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8. 二人の女の亡霊たちの物語

 はじめ、彼は難破船へと戻るつもりだろうかと思ったが、そうではないようだった。深い方へと沈んでゆきながら、時折首を傾げ、何かを確かめようとするそぶりを見せた。


 深海の姫がそんな彼の顔を覗き込むと、その度に微笑んでぎゅっと彼女の手を握りなおし、また進み始めるのだった。


 深海の姫の長い尾と、人間の二本の脚で進むのだから、速く進めるはずもない。


 深海の姫はもう一度アンコウを呼んで、彼の行く手を照らしてもらった。アンコウの仄かな灯りに照らされる、柔らかな堆積物に覆われた起伏の少ない海底を、二人はずっと進んでいった。


 ふと、胸を引き裂くような長い長い金切り声が、重なり合うように聞こえはじめた。


 近付いてきている。深海の姫は彼を止めようと、その手を引いた。彼には聞こえないに違いない。あれは亡霊たちの声だ。


 彼は手を後ろに引かれて、振り返った。深海の姫の顔を見て首を傾げると、引き寄せた両手で彼女の頬を包み、額をすり寄せて微笑んだ。彼は声を持たない。けれど、彼が何を伝えたがっているのかは明らかだった。大丈夫、と、声があったなら、そう言っただろう。


 深海の姫は首を横に振った。どうしても彼女は、言葉にならぬ嘆きを叫び続ける亡霊たちが、恐ろしかった。けれど彼は彼女の両手を取り、自分の両手で包んで自分の胸へと引き寄せ、頷いた。


 彼にあの声が聞こえているのかどうかはわからないが、彼はどうしても進むつもりであるらしかった。


 もしも何かあったら、急いで逃げればいい。深海の姫はそう決めると頷いて、彼の手を握り返した。彼ももう一度頷いて、彼女の右手を握りなおし、進みはじめた。深海の姫はなぜか、その手を離したいとは思わなかった。


 やがて、あの声の亡霊たちが、ぼんやりと煙る水の向こうに現れた。


 ほとんど光の届かない海底でなお、僅かな光さえも吸い込む影を揃いのローブのように纏い、言葉にならない苦しみの音を叫び、あるいは呻き続けている。時折影の中から、青ざめた指先や横顔が覗くのが見えた。


 彼は真っ直ぐに、彼らの方へと進んでいる。その横顔は静かだった。


 先頭の亡霊と向き合うと、彼は亡霊に向かって手を伸ばし、腕を広げた。深海の姫は彼の唇が開き、音のない言葉を紡ぐのを見た。祈りだろうか。歌かもしれなかった。彼の声は水を震わせることはなかったが、亡霊は歩みを止め、叫ぶのをやめた。聴いているようだった。


 彼が亡霊の方へと歩み寄り、手を伸ばして、影を脱がせるように払うと、青ざめた、痩せた若い女の姿が一瞬だけ露わになり、すぐに海に溶けて輪郭を失った。


 深海の姫の耳に、間近から声が届いた。


―彼女は貧しい国を出て、老いた両親と幼い弟妹を養うために、出稼ぎへ行くところだった。


 深海の姫が呟くと、彼は頷き、ぎゅっと彼女の手を握った。姫は続けた。


―薄暗い三等船室はぎゅう詰めで、ひどい風邪が流行っていた。彼女はその日、熱を出して狭い寝台で横になっていた。世話をしてくれていたのは、彼女の上の寝台を使っていた三つ年上の女で、新天地に到着したら、彼女の親戚の伝手があるから、同じ工場で働かないかとまで言ってくれた。


 女の魂は深海の姫のすぐ傍で、姫に身の上話を語っていた。初めてのことだった。死んだ人間たちはあてもなく、ただ繰り返し、後悔を語るだけなのだと思っていた。けれど明らかに、女の魂は深海の姫に、話を聞いて欲しがっていた。そして女の物語は、自然と姫の口をついて零れ落ちるのだった。


