第2話 傘の中の無言
昼過ぎ、空は鈍い鉛色に染まっていた。降り出した雨は細く冷たく、石畳の上に柔らかく音を落としていた。留譜は、渡り廊下の片隅に立っていた。足元に広がる水たまりを見つめながら、特にどこに行くでもなく、ただその場にいた。
人の流れは速い。傘の群れが行き交い、会話と足音が交じって遠ざかっていく。その中で留譜だけが、まるで雨に置き去りにされたかのように、動かなかった。
「……また、こういうところで会うんだね」
声がした。振り向くと、宮坂がいた。黒い傘の縁から、雫がぽたぽたと落ちていた。今日はベージュのコートを着ていて、いつもより少しだけ大人びて見えた。
留譜はすぐに返事をしなかった。ただ、視線をそらさずに宮坂を見つめていた。雨の音が、間を埋めていた。
「ひとりでここに?」
宮坂の問いも、特に答えを期待しているようではなかった。沈黙に慣れている人だった。だからか、留譜はほんのわずかに頷いた。
「行く場所、ある?」
再び首を横に振った。講義はとっくに終わっていた。家に帰るのも億劫で、学食に行く気にもなれなかった。時間の流れが、留譜だけを置いて進んでいるような感覚だけが、はっきりとあった。
宮坂は、ためらうことなく傘を差し出した。ふたつに分かれていた空間が、ひとつになった。
「濡れるの、きらいじゃないけど。今日は寒いから」
留譜はまた、返事をしなかった。だが、ふたりの距離は自然と近づいていた。傘の内側に入り込んだ留譜は、静かに歩き出した宮坂に、合わせるように足を運んだ。
構内の木々は、夏の名残をまだわずかに残していた。雨に濡れた葉が、光を吸い込むように重く揺れている。歩くたびに、二人の足音が石畳に吸い込まれていった。
「ねえ、留譜くん」
宮坂がぽつりと呟いた。
「ずっと、こうしていたいって思うとき、ある?」
少し意外な言葉だった。けれど、留譜は否定しなかった。無言のまま、雨音と傘の中の空気だけが、その問いに応えていた。
「……わたしはね、あるよ」
宮坂の声は、少し濡れていた。感情というよりも、空気の濡れ方に似ていた。淡く、どこか熱のない言葉だった。
「この傘の中とか、渡り廊下の端っことか、誰もいない場所で。全部がはっきりしすぎないまま、ちょっとだけ立ち止まってられるところ」
留譜は足を止めた。少しして、宮坂も止まった。二人の肩が、ごく軽く触れた。
「そういう場所って、ずっと続かないのはわかってるんだけど。……たまに、そこにいたくなるんだ」
留譜は、少し傘の縁を見上げた。雨粒が弾け、透明な膜の向こうに、揺らいだ空が見えた。
言葉にしようとしたが、喉の奥で何かが留まったままだった。代わりに、ほんのわずかに宮坂の方へ身体を傾けた。それは、たぶん返事だった。
「……うん」
宮坂が微笑んだ。風がふたりの間を通り抜けた。
その後は、何も言葉は交わさなかった。ただ傘の中に閉じ込められたような世界の中を、ゆっくりと歩いた。誰もいない裏門の方へ向かって。
遠くでチャイムの音がした。雨は少しだけ弱まっていた。留譜の靴の先が、雨粒を跳ねさせた。
その日、傘の中の無言が、確かにふたりをつないでいた。
午前十時を過ぎた頃から、空がしずかに濡れ始めていた。雲は低く垂れ込め、大学の構内にある木々は、葉先に雨粒を蓄えながら、じっと動かずに立っている。
講義の合間、留譜は渡り廊下の手すりにもたれかかっていた。傘は持っていない。というより、今日が雨になることも、そもそも空を見上げることさえしていなかったような気がする。薄手のパーカーの肩はすでにじんわりと色を濃くしていたが、気にした様子もなかった。
遠くで、石畳を踏む足音が響いた。乾いた靴が水を打つ音は、なぜか耳に残る。しばらくして、傘のふちが視界に入った。
「……久しぶり」
その声が、雨音と重なって聞こえにくかったのか、あるいはそれ以上に、耳が遠くなっていたのか。留譜は少し遅れて、そちらを振り向いた。
