9. 兵士の物語
二人はまた、海の底を進んだ。
昼も夜もない、ぼんやりと曇った静かな水の中で、握った手の感触と、少し前を行くアンコウの微かな灯りだけが頼りだった。深海の姫には不自由のない明るさだったけれど、彼にどれほど周囲が見えているのかは、知りようがなかった。
イルカの姫が、ここは世界で一番広くて深い海溝、と言ったとおり、見渡す限り柔らかな堆積物に覆われた平らな海底と、静かで少し曇った昏い水がどこまでも続いているようだった。
ふと、ざくり、ざくり、と不規則に、砂を硬いもので掻き分けるような音が聞こえた。
音はかなり多くの複数で、近くからも遠くからも聞こえるようだった。彼も気付いたのか、首を傾げている。
一番近い音が聞こえる方へと、深海の姫は彼を導いた。本当は近づきたくはなかったけれど、彼は亡霊たちを探しているのではないかと、姫は気付き始めていた。深海の姫は時折、彼も死んだ人間で、亡霊であることを忘れてしまいそうになっていた。
海底の砂地を、掘っている亡霊たちがいた。
ざくり、ざくり、と無数のスコップの音が響いているのに気付くと、深海の姫はぞっとして立ち止まり、彼の手を引いた。
姫がまだ海の王の宮廷にいた頃、図書室の新聞で、これとよく似た光景の写真を見たことがあった。新聞の写真は黒と白だったが、亡霊たちは腐って濁った水のような色の衣類を身につけ、同じ色のヘルメットを被っている。亡霊たちの顔や体はぼんやりと霞んでいるのに、衣類や装備はやけにくっきりとしていた。彼らが肩に掛けている長いものが銃であり、それで人間たちは互いに殺し合うのだということも、深海の姫は知っていた。彼らは、それで海の生き物たちを殺すこともあったから。
けれど、彼らは誰も銃を手には取ってはいなかった。手に手にスコップを持ち、柔らかい砂地を掘っている。陸であればすぐに深い穴が掘れただろうが、海の底の柔らかい堆積物と細かい砂は、舞い上がり、ゆらゆらとまた積もるばかりで、いっこうに深い穴にはならないのだった。
誰も嘆きを叫ぶ者はいなかった。皆黙々と砂を掘り、ざくりざくりとスコップの音だけを響かせている。
彼にはこの光景が、どれだけ見えているのだろう。深海の姫は手を繋いだ男の顔を伺ったが、茶色の眼は静かに凪いでいた。彼女は空いた左手を上げた。
深海の生き物の多くは、発光することができる。その方法と利用の目的は様々だが、微生物から魚、海月、甲殻類に至るまで、実に深海の生き物の九割が、発光する能力を持っていると言われている。
その深海の生き物たちが、海の王の娘の呼びかけに応え、姫の視界一面で発光が始まった。一つ一つはぼんやりとしたささやかな光だが、全てが同時に発光すれば、暗闇に慣れた目には広い海底を見渡すに充分な光量になった。
冷たい水をつん裂くような悲鳴が、そこかしこで上がった。急に現れた光に、亡霊たちはパニックに陥っているようだった。スコップを投げ出し駆け出しす者、それを止めようと引き倒す者、銃を構えて逃げる者を狙おうとする者。何が起きたのか分からず、深海の姫は呆然とその光景を見ているしかなかった。
その時、鋭く高く澄んだ音が舞い上がった堆積物に濁った水を切り裂いた。
深海の姫が振り返ると、彼は金色に光るホイッスルをその唇に咥えていた。ちらりと姫を見て安心させるかのように微笑んだ彼は、もう一度短くホイッスルを鳴らし、片手を高く上げた。
亡霊たちが慌てふためいて整列するのが、深海の姫には見えた。彼がホイッスルを鳴らすと、亡霊たちは背中の銃を胸の前に持ち直した。姫には聞こえないが、彼の唇が号令をかけている。亡霊たちは斜め上に向けて銃を構え、彼がホイッスルと同時に手を振り上げると、無数の銃が短い破裂音を立てた。
その瞬間、亡霊たちの姿が溶けた。
銃口の先端のあったあたりから光が放たれて、幾筋も幾筋も、水面へと昇っていく。
深海の姫の耳に男の声が聞こえ、姫はその物語のために、唇を開いた。
―戦争があった。長い戦いで、あちらもこちらも、泥の中でたくさんの兵士が死んだ。我らを養うはずの大地は耕されず、銃弾を避けるためにひたすら掘った溝に、汚物と血と雨が溜まった。病が流行り、銃弾を受けずとも人は死んだ。
姫を真っ直ぐに見ている彼の背後、はるか向こうの方で、沢山の光が水面を目指しているのが見えた。ホイッスルの音が水を揺らし、伝達されていくのが見えた。
―私は部隊長だった。息子のような歳の子供にスコップを持たせ、銃を持たせ、突撃の号令をかけ、泥の中で皆死なせた。
彼は深海の姫の視線を追うように振り返り、唇を開いた。きっと、歌っているのだろう。
―撃ったか、殺したか。その答えは、私とて否だ。泥の中を走って、死んだ。それだけだ。地雷を踏んだのか、狙撃されたのか、砲撃を受けたのか、それすらもわからない。銃声が止んだ時、霧の中に皆、ぼんやりと立っているのが見えた。自分が死んだと理解できなかったわけではないが、どうしていいかがわからなかったのだ。だから私は部隊を率いた。水の呼ぶ方へ、海へ。
いつしか水面へと向かう光の群れは見えなくなっていたけれど、彼はまだ目を閉じたまま、深海の姫には聞こえない音を歌っていた。
―大きな川を、道のように行軍した。敵方の部隊もいたが、誰も撃ち合おうとはしなかった。互いが、自分が死んでいるのを、皆理解していた。ただなぜか、死んだら終わりだと思っていたその終わりがやってこなかっただけだ。海に出て、水の中をどこまでも、終わりを探して行軍した。もっと深い方へ、もっと昏い方へ、そしてここへ辿り着いた。
振り返った彼が、深海の姫を見た。姫の、死んだ男の、次の言葉を待っているようだった。
―我々には、塹壕を掘ることしかできなかった。だから、そうした。永遠に続くかのようだった。砂を掘る手を止めることはできなかった。きっと、穴の掘り方を忘れるまでこうするのだろうと思っていた。けれど、
死んだ男が、長い音を漏らした。
陸で息をしたことはないが、それがため息なのだと、深海の姫には理解できた。今まで張り詰めた戦場で停めていた息を、男は全て吐き出すように、長く長く、息を吐いた。
―終わりがもたらされた。彼らは逝った。私も、これで、
そうしてふつりと、死んだ男の声は消えた。
海の底に、暗闇が戻ってきていた。