第5話 名前のない感情
午後の図書館は、窓際の席だけがやや明るく、他の場所はすこし薄暗かった。天気の悪い日の自然光は、どこか形のないものを照らすにはちょうどいい。
留譜は、紙の本を一冊、机の端に置いて、開かずにいた。視線はずっと、その背表紙の文字の、かすかにすれた部分を眺めている。
「国語の先生になりたかったことがある」と、ふと口にしたのは、宮坂が席に着いて五分ほど経ったころだった。
宮坂は、持っていたシャープペンの芯を出しかけたまま、少し動きを止めた。
「……へえ」
それは、意外というほどでもなく、無関心というほどでもなく、ちょうどいい音量と温度で発された言葉だった。
「中学のとき、授業が好きだったんです。特に詩の時間」
「詩?」
「はい。作者が何を思って書いたか、どうでもよくなるくらい、言葉が先に届くんです。意味じゃなくて、触覚みたいに」
「触覚って……」
「たとえば“海が青い”って書かれてるとき、その“青”って色じゃなくて、温度だったり、黙ってる感じだったり、動けなさだったり、そういうことを感じません?」
宮坂は、少し考えて、それからうっすら笑った。
「……そういう話、嫌いじゃない。でもそれ、先生になりたかった理由か?」
「……違うかもしれません。でも、“違うかもしれない”って思えるのが理由だったかもしれません」
留譜は、ぼそりと言って、ようやく本を開いた。宮坂の方を見ないまま、ページをゆっくりめくる。
「結局、先生にはならなかった。というか、いつのまにか忘れてました。大学入るときも、そのこと、ほとんど思い出さなかったんです」
「今、思い出したの?」
「いえ……昨日、寝る前にノート見返してたら、小さい頃に書いた『なりたいものリスト』が出てきて。そこに、“国語のせんせい”って」
言葉にしてみると、妙に遠いものに聞こえた。
宮坂は、さっきまで書いていた紙の余白に小さく何かを描いていた。正方形を斜めに分けるような線、それから丸、曲線。図形と抽象のあいだにあるもの。
「夢って、何だろうな」と、宮坂がぽつりと言った。
「夢……ですか」
「いや、その“国語の先生になりたかった”っていうのも含めて、たとえば俺が今、プロサッカー選手になりたいって言ってもさ、冗談だと思うだろ」
「たぶん、笑ってしまうと思います」
「でしょ? でも、それが“夢”ってやつなんだよなって。よくわからないけど、そう言えば許されるものというか、今の自分とは関係ないまま存在していいこと」
留譜は少し沈黙してから、静かに息を吐いた。
「……夢は、証明できないもの、ですか」
「証明?」
「なにか“ちゃんと持ってた”って、言い切れない気がして。子どものころ、本気でそう思ってたのか、ただ文字にしただけだったのか、今じゃもうわからない。でも、“夢だった”って言うと、それが本当だったような顔をしないといけない気がして……」
宮坂はその言葉に、なにか思い当たるふうに、うなずいた。
「俺さ、小学生のとき、宇宙飛行士になりたかったって親に言ったことがあるんだ。でも、それを本気で信じてくれたの、担任の先生だけだった。親は、ただ笑ってた」
「笑われるの、嫌ですか?」
「いや……本気じゃなかったから、別に。それに、今思えば、信じてくれた担任の方が、逆に変な感じだったよ。そんなにマジで聞かなくても、って思った」
「うーん……でも、それ、ちょっとわかる気もします」
窓の外で、風が木の枝を揺らしていた。葉が触れ合う音は、どこか気まずい沈黙と似ていた。
「……でも、留譜はその“夢”ってやつに、いま、意味を与えようとしてるのか?」
「与えようとしてるというより……そっちから歩いてきた感じです。“夢”って言葉のほうが、勝手にこっちに近づいてきたというか」
「へえ、面白い言い方」
「言葉って、そういうときありません? 自分が呼んでないのに、勝手に浮かんできて、場所を取ってるみたいな」
宮坂は、何かを呑み込むようにして、肩の力を抜いた。
「それ、俺にはまだないかも。でも……たぶん、そういう感覚で生きてるやつと、俺は今、話してるんだなって思った」
留譜は、照れたのか、小さく笑っただけだった。
そのあとの時間は、言葉が少なかった。
でも、名前のない感情が、ふたりの間に、ゆっくりと根を張っていく音だけが、どこかで響いていた。