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6. 不思議な亡霊

 イルカの姫が届けてくれた本を読むために、初めて深海の姫は王から授かった魔法を使った。


 手を上げると、淡い光が彼女に寄り添った。それは深い海に暮らす醜い大きなアンコウで、餌を(おび)き寄せるための小さな発光体を、彼女の本の上にかざしてくれるのだ。


 イルカの姫が言った通り、本は長くは保たなかった。ページをめくるうちに表紙が外れ、糸で綴じた折り目から破れ、やがてめくったページは手の中で崩れてしまうようになった。


 読み終わる頃にはもう本の形をしたものはなかったが、末の姫はイルカの姫がくれた本を、全て読み終えることができた。


 本を読むというのは不思議だった。


 本というものは、生きている人間たちが残したいと思って作ったものだ。王の図書室で見ることのできた、もっと脆い形の新聞や雑誌に書かれた文章とも、手書きの航海日記とも、もちろんいつも彼女の耳に聞こえている死んだ人間たちの物語とも全く違う。


 死んだ人間たちは誰かに聞かせるために話しているのではないし、厳密には話しているわけですらない。ただ、魂の中で凝った感情や思い残した後悔を、少しずつ海の水に溶かして流しているだけだから。


 文字の形で本に残された物語はよく整理されていて矛盾がなく、美しい言葉で綴られていた。


 先日、イルカの姫と王に漁師の話をした時には、本に書かれた物語の方法を真似てみた。聞こえるままではなく、今までに聞こえた彼の話を整理し、言葉を選んで、聞こえてくる感情を音にした。


 あの漁師の声はあれから、一度も聞こえていない。次の命へ巡っていったのだろうか。


 深海の姫は耳を澄ませた。


 今聞こえている声のほとんどは、感情の断片でしかなかった。死んだ人間の声たちのほとんどは断片を叫んだり呟いたりするだけだが、思い出したようにその感情に至った経緯や、人生のあらゆることについて語り始めることがあった。


 誰かが話し始めないかと、深海の姫はじっと待った。


 傍でアンコウの灯りがゆらりゆらりと見えていなければ、目を開けているのか閉じているのか、眠っているのか起きているのかすらわからなかっただろう。それは人間たちの言う、死にも似ているように思えた。


 死んだ人間たちはもう死んでしまったのだというのに、よく死について話した。


 深海の姫は彼らの言う死というものを、こう理解していた。命が尽きて訪れる、全ての終わり。一瞬の苦しみをもたらした後に、人間たちが積み重ねた年月をも消し去る力。無に還って、次の命へと向かうための扉。海の王の子には決して理解できない、命ある者たちだけのもの。




 ある時、深海の姫は海溝の底で、大きな難破船を見つけた。


 確率は低かったが、難破船では海にまだ侵食されていない本が見つかることがある。深海の姫は横腹に大きく開いた船の致命傷から、慎重に中へと入った。


 ついてきたアンコウの仄かな灯りが、船内を照らしてくれた。最初に入った場所は大砲の備え付けられた砲甲板だったのだろう、大きな鉄の塊がひとつ、横倒しになって壊れた船室の壁に引っかかって残っていた。大砲や砲弾の大半は破れた壁や床板とともに船外へ押し流されたのか、散らばっているのは朽ちた木片の残骸ばかりだ。


 深海の姫の鰭が静かに水を揺らすと、降り積もった堆積物が舞い上がって視界を煙らせた。


 外れたドアから廊下に出て、船首の方へ向かう。船員たちは逃れたのか、もう海に食べられてなくなってしまったのかは、定かでなかった。


 開いている扉の中は全て覗いてみたが、望みは薄かった。いくつかの船室や倉庫、食糧庫、食堂、調理室等を覗き、一番奥の大きな船室のドアをくぐる。他の船室よりも豪奢な家具が置かれていたが、本棚は見当たらない。横倒しになった重厚なデスクはあったが、引き出しは開きそうにもなかった。これでは、航海日誌もこの中だろう。


