第三話:計画の芽生え――盗みは情報から始まる
兵舎の薄暗い一室。木製の床に直に敷かれた粗末な寝具に身を横たえながら、犬養遥は天井を見つめていた。淡い月光が小さな窓から差し込み、壁にぼんやりと影を落としている。静寂の中、彼の思考だけが喧騒のように耳元でざわめく。
「盗む……」小さく呟いた。
それは、これまでの彼の人生の中では決して踏み込むことのなかった言葉だった。けれど、この世界に召喚されてからの現実は、彼にそんな覚悟を強いていた。
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王都ヴァル=アルテの輝かしい大広間で、祝福される勇者たちの姿を見た日。
誰にも見向きもされず、名前すら呼ばれなかった彼の存在は、《影が薄い》というスキルとともに完全に無視された。正直、怒りを覚えた。けれど、それは一瞬で冷めた。なぜなら、彼は知っていたのだ。この世界は「英雄」や「勇者」だけで成り立っていない。裏側には、汚い現実が渦巻いていることを。
「腐った貴族どもが、民からむしり取った金を宝物庫に溜め込んでいる」
その情報は、兵舎での雑用の最中に偶然耳にしたものだった。どこかで呟かれたその言葉に、犬養の心は強く動かされた。
「なら、俺が奪い返すしかない」
決して民のために、正義のために、などという綺麗事ではない。単純に、「悪よりはマシな存在でありたい」という皮肉混じりの願いだった。
彼は身を起こし、寝具から離れて窓の外を見た。王都の夜景は静かに光を放つが、その輝きは虚ろに感じられた。
「焦るな。まずは準備だ。情報を集め、敵を知り、策を練る」
そう心に誓い、彼は手元の古びた地図を取り出した。そこには王都の主要な建物や、彼が知り得た限りの宝物庫の位置が記されている。
日中は兵舎で雑用に明け暮れ、周囲の誰にも気付かれずに動く。彼のスキル《影が薄い》は、まさにこの時に真価を発揮した。
雑用の合間に忍び込むように王都の裏通りを歩き、警備の巡回ルートや死角を観察する。
彼の目は細かい変化を捉え、耳は囁きや小さな足音も逃さなかった。
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「誰か、宝物庫の詳細を知っている奴はいないか……」
彼は同じ兵舎にいる奴隷落ちした召喚者たちに目を向ける。中には王都の内部事情に詳しい者もいるはずだと踏んでいた。
だが彼らは口を閉ざし、警戒心を剥き出しにする。情報が漏れれば、すぐに処罰が待つ世界だからだ。
それでも犬養は、少しずつ距離を縮め、信頼を築こうとする。小さな雑談、軽い気遣い、時には共に雑用をこなしながら、彼らの心の壁を少しずつ溶かしていく。
ある日、薄暗い食堂の隅で、奴隷落ちの青年がぽつりと呟いた。
「宝物庫の魔石は昼間に充電される。夜は警備が手薄らしいぜ」
その情報は犬養の心に灯をともした。
「……つまり夜が狙い目か」
このささやかな一歩が、彼の計画の基礎となっていく。
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夜の王都の影に紛れ、彼は宝物庫の前まで何度も足を運んだ。鉄製の扉は重く、複数の鍵と魔法結界が張られているという。
だが《影が薄い》は、物理的存在感のみならず、魔法的な感知をも鈍らせることができる希有なスキルだった。
彼は持てる道具と情報を総動員し、結界の破り方や鍵の構造を調査し始める。扉の周囲に残る魔力の痕跡、警備兵の巡回時間、監視装置の死角……すべてを細かく記録していく。
その合間に、兵舎の裏庭で潜入の模擬訓練も繰り返した。
木箱を宝物庫の扉に見立て、足音を立てずに侵入経路を確認する。夜明けまで、影のように静かに動き続ける。
「静かに、気配を消す……それが命綱だ」
そうして少しずつ、彼は《影が薄い》スキルの使い方に磨きをかけ、盗みへの準備を進めていく。
計画はまだ始まったばかりだ。
だが、犬養は自分の盗人としての才覚を覚醒させつつあった。
犬養遥の瞳には、闇夜を切り裂く雷のような決意が宿っている。