―故郷には仕事も食べ物もなかったが、新天地には仕事が溢れ、広大な土地は肥沃で、よく働きさえすれば食うにも困らない、神の恵み賜うた国なのだと誰もが言った。


 彼にも女の魂の声が聞こえているなら、深海の姫が話す必要はないし、そもそも彼に姫の言葉が通じているのかもわからなかったが、彼は姫の語る女の物語に、耳を傾けているようだった。


―その夜、上の船室が騒がしいのには気付いていた。咳が酷くて毛布を頭から被っていたけれど、船が大きく揺れるのにも気が付いていた。やがて三等船室でも騒ぎが始まったけれど、熱で朦朧としていて起き上がれなかったし、よく聞こえなかった。それから、なんだか静かになった。


 淡々と話していた女の魂の声が、急に大きく震えた。泣くというのはきっとこういうことなのだろう、と深海の姫は思った。姫は本で読んで、人間たちは悲しいと涙を流して泣くのだと知ってはいたが、海の中で涙を流すことはできない。


―咳が落ち着いて眠っていたら、揺すって起こされた。彼女を起こしたのは、ずっと世話をしてくれていた上の寝台の友人だった。この船は沈む、もう逃げられない、と彼女は言った。


 深海の姫は黙って、泣いて言葉を継げなくなった女の魂が話すのを待った。


 ふと見回すと、少しだけ距離を置いて、亡霊たちが深海の姫たちを取り囲んでいた。彼らが纏う、全てを吸い込むような影が怖くないと言えば嘘になるが、もう以前ほど、亡霊たちが恐ろしくはなかった。


 ようやく、女が震える声で、再び話し始めた。


―彼女を迎えに来なければきっと、たまたま、寝台が上下になっただけの友人は逃げられた。冷たい水が入って来た時、友人は震える彼女を抱きしめて、こう言った。大丈夫、天国は暖かいから。船室の中に空気が無くなるまではすぐだったのに、溺れ死ぬのは時間がかかって苦しかった。友人はきっと後悔しただろう。一緒に死ぬ必要なんてなかったし、あんなに苦しい思いをする必要だってなかった。


 女の魂は黙り込んでしまった。


 そのとき、すいと二人の前に進み出た亡霊があった。


 亡霊は微かに背を屈めた。それに促されたように彼の唇がまた、深海の姫には聞こえない音を紡ぎはじめた。彼の大きな手が亡霊の纏った暗闇を払うと、青い目の女がほんの一瞬だけ、深海の姫へと微笑んだ。


 だから、続いて深海の姫の耳に語りかけたのは、青い目の女なのだろう。


―彼女に出会わなければ、私は沖に出た船から、海に身を投げていた。


 深海の姫が語り始めると、彼は口を閉ざし、辺りを見回して、何かを探しているようだった。もしかすると、見えているものも聞こえているものも、姫とは違うのかもしれなかった。


―故郷は貧しく、疲れきっていた。私は十三歳で近所の男に乱暴されて妊娠したけれど、すぐに流産してしまった。私は傷物だった。海の向こうの大叔母が私を引き取ろうと言ったけれど、両親は私を手放したがらなかった。弟妹は何をさせるにも、まだ幼かったから。


 彼が手を伸ばすのが見えた。その大きな手のひらで見えない何かを掬い、深海の姫の方を見て微笑み頷くと、手のひらの何かを姫の方へと送り出すようにしながら、小さく何か、姫には聞こえない言葉を呟いたようだった。


―父は酒ばかり飲んでは、よく殴る人だった。ある時、母を殴り、止めに入ろうとした上の妹を殴り、歩きだしたばかりの下の妹を蹴り飛ばし、泣き叫ぶことしかできない幼い弟を床へ叩きつけた。私は髪を掴まれ、戸口から叩き出されて気を失った。目が覚めると、霧の立ち込める薄暗い朝だった。体のどこもかしこもが痛かった。家のドアの向こうは静かだった。


