようで、どこかに向かってる」
図書館を出ると、空は薄く曇っていた。
けれど風は穏やかで、歩くにはちょうどいい気温だった。
「宮坂さん」
「ん?」
「私、夢って、少し怖かったんです。
目が覚めたとき、そこに何もなかったらって思うと。
でも最近は、醒めても残るものがあることに、ちょっと気づけました」
宮坂はそれを聞いて、ゆっくり笑った。
「それってたぶん、あなたが目を開け続けてるからだよ。
ちゃんと“醒めないでいる”っていうか……」
「醒めないでいる、か……」
留譜はその言葉を、胸の内で反芻した。
現実から逃げるように眠る日もある。
でも今は、眠っても、ちゃんと起きて、何かを見る自分がいる。
それはまだ不安定で、よく揺れるけれど、確かに前よりも「目を開けている」感覚があった。
「……ありがとう、ございます」
「こちらこそ」
ふたりはまた、並んで歩き出す。
交差点で、自然に別れ際がきた。
「また、話しましょう」
「うん、またね」
部屋に帰った留譜は、ノートを一冊取り出した。
最後のページに、ふと思いついた言葉を書き込む。
「醒めないでいるために、眠ってもいい」
その隣に、小さな丸を描いた。
特に意味はない。でも、その丸が、今日の終わりをやさしく包んでくれる気がした。
窓の外で風が吹く。
カーテンがふわりと揺れた。
留譜は、また少しだけ笑ってみた。
この物語は、「無理をしないで生きたい」という理人と、「思考の奥に身を置く」留譜が、それぞれの静けさを保ちながら、ふとすれ違う時間の中で言葉にならない気配を交わしていく話です。
お互いが「理解しよう」と努力するわけではないし、「分かり合えた」という実感があるわけでもない。それでも、出会った意味はきっとどこかに残る──そう信じて書きました。
理人は、沈黙を守ることで生きていて、留譜は、言葉にならないもののなかに居場所を見出している。
そのふたりが出会っても、大きな事件は起きません。ただ、ほんの少しだけ視界が開けたり、言葉の届かない場所に別の風が吹いたりする。
そのささやかな動きが、彼らにとっての「変化」だと思います。
現実の中で、私たちはしばしば「頑張らなきゃ」と自分を追い込んだり、「分かり合わなきゃ」と無理をしてしまいます。
でも、この物語のように、“静かにすれ違う”ことからはじまる関係も、きっとあっていいのだと思います。
読んでくださったあなたの中にも、理人や留譜のように、無理に言葉にしないで抱えている何かがあるのなら──
そのままでも、きっと大丈夫です。
「そのままでいること」を許すための物語を、書いたつもりです。
ありがとうございました。