65.決着
今から死んでやると言った一華さんは、十階建ての建物に入って行った。
スナックや消費者金融などが入った雑居ビル。
エレベーターは、1台しかない。
一華さんが乗ったであろうエレベーターは、ぐんぐんと上昇していく。
だめだ。階段を使うしかない。
重い非常ドアを開けて外に出て、金属製のらせん階段を駆け上がる。
階段を踏みしめる度に、ガンガンとけたたましい音が鳴る。
これじゃ、一華さんに登ってきたことがバレちゃう。
余計に焦って飛び降りちゃうかも。
でも急がなきゃ、どのみち止められない。
屋上への扉を開け放つと、一華さんは柵の外のコンクリートの段差に座り込んでいた。
「一華さん。待ってください。お願いだからこっちに帰って来てください」
一華さんはこちらを振り返らずに、真っ直ぐ遠くの街を眺めている。
その後頭部を見つめると、時々、頭が揺れている気がする。
もしかして、薬も飲んでる?
「今からそちらに行きますから」
刺激しないように、声をかけながら柵を乗り越える。
「一華さん、危ないですから。ふらふらの状態だから、分からないだけで、すごく怖いことをしようとしてますよ? まずは安全な場所へ⋯⋯」
一華さんの肩に触れようとした瞬間、彼女は馬乗りになって体重をかけてきた。
頭をコンクリートにぶつけられ、一瞬、目の前に火花が散る。
「引っかかったわね、お人好しのバカが。私が苦しんでるって時に、光輝を盗んだクソ女が! 殺してやる⋯⋯」
一華さんは私の首を両手で絞めにかかる。
今の彼女は手首に包帯を巻いていないし、これだけの握力が出るのだから、本当は怪我をしていないんだろう。
ならばと遠慮せずに彼女の手首を掴んで、逃れようとするけど、上手くいかない。
彼女は細身ではあるものの、背が高いから、馬乗りになられると分が悪い。
それに、こんな場所で闇雲に抵抗したら、最悪の場合、二人とも転落してしまう。
「高一の頃、六連星になりたがっていた光輝に、モデルの仕事を回すのに、私がどれだけの人に頭を下げたと思ってるの? 時には汚いオヤジに身体を許して⋯⋯なのに、光輝は全然、振り向いてくれない! あんたみたいな女とくっつけるために、私はあんなことしたんじゃない!」
一華さんは涙を流しながら、鬼のような形相で怒鳴りつけてくる。
一華さんは光輝くんの夢を支えようと、そこまでしていたんだ。
彼女は当時未成年だったのだから、そのことに関わった大人に罪を問う事になる。
当然、光輝くんが責任を取るべきものではない。
けど、一華さんの心を壊すのには十分な理由だ。
「今まで、光輝に近づく女どもは、私が全員潰してきたのよ。けど、あんたは私よりもずっと光輝の近くにいる。だから手出し出来る機会を待ってたの」
首を絞めるには握力が足りないと悟ったのか、一華さんは立ち上がって、私の身体に蹴りを入れた。
「ほら! 早く飛び降りなさいよ! あんたみたいな女は! ◯#▲%〜!」
激昂した一華さんが何と言っているのか、上手く聞き取れない。
ただ、このまま揉み合っていれば、転落は免れないのは確かだ。
戦闘服を着ていない今の私は、ただの生身の人間。
下はアスファルトの道で、人通りも多い。
誰かを巻き込むリスクもあるし、この高さなら、まず助からないだろう。
「一華さん、私を殺すにしても、ここは辞めませんか? 関係ない人まで死んでしまいます!」
「うるさい! 偽善者が! 私を責めるな! お前が正しいみたいな顔をするな!」
頭に血が上った一華さんの力が緩んだ隙に、体勢を立て直す。
しかし、そのせいで一華さんの蹴りが側頭部に入って耳がキーンとなった。
柵とは逆方向に倒れ込んでしまったせいで、肩より頭側がコンクリートの床の縁よりも外に出てしまう。
だめだ。
この体勢では真っ逆さまに落ちる。
もう駄目かと思ったその時、一瞬の出来事だった。
柵の内側から、一華さんの身体に縄のようなものがかけられ、引きずり込まれていく。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
上下オレンジ色の作業服を着た男性たちが、こちらに手を差し伸べている。
その手につかまり、柵の内側に戻れた瞬間、腰が抜けて震えが来た。
消防隊が助けに来てくれたんだ⋯⋯
「小春ちゃん!」
半ば飛びかかるように抱きしめられる。
「光輝くん⋯⋯」
「ごめん、小春ちゃん。ごめん、俺がもっと早く決断してたら⋯⋯」
光輝くんは苦しそうに何度も謝ってくれた。
「光輝くんが通報してくれたの? ありがとう⋯⋯」
私の音声メッセージを聞いた光輝くんは、すぐに警察と消防に通報してくれていた。
一華さんと向き合うことを避けていたご両親にも連絡がいき、対応をせざるを得なくなった。
一華さんがきちんと治療を受けられるよう、入院の手配もしてもらえるとのことだ。
「小春ちゃん、ごめんなぁ。怪我は大丈夫?」
「うん。一応、頭は診てもらうことにするけど、平気っぽい。光輝くんお疲れ様。今までよく頑張りましたね」
これから救急車に乗る私に、付き添うという光輝くん。
光輝くんも相当無理してたからな。
いつもは、カッコつけのおちゃらけキャラなのに、今にも泣き出しそうになってる。
そういう私も安心感からか、自分の中で張りつめていたものが、すーっと緩んでいく。
「光輝くん、私は一人でも大丈夫だから。警察の取り調べに協力しなきゃでしょ?」
「いや、でも、心配やから⋯⋯」
光輝くんは、不安そうな目で見つめてくる。
「ごめんね、光輝くん。ちょっと今は一人になりたくて。検査結果は、あとでちゃんと連絡するから。お願い」
光輝くんの胸をトンと押すと、彼は傷ついたような顔をした。
結局、救急車には自分一人で乗って、病院では頭のCTや聴力検査をしてもらったけど、異常は見られなかった。
ただし、あとから異常が見つかることもあるからと説明を受け、今日のところは帰宅することになった。




