62.くちびる泥棒
楽しかった握手会は、あっと言う間に終わり、基地に帰ることになった。
企画部の方が運転する車に、それぞれ分かれて乗せてもらう。
私と一緒に後部座席に座っているのは光輝くんだ。
「光輝くん、大丈夫ですか? こころなしか痩せたような⋯⋯」
膝の上で手遊びをしている彼の手首から腕にかけてのラインが、今までの健康的な男子の骨ばり方とは少し違う気がする。
心配になって耳打ちすると、彼は手をひらひらとさせた。
「うーん! 大丈夫、大丈夫! 何食か抜かざるを得ない状況があったってだけで! 食欲はギリギリあるし、体調管理とイケメン度管理は怠ってませんから〜!」
光輝くんは目元でピースサインをしながら、何ともなさそうに笑う。
一華さんのところに行ってもご飯を食べられる状況じゃないのかな。
そうだとしたら、光輝くんが限界を迎えるのも時間の問題だ。
それに、食欲はギリギリってことは、結構、無理して食べてるのかも。
「心配してくれるってんならさぁ、小春ちゃんの手料理、食べてみたいなぁ⋯⋯なんて」
光輝くんは耳元で甘えるように言う。
そうか、手料理で光輝くんを元気づける⋯⋯
私は、そのかわいいリクエストに全力で応えることにした。
はず、なんだけど。
早速、レッツゴーマートで野菜とお肉を買い込んだ私は、寮の自室の激狭キッチンで食材と格闘していた。
作ろうとしているものはカレー。
具材を切って煮込み、市販のルーを入れるだけだと思っていたんだけど。
カレーの人参って、輪切りじゃなくって、ゴツゴツの形に切られてるよね?
じゃがいもの芽って、どこまでほじくればいいんだ?
城西地方のご家庭で、カレーに入れる肉の種類は、牛肉派が6割とのことだけど、光輝くんはどっち派なんだろう?
本人に聞きたいけど、それだと何を作っているのかバレてしまう。
苦戦しながらも、何とか完成したカレーを試食したんだけど⋯⋯
「まっっっず! じゃがいもも、人参も、カッチコチ! これは食欲も失せますわ」
あまりの惨劇に、がっくりと項垂れる。
味は市販のルーの味だからいいけど、とにかく食材が硬い。
じゃがいもの種類を間違えた?
男爵でもメークインでもなく、『ばれいしょ』って書いてあるけど⋯⋯
一人で悩む時間がもったいないと思った私は、料理の神にすがることにした。
料理の神、緑川樹はワンコールで電話に出てくれた上に、ものの十五分程度で駆けつけてくれた。
ささやかなおもてなしとして、猫舌な神のために少し冷ましたインスタントコーヒーをお出しし、カレーの具合を見て頂く。
「具材が大きいんだと思う。もっと小さく切って、大きさも揃えないと。あと、なべの容量に対して具材を入れすぎ。これじゃかき混ぜられなかったでしょ? だから全然火が通ってないってこと」
樹くんは、小さなフライパンに半分具材を取って、再びカレーを煮込み始めた。
カレーがしっかり煮えた後は、今度はフライパンの方で具材を炒める。
「超応急処置だけど。食べられないよりはマシでしょ」
樹くんは、カレーライスとカレー炒めの二品を作ってくれた。
「すごい! 具材がホクホク! ルーにも野菜の旨味が溶け出してる! カレー炒めの方も、料理が蘇った感ある!」
さすが料理の神だ。
「それで? 慣れない料理を始めたのは、光輝くんのため? この状況、光輝くんは怒らないの? 他の男に料理を見てもらったなんて、俺だったら嫌だけど」
樹くんはテーブルに頬杖をつきながら、ムスッとしたように言う。
「うーん。どうだろう? 樹くんが私のこと対象外って言ってたのは、光輝くんも知ってるじゃない? だから大丈夫な気がするけど⋯⋯それに私と光輝くんは、別に付き合ってるわけじゃないからなぁ」
自分の立場だったらどうなんだろうと首をひねるも、上手く想像ができない。
一時は一華さんに嫉妬心みたいなものを抱いたけれども、事情が事情だし⋯⋯
「⋯⋯⋯⋯どうして俺、あんなこと言っちゃったんだろう」
樹くんは、ぼそっとつぶやいた後、洗い物をしに流しの前に立った。
「待って! 私がやるから、置いといてよ。ね!?」
樹くんは、いいからいいからと洗い物を手伝ってくれた。
私が洗った食器を樹くんが布巾で拭いてくれる。
「食器を干すところがないから、拭いてもらえるの超助かる!」
「ほんと、それ。この基地自体は最先端の技術で作られてるのに、寮の部屋だけショボすぎでしょ」
樹くんは文句を言いながら、丁寧に水分を拭きとってくれる。
洗い終わったお皿をパスすると、彼はしっかりと受け取ってくれる。
初めての作業なのに、息ぴったりな様子に、なんだか心が落ち着く。
「なんかさぁ。こうやってご飯を作って食べて、一緒に洗い物するのっていいよね。私の家ってさ、秋人は入院中だし、お母さんは暴力的だし、お父さんはいつもげっそりしてて可哀想だしで⋯⋯⋯⋯人々の理想の家庭とは、ほど遠い環境で育ったかもしれないけど、それでも、いつか温かい家庭を作りたいなって。それで自分の子どもたちには伸び伸び育って欲しいなって、一応、憧れみたいなのはあってですね。なんかふと、こういうの、いいなぁ⋯⋯って」
お母さんとお父さんが並んでキッチンに立っているところなんて、見た記憶がない。
お母さんは一人でテキパキと家事をこなし、お父さんは外で働いてくる。
そして、私が何かをやらかすと、お母さんは時には皿を投げ割り、料理をひっくり返し、お父さんが黙って後始末をする⋯⋯
そんな日常とは程遠いシーンが、ここにはある。
「なんか今、すっごくいい気分! 樹くんありがとう!」
と言いながら隣にいる彼を見上げると、一瞬、掠めるように唇が触れた。
「⋯⋯⋯⋯え? 今、何が起きた?」
夢か幻か。
勘違いと思うくらいの早業だった。
「あーごめん。なんか、我慢出来なかった。もう帰るね。お疲れ」
呆然とする私を放置して、樹くんは急いでタオルで手を拭いてカバンを持ち上げ、気まずそうに部屋を出て行った。




