第一話:始まり
カチ、カチ、カチ……。
庶民の家には絶対にない置時計が、暗闇の中、静かに時を刻んでいる。
カン、キン、グォーッ……
使用人を呼ぶために壁に埋め込まれたパイプ。
そこを通る風が軋むような、呻き声のような、奇怪な音を響かせている。
ガタッ
外の強風に窓ガラスが揺れる音も聞こえた。
午前二時を回ったこの時間。
皆が寝静まっている。
唯一起きているはずの警備兵も、生あくびが絶えない時間帯。
その警備兵が去った後。
誰もいないと思われた廊下で女の声がする。
「……いない。……いない」
裸足の女の足は汚れ、爪も土にまみれていた。
着ている丈の長い白い寝間着は、全身がどす黒い血にまみれている。
「……いない。……いない」
寝間着の袖口から伸びる手は、かつてミルク風呂で綺麗に洗われ、薔薇の匂いの香油を塗られて、それはそれは美しいものだった。だが今はその手も、どす黒い血にまみれ、爪も伸び、以前の美しさは感じられない。
「……いない。……いない」
女が歩いた後には、血だまりの足跡が残されている。
「……ここ、だわ」
女の足がピタリと一つの部屋の扉の前で止まった。
扉の両サイドには警備兵がいる。
だが警備兵は不審な女に声をかけることはない。
女は扉に手を伸ばす。
厚みのある木製の扉がそこにあるはずだが、その手はすっと扉の中、部屋の中へと入っていく。
手、だけではなく、腕も肩も、胴体も足も。
扉をすり抜けるようにして、部屋の中へ入ってしまった。
前室の中を、血を滴らせながら歩いて行くと、女は寝室の扉の前に立つ。
「いた」
先程と同じように、女は手を扉に伸ばす。
吸い込まれるようにその体が寝室の中へと入っていく。
寝室には豪華なキングサイズの天蓋付きベッド。
そこに眠るのは、柔らかなオレジンブラウンの髪を持つ天使のように愛らしい少年だ。
今、瞼が閉じられているが、その瞳は美しいグリーンをしている。
健やかな寝息を立てる少年の元へ、女は近づく。
「ロス・ポウルク・フリード。トレリオン王国の第二王子、みーつけた」
少年は声に驚き、目を覚ます。
そしてそこで突然轟いた雷鳴により、浮かび上がる女の姿を目撃することになる。
血まみれの寝間着、そして首から上が……ない。
◇
「フェリス・ラナ・アイゼンバーグ公爵令嬢! 貴様はここにいるアズミ・ワーリス男爵令嬢に対し、魔法を使えないことを馬鹿にし、勉強をできないと蔑む言葉を何度も投げかけた。相手が男爵令嬢だからと、そんな言葉を平気で投げかける。それが罪に問われないと思ったら、大間違いだ! 僕は貴様のような女との婚約は破棄する! 今日からアズミが僕の婚約者だ! 僕の婚約者をバカにしたこと。それは王家を侮辱するにも等しい。よって貴様のことは……」
ロス・ポウルク・フリード、十八歳。
乙女ゲーム『愛の華と魔法』の攻略対象の一人だ。
黒のテールコートを着たロスは、その腕にヒロイン……アズミ・ワーリス男爵令嬢を抱き寄せている。
ヒロインであるアズミはピンクブラウンにピーチ色の瞳。年齢より幼く見える顔立ちで、どこか男性が放っておけなくなる可愛らしさを持っていた。ここではない世界からの転移者であり、魔法は使えない。だが甘え上手で、私の婚約者であるロスを頼り、いつしか二人は恋仲になっていた。
恋仲……ここは乙女ゲームの世界だから、要するにヒロインがロスのことを攻略したわけだ。
現在彼は、悪役令嬢フェリス・ラナ・アイゼンバーグ、つまりは私に絶賛婚約破棄をつきつけている最中。そしてこの後、彼は侮辱罪で私を断罪するのだけど……。
私は声を出さず、でもロスが理解できるよう、ゆっくり大袈裟に口を動かす。
『トレリオン王国の第二王子、みーつけた』と。
これを見たロスの表情がひきつる。
私がロスの婚約者になったのは三歳の時だ。
そしてこの三歳の時点で私は、前世記憶が覚醒していた。
つまりここが乙女ゲームの世界であり、自分が婚約破棄され、断罪される悪役令嬢であると分かっていたのだ。
婚約破棄と断罪の未来を恐れ、回避行動をとる。だがそれは上手くいかないだろう。なぜならこの世界で私は悪役令嬢としての役割がある。それはヒロインと攻略対象の愛が深まるための、踏み台になるという役割が。そこを果たさずして、この世界に存在することは……できない。
私は前世での死の瞬間の記憶はなかった。だが初めて受けた人間ドックで悪性の腫瘍が発見され、そこから休職しての闘病生活が始まっていた。辛い治療生活の中で、唯一の慰めが、ベッドで横になってもできるスマホの乙女ゲーム『愛の華と魔法』だった。
限られた時間でコツコツ遊んだこのゲームの世界に転生できた。
体は健康体で、しかも悪役令嬢フェリスは、成長すれば小顔で首と手足はほっそりしているが、胸は大きく、ウエストはくびれ、お尻はきゅっと上向く。要は抜群のスタイルで、どんなドレスも映える令嬢へと成長するのだ。魔法のランクは上級。美女で才女、でも婚約破棄され、断罪されて、斬首刑で死ぬ運命だった。
お読みいただきありがとうございます!
完結まで執筆済。
最後まで、物語をお楽しみくださいませ☆彡
次話は12時頃公開予定です。
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