 ふと、その大きな部屋の奥にもう一つ、ドアがあるのが見えた。


 クローゼットだろうか。これも沈んだ時の水圧で外れたのか、ドアは半分外れて、残った蝶番でぶら下がっている。


 中を覗いてみると、壁面には作りつけられた棚の痕跡があり、少し広いクローゼットのようだった。手前の部屋から流されてきたとも思えないが、その狭い部屋にはなぜか寝台があった。船は沈みながらゆっくりと横転したのかもしれない。寝台は狭い床と、今は下方にある壁面に脚をのせて、傾いではいるものの、上下を保っている。


 その寝台に腰掛けている男がいた。


 亡霊であるのは間違いないが、今まで見たどの亡霊たちよりもはっきりと生きていたころのままの姿で、長い脚を広げて座った両膝の上に肘を置き、背を丸めて、微動だにしない。


 彼の目線の先に、堆積物に覆われた微かな膨らみがある。彼は死んでしまった自分を見つめているのかもしれなかった。身体はとうに海の生き物たちが食べてしまい、骨ももうほとんど、深海の水に溶けてしまったのだろう。肉体のあったと思しき場所から伸びる太い鎖が、その傍でまだ、とぐろを巻いている。


 姿のある亡霊たちは真っ黒な人影のような形を忘れるまで水底を彷徨い、苦しみの音を発しているものだった。彼らは死んでからまだ日が浅いに違いない、と深海の姫は考えていた。彼らもやがて苦しみが洗い流され、輪郭がぼんやりと薄れ始めて、苦しみの声も小さく、静かになる。そのまま軽くなって、水面を目指して昇っていくものもあれば、水に溶けたままぽつりぽつりと、話を始めるものもあるのだろう。


 この亡霊は、今まで見たどんな亡霊たちとも違っていた。生きていた頃の姿のまま静かに、ただ座っている。深海の姫はそっと彼に近付いた。


 彼は身じろぎもしなかった。切り揃えられた濃い色の前髪だけが、深海の姫が近づいて動いた水の流れにふわりと揺れた。人間の美醜を深海の姫は知らないが、この亡霊はシャチの王子を思わせるところがあった。


 いつものように、明るいところまで導いてやれば、彼も昇っていけるのだろうか。深海の姫はそうしてやろうと思ったが、少し惜しくも思われた。


 そしてそう思った瞬間、はっとした。


 好んでこの深い海の底にたった一人で棲んでいるのに、それでも寂しかったのだと気付いた自分に呆れて、さっさと彼を船の外へ、明るい場所へ連れて行ってやろうと決めた。


 アンコウの灯りが青ざめた彼の顔を照らしている。


 赤みを帯びた茶色の眼は、何も見てはいない。太陽の光の似合う目の色だっただろう。


 彼の足首には、もう跡形もない彼の体を繋いでいた鎖があったが、深海の姫が触れると消えてしまった。無防備な彼の素足が不思議だった。そういえば卵の中にいた頃には自分にもこんな足があったのだと思い出すと、愛おしくさえ思えた。海の中では、なんと無力な形だろう。触れてみると、存外に骨が大きく感じられる。


 男を見上げてみると、肩幅も広く、身体の厚みもある。シャチの王子が人間だったら、こんな感じだろうか。


 ふと、魔が差した、としか言いようのない瞬間があった。


 こちらを見もしない茶色の眼に吸い寄せられるように、深海の姫は伸び上がるように少しだけ浮かんで、彼の唇に自分の唇を重ね、冷たいキスに海の命をほんの少しだけ乗せて、吹き込んだ。


 男の睫毛が揺れた。


 切れ長の目が数度、ゆっくりと瞬きを繰り返し、やがて茶色の眼が焦点を結ぶ。


 深海の姫は、人間の美醜を知らない。けれど、王の図書室で見た写真や絵画に、自分のような容姿の者がいないことを知っていた。他の王の子なら、人間の脚があれば美しい人間に見えただろう。


