第三十五話:忘れていないよね?
「泡風呂をご用意していますので、どうぞお入りください」
隣室があると思ったら、そこは寝室になっており、浴室も用意されていた。客室に専用の浴室がついているなんて、さすが宮殿。しかも広々とした浴室は甘い香りで満ちている。
聞くと泡風呂を作るのに使った石鹸は金木犀の香りのものだという。だからこそのこの甘い香りなのだけど……。
金木犀は東方が原産であり、アルシャイン国でも、トレリオン王国でも、まだとても珍しい。でもここは宮殿。温室などで栽培し、その香りの石鹸も作られているとのかと思ったら……。
石鹸だけではなく、ボディクリーム、フェイスクリーム、化粧水、香油なども金木犀の香りで用意されている。
この宮殿に滞在するとそんな希少な香りを楽しめるのかと思った。
「今日の日のために、用意するよう命じられ、準備されたものです」
泡風呂に浸かる私の背中を洗いながら、メイドがそう言うのでビックリしてしまう。
服や靴のオーダーメイドのように、化粧品も特注で用意しているのかと。
そこでますます確信することになる。
クラウスは間違いなく公爵家の人間なのだと。
「次は髪を洗いますね」
「あ、はい。お願いします」
ティータイムで集合は少し早いと思ったが、そんなことはなかった。
じっくり湯船に浸かり、体と髪を洗い、その後は全身に金木犀の甘い香りの香油を塗ってもらった。それから下着を身に着け、髪を乾かし、メイク、ドレスへの着替え、そして宝飾品を身に着けるのだ。
仕上がる頃には日が暮れていた。
「完成です、お嬢様」
寝室の壁にはさすがに大鏡はなく、代わりにちゃんと姿見が用意されている。そこに映る自分を見て「ほう」とため息が出てしまう。
こんな正装をするのは、断罪された日以来だった。
しかもオーダーメイドなのに、この夜空を切り取ったかのようなドレスは私にピッタリ。
髪は綺麗にアップにしてもらい、ネックレスとイヤリングとお揃いのラリエットで飾ってもらえた。
ラリエットにはネックレス以上に惜しみなくダイヤモンドが使われている。きっと貸してくれたものだと思うので、失くさないようにしないと!
メイクはふんわり淡いピンクのチークを乗せ、ルージュは健康的な血色になるよう、チェリーピンク。アイメイクはベビーブルーのアイシャドウを薄く塗る。全体的にナチュラルメイクで、悪女とは思えない清楚さ。
満足したところでクラウスの従者が尋ねてきて、そろそろ部屋に迎えに行っていいかということなので、「勿論です」と伝えることになる。
クラウスが来るまでの間に靴をスリッパからパンプスに履き替えた。そしてあの大鏡の沢山ある前室に戻り、暖炉の前のソファに座り、クラウスが来るのを待つことになった。
ただ、そこで思うのは、舞踏会は通常、21時頃からの開始である。でも今はまだ日没から少し時間が経ったぐらい。
もしかするとダンスの練習でもするのかしら?
なんて思っていたらノックの音が聞こえる。
部屋にいたメイドが扉を開けると――。
「まぁ……!」
実に陳腐な声を出してしまうが、目の前に現れたクラウスは国宝級! いつもあの粗末なベージュの布をまとっている分、それがなくきちんと正装したその姿は、目を見張るもの。
着ているのは、星を思わせるパールシルバーのテールコート。白シャツに合わせたタイは星空のような色合い。そして羽織っているマントは外側はアイスブルーで、内側はなんとドレスとお揃いとしか思えない星空を模した生地なのだ!
完璧に私のドレスに合わせたコーディネートになっていた。
アイスブルーのサラサラの髪は、前髪の分け目を変えているが、それだけで印象が変わる。眉は今回手入れしたのか、さらにキリッとしていた。相変わらず吸い込まれそうな碧眼で、鼻の高さが際立つ整った顔立ち。頬と唇の血色も良く、肌艶もとてもいい。いつぞやかのような疲れ切った様子はなかった。
「どうかな? フェリスのアドバイスでこのテールコートにした。マントは……フェリスとどうしてもお揃いにしたくて。やり過ぎ?」
「いえ。大変お似合いです」
「それは……お世辞ではなく?」
「! 私は既に社交界から遠のいた身。今さらお世辞なんて口にしません。ましてやクラウスさん相手に、取り繕うような言葉を言うつもりはありません。本当に、今日は普段と違う正装で、とても素敵です。その……クラウスさんのことは、人として尊敬しています。ですから服を褒め過ぎると誤解されそうですが……でも心から素晴らしいと思っているんです!」
これを聞いたクラウスは、護衛モードでは絶対に見せないような表情になる。
つまりこれは……照れているの……?
そのクラウスは少し早足で私の方へと駆け寄ると、美貌の顔を私の耳元に近づける。これは何度されても慣れることなく、ドキッとしてしまう。
「フェリス。僕が君を好きだってこと、忘れていないよね? そんな風に言われたら……君も僕を好きなんだって、勘違いしてしまいそうだ」
いきなりの甘い言葉に膝から力が抜けそうになる。
そしてやはり彼の体温を感じる耳元のささやきに、全身の血流がよくなってしまう。
「……いつか僕の気持ちへの返事。聞かせてもらいたいな」
とどめのような一言に、ついぞガクッと倒れそうになるが。しっかりクラウスに腰を支えられ、その危機は回避される。というか、クラウスは私の返事を待っていたんだ……。私はクラウスが催促しないので、てっきりあの件はなかったことに……だと思ったのに!
でも猶予をもらえた。今すぐ返事をなんて言われたら焦ってしまうところだった。気を遣ってくれたのだと思う。その優しさには本当に……。
クラウスの寛容さに感動していると、彼は爽やかな笑顔で告げる。
「舞踏会の前に腹ごしらえをしよう、フェリス。温室にディナーを用意してもらった。みんなで食べよう」
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次話は18時頃公開予定です~