7. もうひとめだけ、
海の底の柔らかな砂に横たわる深海の姫を、馴染んだ亡霊たちの声が包んでいる。
海に身を投げた身重の女。
恋人に殺され川に捨てられた女。
客に恋をして首を吊った娼婦。
怨みや苦しみに混じる、やり場のない寂しさが、言葉にされずとも、やけに深海の姫には強く感じられた。居た堪れずに耳を塞いでも、彼女たちの寂しさが冷たい水が染み込んでくるように、重く深海の姫の胸を押さえつけた。
それが自分のものであるとは、認められなかった。
目を開けていても、閉じていても変わらない、ぼんやりと曇った深海の暗闇の中に浮かぶのは、焦点を結んできらめいた茶色の眼が、唇が弧を描き、微笑みを形作って見せた、あの瞬間だった。
深海の姫は今までにも何度も、水面へと亡霊たちの手を引いたことがあった。死んで肉体を離れた彼らの、一体何に触れていたのだろう。考えたこともなかったが、深海の姫は知らず知らずのうちに、指先で唇に触れていた。大きな手や、長い指や、受け止めるように腰を抱いた腕、重ねられた唇の感触を、思い出さずにはいられなかった。
海溝の底には太陽の光も月の光も届かず、時間すら流れるのを忘れているようだから、深海の姫には、あれからどれほどの時が過ぎたのかもわからなかった。
彼があんなに姿を保っていたのは、深い海で迷っていた魂が光も差さぬ海の底で、そのまま時を停めてしまっていたからに違いなく、きっと光に触れれば少しずつ溶けてゆくだろうし、もう跡形もなくなってしまっているだろうと思われた。
それでももし、まだあの場所でゆらゆらと漂っていたらと思うと、深海の姫は確認しに行く気にはなれなかった。
まだ、あのままあの場所に、彼がいたら。
深海の姫は、半分ではそれを望み、半分ではそれを怖れていた。或いは、どこかへ流れ去るか、光に溶けて導かれて、跡形もないのを見れば諦めがつくだろう、と思いもした。
それで、もう充分長い間悩んだはずだと考えた深海の姫は、ようやく一度、彼の手を離したあの場所まで、行ってみようと思ったのだった。
気は進まなかった。
もしも、もしもという語が頭の中を繰り返し巡って、自分が何を望んでいるかもわからなかったし、もしそこに何もなかったら、或いはまだ彼がそこに漂っていたら、自分がどういう行動に出るかも、わからなかった。
それでも一度上昇を始めれば、深海の姫の泳ぐにあまり適さない長い尾でも、ふわりふわりと浮力は不可抗力となって、姫を明るい方へと連れて行った。
やがて頭上にぼんやりとした光が見えはじめ、すぐ一面に明るい光が広がった。それでも逆光では魚影すら見つけにくいし、そもそも、同じ地点に浮上できた自信もあまりない。
それなのに、深海の姫の目は、すぐに彼を見つけてしまった。
彼は、あの日彼女が手を離したあの時のまま、それ以上浮かび上がることも明るい日光に溶けることもせず、海の底へ虚ろな眼差しを向けて、そこに浮かんでいた。
何かを考えるよりも前に、彼女は長い尾と手のひらで、少しでも速く浮かび上がろうと水をかきわけた。
そうしてたどり着くと彼の頬を撫で、その首へ腕を回して、あの日のように唇を重ねた。
もしも、彼がそこにまだいたら。
背を向けて、真っ直ぐもう一度深い海の底へ帰って、二度とそこへ行ってはいけない、とずっと考えていたのに、そうはしなかった。
その代わりに重ねた唇からもう一度、海の命を吹き込んだ。
深海の姫は彼へ海の命を分け与えたくせに、明るい場所で彼女を見た彼が、この前とは違う反応を見せるのではないかという怖れが頭をもたげると、唇を離して目を開けるのが怖くなってしまった。急いでその場を離れたい衝動に駆られて、ぎゅっと目を閉じたまま腕を解いて彼を突き放すように、背を向けようとした。
彼がそれを許さなかった。
易々と彼女の体を抱きしめて、大きな手のひらで彼女の頬を包み、もう一度唇を重ねた。柔らかな感触が離れてから、深海の姫が目を開けた時、彼は彼女の鮮やかな朱色の髪を長い指で梳いて、あの時のように微笑んだところだった。
彼の唇が、そっと彼女の頬に、額に、瞼に触れる。
水面から差しこんで揺らぐ陽光が、彼の茶色の眼を柔らかく輝かせていた。
深海の姫はまだ戸惑っていた。彼の唇が、指先が、優しく触れてくれるのが嬉しくて、満たされていくようで、そんなふうに感じることに戸惑い、罪悪感すら覚えた。彼はもう死んで肉体を失った人間で、次へ巡ってゆくべき命であるはずなのに。
彼は考え込んでしまった深海の姫の頬を、両手で包んで顔を上げさせて微笑んだ。
それから姫の手を取って、海の底の方へと、泳ぎだした。