第3話 言葉の裏側
喫茶店のドアが、軽やかな音を立てて閉まった。薄曇りの空の下、午後の街はやや湿り気を帯びていたが、この店の中にはわずかな乾いた空気が漂っている。天井近くの小さなファンが、ほとんど音もなく回っている。
テーブルの上には、アイスコーヒーとミルクティー。グラスの外側には細かな水滴が浮かんでいた。宮坂が先に口を開いた。
「論理って、どこまでいっても感情から切り離されないよね」
留譜は答えずに、グラスの氷が鳴るのをじっと聞いていた。返事を待っていたのか、それとも独り言だったのか。沈黙が続く。
「たとえば、“なぜ”を追いかけていくと、最後に残るのって、説明できない“だからそう思った”じゃない?」
ようやく留譜が目を上げた。「そう思わない人もいるかもしれない」と、静かに言う。
「それもまた、そう思うってことか」
軽く笑った宮坂の顔に、どこか探るような視線があった。だが留譜はそれに気づかないふりをした。
背後の席からは、静かな話し声と陶器の触れ合う音。近くに誰かがいることが、妙に遠く感じられる空間だった。
「なんで哲学なんて選んだの?」宮坂が訊いた。
「なんで、って訊かれると困る」
「じゃあ、どこが面白いの?」
「わかることと、わからないことがずっと隣にあるから」
宮坂は頷いた。けれど、その言葉の意味をすぐに呑み込んだわけではないようだった。
「論理って、言葉の運び方でしょ? でも、感情って、言葉じゃ届かないところにある」
「届かないけど、言葉でなぞるしかない」
「届かないって、わかってるのに?」
「……うん。届かないって、わかってるから、言葉を使う」
ふたりとも、少し黙った。止まったような時間。外ではまだ、雲が重く垂れていた。
「言葉って、うまく使えないことがある」留譜が言った。「自分の中で形になってない感情を、誰かに説明しようとすると、むしろ遠ざかっていく」
「でも、説明したくなる」
「……説明できたら、楽になるかもしれないって思う」
宮坂はグラスを両手で包んだまま、視線を落とす。「私、喋ってる途中で、何を言いたいかわからなくなることがある」
「ある。というか、だいたいそう」
「でも、話すのやめると、もっと迷子になるんだよね」
その言葉に、留譜は微かに笑った。それは同意というよりも、予想していなかった親しみの笑みだった。
窓の向こうでは、自転車が一台、ゆっくりと坂を下っていた。
「喋りながら考えてると、考えるより先に言葉が出てしまうことがある」
「うん。で、言葉のあとから自分が追いつく」
「そう。それで、“あ、こんなこと考えてたんだ”って気づく」
グラスの氷は、ほとんど溶けていた。薄くなったコーヒーを一口飲んで、留譜は背もたれに体を預ける。
「話してると、自分が思ってる以上に、言葉って勝手だなと思う」
宮坂は、頷いた。「でもその勝手さに救われることもあるよね」
それがどういう意味か、留譜は考えようとしたが、考えかけたまま手放した。
たぶん、それでよかった。
外に出ると、雨は止んでいた。