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5. 声を聴くもの、物語るもの

 無数の声が響く中から特定の声を聞きとるのが、末の姫はいつの間にか上手になった。


深海の底の砂地は優しく柔らかく、水は穏やかで昏く、ただあの声たちに集中するのに相応(ふさわ)しかった。光の差さぬ場所でも、末の姫の真珠のような眼には不自由がなかった。


 あてもなく深い海を彷徨(さまよ)えば、時折彼らの淡い姿を見ることもあった。人間たちの書き残した言葉を借りるなら、亡霊と呼べるだろう。


 亡霊たちのうち、深く昏い水よりもほんの少し明るい人影のような者たちが、ぼんやりと静かに岩に腰掛けているのを見かけると、末の姫は彼らの手を引いて、水面の方へと導いた。大抵、少し明るいところまで連れて行ってさえやれば、光が差す方へと、誘われて昇っていく。きっと、それで次の命へと巡っていくことができるのだろう。


 深く昏い水よりも更に暗い闇を纏う者たちに出会うこともあったが、どうしたことか、末の姫には彼らが少し恐ろしかった。彼らは意味のある言葉を発することはなく、悲鳴や苦しみの音だけを漏らすからかもしれない。近くにいるだけでその苦痛が身の内に染み込むようで、末の姫は彼らを恐れ、避けるようになった。


 やがて末の姫は、そうした姿を目にする亡霊たちが、慣れ親しんだあの声たちの正体ではないことに気付いた。声の出所を探してみたこともあったが、何かが見えることはない。


 王は彼らのことを、深い海の底で何もかもを忘れて、洗い流されるのを待っているのだと言った。


 深い水よりも重く昏い苦痛が少しずつ溶け、水と同じ比重になってはじめて、身の内に貯めこんだ言葉が溶け始めるのかもしれない。海の生き物たちが姿かたちを変えながら成長するように、彼らも形を変えるのかもしれなかった。


 ある時、遠くでイルカの歌が聞こえた。幼い頃を思い出して懐かしく思えたのは、死んだ人間たちの感傷に、馴染んでしまったからだろうか。


 末の姫は久しぶりに、光の見えるところまで昇ってみることにした。イルカの歌は、徐々に近付いているようだった。二頭のイルカが歌い交わす旋律も言葉も末の姫にはわからなかったが、ただもう少しだけでも近い場所で聞きたくて、もう少し、もう少しと昇っていった。


 その時、上から声が響いた。


―やっと見つけた。


 それから、勢いよくぶつかるように抱きしめられた。


―イルカの姉様。


―ふふ、随分探したわ、かわいい妹。


 私とイルカの王様に探せない場所はないの、とイルカの姫は誇らしげに言った。近くでイルカの王が歌い、姫が返事をした。やがてイルカの王が降りてきたので、末の姫は初めて姉の伴侶に出会うことになった。


 イルカの王は群れの他のイルカたちよりも二回りほど大きく、純白だった。


 彼はかつて、その色のために群れから追い出されたが、放浪の旅の途中に海の王と出会い、その庇護を受けて暮らしていたとき、イルカの姫と出会った。


 そうして、海の王の御前で彼女と互いに愛と信頼を誓い、イルカたちの王となったのだった。


―はじめまして、王様。


 末の姫がお辞儀をすると、イルカの王はくるりと宙返りで応えた。


―蛸の姉様にここだと教えてもらって、私たちでも深い海へ潜れるように魔法をかけてもらったのだけど、この海溝は世界で一番広くて深いのだもの。


 ああ、会えてよかった、とイルカの姫はもう一度妹を抱きしめた。


―あなたに本を持ってきたの。全部ってわけにはいかないから、綺麗で傷んでいないものだけ選んできたわ。お父様の魔法がない場所では、すぐに崩れてなくなってしまうから、できるだけ早く読んでね。


