第4話 音のない試合
週末の午後、大学のグラウンドには陽が落ちかけていた。人工芝の表面は陽射しの熱を受けて乾いており、その上を走るスパイクの音がかすかに鳴っていた。
宮坂は、サッカーボールを足元に置いたままストレッチをしていた。周囲のチームメイトたちが声を掛け合い、軽口を叩きながらパスを回している中、彼は少し離れた場所で一人、ゆっくりと呼吸を整えている。
ふと視線を感じて振り向くと、フェンスの向こう、観客席でもない芝の坂道の途中に、留譜が立っていた。
目が合った。けれど、留譜は何も言わず、ただ風に揺れる髪を耳にかけ、まばたきもせず、試合前のピッチを見下ろしていた。
──どうして来たのか。
その問いは、宮坂の喉元まで上がってきたが、出なかった。代わりに、短く手を挙げてみせると、留譜は小さくうなずいた。それだけで、十分だった。
やがて、ホイッスルが鳴り、試合が始まった。
ピッチの中は騒がしい。味方の声、審判の笛、ベンチからの指示。しかし留譜のいるフェンスの外には、その音のすべてが届かないかのように、沈黙があった。
宮坂はボールを受け、周囲を見渡し、パスを出す。その一連の流れに、感情はほとんど伴わない。ただ淡々と、役割を遂行する身体の動き。それはまるで、最初から予定されていた手順を再生しているだけのようだった。
だが、ある瞬間。敵陣の深くに入り込んだ時、ふとボールが足元から少し離れ、トラップを誤った。相手の選手が迫ってくる。そのとき、宮坂は一瞬、周囲の音がすべて遠ざかるような感覚に襲われた。
まるで、水の中にいるような静けさ。
そして──フェンスの向こうに、留譜の姿がちらりと見えた。
その視線が、まっすぐ宮坂の方を見ていた。
次の瞬間、彼は体をひねり、バランスを崩しながらも、ギリギリでボールを繋いだ。味方が走り込んで、ゴール前にシュートを打つ。ゴールネットが揺れる。
歓声が響く。チームメイトたちが集まって肩を叩き合う。
でも宮坂の鼓膜は、まだその音を拾っていなかった。
彼の耳には、芝を蹴る足音と、風の流れと、そしてボールが転がるわずかな音しかなかった。
試合が終わるころには、空がすっかり淡いオレンジ色に染まっていた。
宮坂は水を飲み、ジャージを羽織ってから、観客席の裏にある小さなベンチに腰を下ろした。誰もいないはずのその場所に、もうひとつの人影があった。
「……来てたんだな」と、宮坂は言った。
留譜は、ただうなずいた。
沈黙が続く。でも、それが心地悪いわけではなかった。セミの声が遠くで響き、風がベンチの下をすり抜けた。
「……動いてるもの、見るのは好き」
留譜が、ぽつりとつぶやいた。
「止まってると、全部が自分に向かってる気がして、きつい。誰も見てないのにね」
宮坂は少しだけ、目を伏せた。
「わかる気がする」と彼は言った。「走ってるときは、何も考えない。ただ、どうすればパスが通るかとか、そういう単純なことだけ。むしろ、頭の中が整理されてくる。試合中は、妙に静かなんだ。音はいっぱいあるのに」
留譜は彼の言葉を聞いているようで、聞いていないような顔をしていた。
「静かなのは、動いてるからか」
「……うん。止まってると、逆にうるさい」
二人の間に、また沈黙が戻る。でも今度は、それがひとつの会話のかたちのようにも感じられた。
ベンチの脇に落ちていた木の葉が、風に吹かれて地面を滑っていく。誰もその動きには気づかない。けれど、それもまた、確かな存在の証だった。
やがて宮坂が立ち上がる。軽く伸びをしてから、留譜の方を振り返る。
「じゃあ、帰るか」
「……うん」
それだけ言って、ふたりは並んで歩き出した。
夕暮れのグラウンド。人工芝の匂い。遠くでボールを片付ける音。
留譜は一度もその方向を見なかった。ただ、宮坂と同じ歩幅で、ゆっくりと歩いた。
動き続ける世界の中で、自分の輪郭がぼんやりと保たれる感覚。
それだけで、今日は十分だった。