 宮廷の貴婦人たちを気味悪がらせる自分の容姿が、人間の目から見ても美しく映るとは思えなかった。


 しかし深海の姫を見た男は、微笑んだ。


 唇が緩く弧を描き、アンコウの微かな光にきらめいた茶色い目が細められたのを見て、深海の姫はさっと身を引いた。男はつま先で軽く床を蹴って浮かび、腕を伸ばして、後ずさった姫の身体を捕まえた。大きな手が深海の姫の頬を包み、長い指が確かめるように彼女の頬を撫でた。亡霊とはいえ、アンコウの弱い灯りくらいでは、人間の目では何も見えないのかもしれない。


 船の外へ導くために、その手を取ろうとしたとき、男の腕がするりと深海の姫の細い腰を抱き寄せた。


 逃れる間もなかった。


 男の片腕はしっかりと深海の姫の腰を抱き、もう片方の手で頭を支えて、唇を重ねた。


 一度。二度。


 触れるだけの人間のその行為が愛を確かめるものであることを、姫は本で読んで知っていた。


 どうして彼が彼女にこんなふうに触れるのか、深海の姫には理解できないのに、唇を離した彼が彼女の頬を撫でて微笑みながらそっと見つめてくれた時、例えそれが何かの間違いであったとしても、本の中の出来事としてしか知らなかった人間たちの愛というものに、触れたような気持ちになった。


 それでも死んだ男は、次の命へ巡って行かねばならない。


 深海の姫は胸の奥底が、きゅう、と絞られているような気がしたけれど、彼の手を取り、船の外へと泳ぎ始める。彼は大人しく彼女についてきた。思ったよりも彼は泳ぐのが上手く、彼女が気を使わなくても、ドアに引っかかったり、折れた柱にぶつかったりはしなかった。


 船の外に出ると、深海の姫はアンコウの背を撫でた。


―お前は深いところにいてね。私は彼を、上へ連れていくから。


 アンコウが彼女の言葉を理解するかどうかはわからなかったが、そう言ってやると、アンコウは餌を探す気にでもなったのか、ふい、と彼女から離れて泳いでいった。


 深海の姫は手を繋いだ男を振り返り、上を指差して見せた。彼は素直に、彼女の差した方を見上げている。


 その手を引き、上へと昇ってゆく。


 やがて、水面の輝きが頭上一面に現れた。深海の姫がもう一度彼を振り返り、水面を指差すと、男はさっと表情を曇らせ、首を横に振った。


 深海の姫は首を傾げて手を引いたが、彼は抵抗した。


―行きたくないの。


 聞いてみたが、彼に彼女の声が聞こえているのか、或いは言葉が通じるかもわからなかった。人間の言葉も幾つか試してみたが、男は首を横に振るばかりだった。


 そうしているうちに男の抵抗の力がふと抜けて、二人は再び、ふわりと上昇しはじめた。深海の姫が覗き込むと、男の目はもう、何も見ていなかった。ほんの少しだけ彼女が吹き込んだ海の命が、尽きたのだろう。


 彼女は目を逸らし、もう少し上へと急いだ。


 いつもであれば、亡霊たちは光に誘われるようにすうっと昇っていってしまうか、光に触れて消えてしまう。けれど彼は姿を保ったままで、ぼんやりと海の中で漂っていた。差し込んだ太陽の光が柔らかな茶色の瞳を照らしても、その目はもう、何も見はしなかった。


 これ以上どうして良いのか、深海の姫にはわからなかった。それでもきっと、海の水が骨を溶かすように、太陽と月の光が時間をかけて彼を連れていってくれるだろう。


 深海の姫は男の手を離した。


 深い海の底へと帰るためにじっと沈んでゆきながら、姫が手を離した時のまま、そこにゆらゆらと漂う男の亡霊の姿を、深海の姫はその真珠のような目で追える限り、見つめ続けた。

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