第十七話:心臓がトクンと……
腕を折られる──。
男が私の手首を持つ手に力を込めた。
このまま、手首を捻って……と思ったが、いきなり体が大きく揺れ、前に倒れ込むことになる。
何が起きたのかと思ったら……。
私の腕を折ろうとした男は、全身黒ずくめの小柄な人物との戦闘に突入している。
しかも!
「うわぁっ」と男が叫び、後退した。
顔には深々とした三本線の切り傷が見える。
まるで猛獣に顔を引っ掻かれたようだ。
しかもその傷は、上下の唇を切り裂き、そこから激しく血が吹き出している。つまり男は魔法を唱えるところではない。
そんな傷、どうやってつけたのかと思ったら……。全身黒ずくめの人物の手には、鋭利な爪のような黒い武器がつけられている。
それを私は見たことがあった。
あれは酔っ払いに絡まれた私を──。
そこでフワリといい香りがしたと思ったら、誰かに抱き上げられている。
誰!?
そう思い、顔を見上げようとして、風を感じ、体が揺れた。慌てて私を抱き上げる相手の首にしがみつくことになる。
次の瞬間には何かが燃える匂いと、目や鼻に染みる刺激臭を感じた。
「あっ!」
もうもうと煙が立ち込め、視界はすこぶる悪い。叫び声や怒鳴り声は聞こえるが、煙のせいで誰がどこにいるかは分からない。たがここが火災現場であるとは、この状況ですぐに分かった。
つまりはハーミット村の中に転移魔法で戻ったのだと理解する。
だが私は魔法を使っていない。
この場に私を連れて来てくれたのは……。
そこで地面に降ろされ、慌てて体勢を整えた。
ハンカチで口元を押さえ、身を低くする。
改めて私をここまで転移魔法で連れて来てくれた人物を確認すると、ベージュの粗末な布で頭から足首近くまで覆われているし、口元と鼻も布で隠されている。たが、美しいアイスブルーの髪、そして碧眼が見えた。
スラリとした細身の長身だが、さっき抱き上げられて分かっているが、よく鍛えられ、無駄を削ぎ落とした体躯をしている。
そして私は知っていた、この人物の後ろ姿を!
遂にその端正な顔の一部を拝むことになったが、彼は……ゼノビアの護衛だ!
ということはさっき私の腕の骨を折ろうとした男に、あの引っ掻き傷を残したのは、ゼノビアということ!?
もしそうなら、私を強引にナンパしようとした酔っ払いを、眠り薬で沈めたのは、ゼノビアになる。
そう、あの黒い鋭利な爪のような武器もまた、見覚えがあったのだ! 何より男の顔に出来た深々とした引っ掻き傷のような痕は、あの時の傷より深いバージョンで間違いない。
ということは初めてツケメンの試作品を使ったあの休憩所に、ゼノビアと護衛の青年がいたことになる。
これは驚きだったが、今はそれどころではない。
村を囲む木製の柵は轟々と燃えている。このままでは村の中の建物にいつ燃え移ってもおかしくなかった。
「あの、助けてくださり、ありがとうございます! ここへ転移出来たということは、あなたは上級魔法の使い手なんですよね!? その力を貸してください。確かあっちに井戸があったはずです。それを」
「それでは無理だ。もはや村全体を囲む木の柵に、火は燃え移っている。井戸の水で鎮火できるのは、ごく一部」
なんて爽やかな声なのだろう。
炎と煙で標高の高さを忘れる熱気に満ちていたが、今の声で一服の涼を得た気持ちになる。
「……このままでは村は焼け落ち、その炎はこの辺り一帯に広がる。そうなればタイプ1の災害規模になるだろう」
大変涼やかで美しい声音なのだけど、言っていることは実に深刻。
「……ならばやるしかない」
そう言うと青年は纏っていた粗末なベージュの布を外した。
白シャツにアイスブルーのベストに濃紺のズボン。そして足元の革のショートブーツ。想像通りのアスリート体軀だと思ったら……。
視界が消えた。
違う。私の頭から彼が纏っていた布を載せられたのだと気がつく。
「蝋を塗り撥水加工を施している。だが防ぎきれないだろう」
「!?」
「可能な限り布にくるまり、伏せているといい」
そこで青年は呪文の詠唱を始めた。
「Pluvinel, Elorin Aquador
Siliva Tempestor, Siliva Serenor」
その呪文を聞いた時、心臓がトクンと高鳴る。
これとよく似た呪文を、私は聞いたことがあったのだ。
「……クルス?」
呟きのような言葉を発したのと同時に、青年に抱き寄せられた。私の頭と体を守るように、彼の腕が回される。
同時に。
それはまるで勢いよく流れ落ちる、滝の真下に立ったような感じだった。言葉を発することも出来ないスケールで、降って来た水に呑まれた。
お読みいただきありがとうございます!
12時更新が出来ないので早やめに更新です。
次話は18時頃公開予定です~