「宮坂さん」
「うん、久しぶり」
白地に紺色の細い線が入ったビニール傘。その内側から覗く宮坂は、相変わらず、よく通る声で喋るわけではなかった。声を張らないがゆえに、聞こうと思わなければ取りこぼしてしまいそうな話し方だった。けれど、それが留譜にとってはちょうどよかった。彼女の言葉はいつも、留譜の“聴く”という行為に余白を残してくれる。
「一人?」
「……うん。時間、空いてたから」
「この後、移動?」
「雨が止んだら行こうと思ってたけど、まだ止まなさそうだね」
会話は続けようと思えば続けられたが、ふたりともそこまで積極的ではなかった。ただそこに立って、雨の気配を感じているだけで、足りてしまっていた。
「傘、ないんだね」
宮坂がふと、傘の柄を少し傾ける。声色に揶揄の気配はない。まるで、無意識に差し出すような自然さで、傘の内側に空間が生まれた。
「濡れても大丈夫だから」
「でも、どうせなら乾いてる方がいいでしょ?」
その問いに答える代わりに、留譜はわずかに肩をすくめて、隣に立った。傘の内側に身を寄せると、雨の粒がひとつ、宮坂の肩に滑り落ちていた。
歩き出すでもなく、話し続けるでもなく、ふたりはしばらくその場に立っていた。周囲を歩く学生たちの靴音、遠くで聞こえるチャイムの音、どれもが雨に吸い込まれ、輪郭を持たずに過ぎていく。そんな曖昧な時間のなかで、宮坂がふと一歩、前に出た。
「移動しよっか。次の講義、同じだったよね?」
「……うん」
その“うん”の音も、傘の内側で雨音に紛れていた。留譜は歩幅をあわせることに慣れていなかったが、宮坂の足取りが、少し緩やかだったことに気づいていた。
傘の下で交わされる言葉は、少なかった。けれど、それを不自然だとは思わなかった。もともと、言葉で満たすことにあまり興味がなかった。沈黙が、むしろ会話よりも正確に何かを伝えていることを、留譜はときどき感じていた。
ふたりの足元には、歩いた痕が残る。濡れた地面に映る自分たちの影が、少し滲んで揺れていた。
「留譜くんって、変わらないね」
「……そう?」
「前も、雨でも濡れたまま歩いてた。忘れた?」
「……あったかもしれない。でも、あんまり思い出せない」
「そういうとこも変わらない。忘れてるんじゃなくて、記録しないんでしょ?」
宮坂の言葉に、返す言葉はなかった。たぶんそれは正しい。出来事は自分の中に残っていくというより、そのまま空気みたいに通り過ぎていく。目を閉じると、どれも曖昧で、さわれないものばかりになる。
「でも、今日は記録しなよ。傘の中にいたってこと」
その言葉が、冗談のようで、どこか本気にも聞こえた。宮坂はすぐに視線を前に戻し、何事もなかったかのように歩を進める。
留譜は、視界の端に映る彼の手元――傘の柄を握る指のかたちを、ぼんやりと見つめていた。
記録する、という言葉が頭に残った。それは、目に映った景色を留めるということだけではないのかもしれない。そこにいた誰かと、そのときの自分を、繋ぎとめておくこと。
歩きながら、ふいに宮坂が小さく言った。
「今も……休んでるの?」
「……うん。ときどきは、行ってるけど」
「そっか。あのとき、心配だったから。留譜くん、何も言わないから」
「言わなかったね。なんて言えばいいか、わからなかった」
それ以上、追及はなかった。留譜の答えも、十分だったわけではないが、それが今の自分にできる限界だった。たぶん、彼女もわかっていた。
建物の入り口が近づく。そこまで来ると、ふたりの影も地面に収まらなくなっていく。傘をたたむと、宮坂は軽く首をすくめるようにして笑った。
「しばらく、雨でも悪くないね」
「……うん」
言葉の数よりも、歩いた距離の方が多かった。
けれどその分、たしかに傘の中には、静かな記録が残っていた。