82.初めての海
樹くんの運転でたどり着いたのは、この国有数の高級住宅街。
「ここ、俺の実家」
樹くんは、なんてことないようにサラリと言ったあと、どこかに電話をかけ始めた。
「もしもし、今着いた。うん、ありがとう」
電話が切れると、門がせり上がっていくので、樹くんはそのまま進行して、車を停止させた。
「えーっと、思考が追いついていないのですが、ここが樹くんのご実家? とっても大きいんだね」
庭に噴水やお花畑がある家なんて、実在するんだ⋯⋯
「そう。今夜泊まる別荘の鍵を取りに来た。両親も弟も居ないから、気を遣わないでいいよ。また別の機会に紹介出来たらと思ってるから」
今夜泊まる別荘⋯⋯ご家族への紹介⋯⋯
「門が開いたってことは、お家の中には誰かいらっしゃるの? セバスチャン的なお方?」
「うん。家政婦さんが一人いる」
「ほう⋯⋯家政婦さん⋯⋯」
千蔵ではこれがスタンダードなの?
いやいや、樹くんたち、この街の人々がすごいんだろう。
頭の中がハテナだらけになりながらも、彼の後ろをくっついていく。
「騙したみたいでごめんね。家のこと知られたら、引かれるかもって思って⋯⋯」
樹くんは、こちらを振り返って、ぺこりと頭を下げた。
「いやいや。びっくりはしたけど、引くわけないよ! 樹くんって謙虚なところあるよね」
殿宮に住む人や防衛隊に勤める人は、私たち家族も含めて、お金に困っていたり、事情があったりするから、裕福なせいで何か気まずい思いや、嫌な思いをしたのかもしれない。
間もなく、家政婦の三田さんが、温かく迎えてくださり、玄関先までお邪魔した。
玄関なのに明るい! 天井高い!
たたきだけで、私の生活スペースより広いかも?
しかも、こんなところに、シャンデリア!?
あまり見てはいけないと思いながらも、ついついキョロキョロしてしまう。
樹くんは三田さんに殿宮土産のUFOどら焼きを渡し、久しぶりの再会を喜びあっている。
そんな二人の会話を聞きつけたのか、タッタカタッタカと軽快な足音が聞こえてきた。
ゴールデンレトリバーのウィルが、樹くんのもとに真っ直ぐ走って行き、勢いよく飛びかかった。
「わぁ! ウィル! 元気そうじゃん! うりゃうりゃ〜」
樹くんは少年に戻ったみたいに、ウィルの身体を撫で回してじゃれ合っている。
初対面の時は、どこかツンケンしている印象だった樹くん。
彼は心を開いた相手には、とことん優しくて、無邪気な姿を見せるらしい。
「ウィル、こちら、小春ちゃん」
感動の再会のあと、樹くんはウィルに私のことを紹介してくれた。
彼は口を開けてハァハァと息をしながら、期待のこもった眼差しで私を見上げる。
「はじめまして、小春です!」
手を差し出すと、私の手の上に自分の手を乗っけた。
頭や顔の周りをなでると、私の匂いをクンクン嗅いだあと、ペロペロとほっぺたを舐めた。
「うわぁ! やった! これからよろしくね!」
人懐っこいウィルにたっぷり癒されたところで、緑川邸をあとにした。
再び車に乗り込み今から向かうのは、海辺の別荘とのこと。
「樹くんのご両親って何してる方だったっけ? たしか、ヴェルヴェルで働いておられるとか⋯⋯」
「父親の家系が、ヴェルヴェルの創業者一族なんだよね。元々は緑川薬局っていう、小さい薬屋からのスタートだったらしいけど」
「へぇ、それが今や、有名人が出てるCMがバンバン流れてるような大企業に⋯⋯樹くんのご家族ってどんな人たち?」
「父さんは真面目なトーンでボケてくる。母さんはほわーんとしてて天然入ってる。弟の峻は笑顔で毒吐いてくるって感じ」
「そうなんだ。なんというか、面白そうなご家庭だね」
漫才で例えるなら、ご両親がボケ役で、息子たちがツッコミ役?
いつかお会いできる日を楽しみにしていよう。
それから、坂を下って住宅街を抜け、車を走らせること一時間弱。
正面の道が開けてきて――
「きたー! 海だ! 海だよ、樹くん! 生の海!」
目の前には視界の端から端まで、海が広がっていた。
「海って、本当に潮の香りがするんだね! 海藻と同じ匂い!」
大はしゃぎの私を乗せた車は、海沿いの道をしばらく進み、静かに止まった。
そこは、真っ白な壁にグレーの屋根のモダンな二階建ての建物があって、玄関脇には背丈ほどのヤシの木が植えられている。
「え! 海まで徒歩一分もなさそう!? オーシャンビューだ! あわわわわ⋯⋯」
「リビングから海が見えるし、お風呂は温泉を引いてるから、めちゃくちゃおすすめ」
「温泉!? お風呂が温泉!?」
私、昨日まで普通の(?)女子高生だったのに、こんなにも夢を見させてもらっちゃって良いんだろうか。
贅沢すぎる⋯⋯
「一旦、荷物を置いてゆっくりしようか。明るいうちに一度、海に行ってみよ」
優しい笑顔の彼に手を引かれ、家の中に入った。




