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ニアデス・エレジー

作者: SKY

心理カウンセラーの春海葵(34歳)は事故によって昏睡状態となり、自らの過去と向き合う夢の世界に迷い込む。

合理と正しさに従って生きてきた彼女が、幼い自分との再会を通じて「感じること」の意味を問い直す心理ドラマ。

――静寂。


耳元で一定のリズムを刻む機械音だけが、かろうじて「今」の存在を告げていた。


(また、朝……?)


まぶたの裏に赤い光が滲む。

目を開けようとしたが、まぶたは石のように重い。


(朝じゃない。もう――)


どれほどの時が経ったのだろう。

意識が戻るたび、病室の白い天井と蛍光灯の反射が目に飛び込んできた。

その度に「今日こそ立ち上がろう」と思ったが、身体は命令に応じなかった。


誰もが「奇跡的な生還」と言った。

だが葵にとって、それは現実という重荷への帰還に過ぎなかった。


父は、見舞いに来なかった。

**「葵なら立ち直る」**と信じている――そう言って、何も変わらなかった。

子供の頃からそうだ。助けを求めた記憶はない。

求めても、父の答えは決まっていた。


「選べ。正しさを。」


その教えは、傷つきながらも彼女を社会的成功へと導いた。

心理カウンセラーとして、多くの患者を救い、賞賛された。

――自分自身を救えないまま。


(もう、十分だと思っていたのに……)


どこか遠くで看護師たちの話し声が聞こえた。

「春海さん、また目覚めなかったわ……」

「これで三週間目よ。奇跡も、限界がある」


(限界……)


その言葉に反応するように、光が消えた。

音も、重力も、失われていく。


ふいに――甘い香りが鼻腔をくすぐった。


(この匂い……カモミール?)


幼い頃、庭の隅に咲いていた白い花。

泣きたい夜、母がこっそりとカモミールティーを入れてくれた。

父には内緒で。

母はもう、この世にいない。


感覚が浮き上がった。


白い霧。

足元には、湿った草の感触。

裸足だった。


目の前に、小さな背中があった。

七歳の頃の自分――葵の少女時代。

純白のワンピースを着て、右手にはカモミールを握っている。


「……あなた……私?」


少女は、うなずいた。

その瞳には、長い間忘れていた責めるような、そして救いを求める光が宿っていた。


「わたしを置いていったでしょう?」


胸が締めつけられる。

言葉が、出ない。


「あなたは私を置いて、大人になったの。」

「感じることを捨てて。」


葵は小さく首を振った。

「違う。守るためだった」

「感じていたら、生きていけなかったから」


少女の瞳が悲しげに揺れる。


「でも、生きては――いた?」


ゴォン――。


低い振動音が霧の奥から響いた。


黒い樹。

大地に根を張った、揺るがぬ存在。

父の象徴。

重く、冷たく、合理という名の正しさの塔。


「選べ、葵。間違えれば、すべてを失う。」


父の声が霧の中で反響した。


少女は、震える指でカモミールを差し出した。

「もう一度、私を選んで。感じることを、選んで。」


葵の手が、ためらう。


心の奥で、別の声がこだました。


「感じれば、傷つく。間違えれば、すべてを失う。」


父の声。

これまで何度も、葵を支えてきた声。


正しさを選べば、誤りを避けられる。

合理的であれば、誰も傷つけない。

自分も、他人も。


(そのはずだった……)


葵は少女の瞳を見つめた。

そこには、共に生きようとする願いがあった。


(私は……どうしてこんなにも怖いの?)


もし、感じることを選んで、間違ったら――。

これまで積み上げた努力や成功が崩れ、誰かを傷つけてしまうかもしれない。

父が恐れていた未来が、現実になるかもしれない。


(でも……それは本当に「恐れるべき未来」?)


過去の記憶が波のように押し寄せた。

心理カウンセラーとして向き合った無数の患者。


「間違えてしまった」と泣く人。

「感じたくなかった」と苦しむ人。


皆が、「正しくあろう」として自分の心を閉ざしていた。


(私も――同じだった)

(父に認められたくて、感情を捨てた)

(けれど、それはもう私の声じゃない)


少女が柔らかく囁いた。


「お父さんの言葉は、あなたを守ってくれた。

でも、もう手放していいの」


「怖くても、間違っても、感じて、生きることができるから」


葵の胸に、熱い何かがこみあげた。

(私は――私の人生を生きたい)


静かに目を閉じた。

霧の奥の黒い樹に向かって、心の中で呟いた。


「お父さん、ありがとう。

あなたの正しさは、私を守ってくれた。

でも、これからは――自分の声に従う。」


黒い樹が軋む音が、霧の中に響いた。

大地に根を張った合理と責任の塔が、静かに、しかし不可逆的に崩れ始めた。


少女の手は、今や温もりに満ちていた。

葵は、その手をしっかりと握った。


「もう一度、あなたを選ぶ。

感じることを、選ぶ。」


ゴォォォン――。


重く深い音と共に、黒い樹は崩れ、霧が晴れていった。


少女の姿が光に包まれ、微笑んだ。


「ありがとう。私を取り戻してくれて。」


次の瞬間――

光がすべてを洗い流し、葵の意識は現実へと戻った。



目を開けた。


白い天井。蛍光灯の光。

聞き慣れた心拍計の音。


けれど、すべてが違って見えた。

感情が、確かに戻っていた。


病室の窓の外では、朝日が昇っていた。

新しい一日が、静かに始まっていた。


(私は――私を、生きる)


春海 葵は、静かに微笑んだ。

もし、この物語があなたの心に残ったなら、どうかあなた自身の“感じる力”を手放さないでください。

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