 黒い影を纏った亡霊たちの数は、増えていた。けれど皆、静かだった。微動だにせずに、深海の姫の語る物語を、聞いているようだった。


―ドアを開けると、まだ暖炉の火が燃えていた。母が倒れている。上の妹も下の妹も小さい弟も、昨夜のまま床に転がっていた。父は梁に掛けたロープから一人、ぶら下がっていた。


 二人目の女の声が途切れた。泣いているのではなかった。ただ疲れたように、体のない魂は長い長い音を漏らした。


―あなたを守ってあげたかった。妹たちも、小さい弟も、守ってあげられなかったから。でも、だめだった。ごめんね。


 女の声は、謝罪を繰り返した。


―後悔なんてしてない。最後まで一緒にいられてよかったよ。ありがとう。


 深海の姫は、女の声が言うままに、そう言った。


 目の前で、淡い淡い光が二つ、ふわり、ふわりと灯った。


 彼の唇は、祈りを呟いたのかもしれなかった。ゆっくりと浮かび上がっていく二つの光を、二人はしばらく、ただ見送った。




―あなたは、私に何ができるのか、何をすべきなのか知っているの。


 深海の姫は彼に聞いた。


 深海の姫自身にさえわからないことを、彼は知っているのではないかと思えた。けれど相変わらず、言葉が通じているのかさえわからない。彼は軽く首を傾げて微笑み、姫の額へ口付けをくれた。


 亡霊たちのほとんどは、彼らの纏う底無しの闇を払ってやりさえすれば、軽くなって浮かび上がっていくことができた。


 彼はずっと、歌っているようだった。深海の姫の片手を握り、もう片手で次々に亡霊たちの闇を払った。時折亡霊たちの纏う闇の中を、丁度彼らの顔のあるあたりを覗き込んで、何かを囁いた。


 それが祈りなのか祝福なのか歌なのか、深海の姫には聞こえないのが少し寂しく思われたが、そんなことを寂しいと思うのも滑稽に感じられて、その感情をどうしてよいのかもわからず、ただ戸惑いながら、彼を見守った。


 その間にも深海の姫の耳には、死んだ人間たちの声が届いていた。けれどそれが、目の前で彼が闇を払った者の声なのか、どこかから聞こえてくる別の声なのかも、大抵はわからない。


 さっきのように、深海の姫の耳元で、姫に聞いてほしいのだとわかるように話す者は、もう現れなかった。


 そして、静寂が訪れた。


 亡霊たちは皆、行ってしまったようだった。彼もそれに気付いたのか、しばらく辺りを見回したり、遠い水面の方を見上げたりしたあと、ようやく深海の姫の方を見た。微笑み、労わるように姫の髪を梳いて撫でてから彼女を抱き寄せて、その肩へ額を預けた。


 そのまま彼が動かないので、以前のように海の命が尽きてしまったのだろうかと、深海の姫は彼の顔を覗き込んだ。


 深海の姫が身じろいだので、彼は少しだけ目を上げた。そして幸せそうに、としか言いようのない笑みを、姫へと向けた。深海の姫には不思議だった。彼は何が幸せで、そんなふうに笑うのだろう。


 それでも、姫は自分がつられて微笑んでいるのに気が付いた。自分にそんな表情ができることすら知らなかったし、どんな顔をしているのか、想像もつかなかった。王の宮廷には幾つか、難破船から誰かが持ち帰った美しい鏡があったから、鏡で自分の顔を見たことはある。微笑みを浮かべていても、気味が悪いだけだろうとしか、思えなかった。


 表情を曇らせた深海の姫に気付くと、彼は顔を上げ、指先で姫の唇に触れ、頬に触れた。額をすり寄せ、唇が何かを囁く。


 聞こえないその囁きを受け取りたくて、深海の姫はその唇に、自分の唇を重ねた。

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