 そう言って、長い海藻で背中に括りつけていた包みを、末の姫に渡した。


―ありがとう。本なんて、久しぶり。


―ついでだから。あなたが読めば役に立つけれど、私たちにはただのゴミでしかない。本は無害だけれど、最近は生き物たちを傷つけるようなゴミが多くて。


 そう言って、イルカの姫は表情を曇らせた。


―人間たちのことは私たちにはわからないけれど、なんだか、


 イルカの姫は一度黙って、言葉を探した。


―海のことなんて、どうでもいいみたい。


―そんなことはないはずだけれど。


 末の姫は思わずそう言ってしまった。少なくともみんながそうじゃない、と言い足すと、イルカの姫が目を丸くした。


―そうだわ。ねえ、彼らのお話をして。私たちも彼らを知りたいの。


 末の姫は躊躇った。


―お父様は、望まないのでは。


 イルカの姫は声を上げて笑った。


―そうね。でも、私が愛しているのはイルカの王と、群れのみんなと、イルカたちと、お父様と兄姉たちと、海の生き物たち、海に属するものたちだけだわ。


 イルカの姫は笑うのをやめた。


―お父様がね、あなたに人間たちの言葉を教えたのも、文字を教えたのも、私にはとても不思議だった。


―それは、姉様の上の姉様のことがあったから?


 末の姫が聞くと、イルカの姫は頷いた。


―私が陸に、人間たちに興味を持つのを、お父様は何より嫌がった。今ならわかるの。好奇心の強い若いイルカたちの中には、人間たちに近付きすぎて怪我をしたり、捕らえられて帰ってこないものもいる。


 上の姉様のこと、蛸の姉様に聞いたのね、とイルカの姫は言った。


―お父様はどうして、あなたに人間たちのことを教えたのかしら。


―生きた人間に興味はないから。


 末の姫は一度口を閉じ、決心したようにこう言った。


―私には、死んだ人間たちの声が聞こえる。彼らの魂が何もかも忘れられるように、静かな深い海はただ、彼らを受け入れているの。


 イルカの姫はその言葉を咀嚼するように、ゆっくりと瞬きをした。そして、頷いた。


―ねえ、人間たちの話をして。私が彼らを憎まなくていいように。


―姉様は、人間が嫌いなの。


―人間たちのしたことで、色んな形で、海は傷ついているのよ。好きではないわ。


 イルカの姫は辛そうに目を伏せた。イルカの王が背後から彼女に頬を寄せた。大丈夫だよ、と言い聞かせるように。


―海で死んだ漁師の話をしましょう。


 末の姫は目を閉じて、耳を傾けた。その男の声は繰り返し、彼女の耳に届いていた。


―彼は物心ついた頃から、彼の父の船に乗っていた。彼の父が老いてからは、一人で船に乗った。老いた父は海へ出る彼に、いつも言った。海に感謝しなさい、我らは海に生かされている。海を畏れなさい、我らは海に生かされている。海を侮れば、一瞬で命をとられてしまう。海の怒りを招けば、我らなど一瞬で滅ぼされてしまう。


 イルカの姫は傍にいた王の体に腕を回して身を預け、妹の語る物語に耳を傾けた。


―彼は腕の良い漁師だった。獲った魚で生活し、父の教えた通り、食べられない魚は海へ返した。やがて彼は結婚し、妻と子供をもうけて、愛する二人を養った。朝漁に出て、昼には戻り、夕方には網や釣り道具、船の手入れを怠らなかった。


 末の姫は目を閉じた。


―それでも、不幸な偶然は起こるもの。海で人は生きられぬもの。彼の船は突然の嵐に遭って沈んだ。彼は最後まで諦めなかった。壊れた船の切れ端にしがみつき、荒波に何度も投げ出されたが、嵐が終わることを疑わず、耐え続けた。終わらない嵐はないことを、彼は知っていたから。


 末の姫が口を閉ざし、イルカの姫と王は続きを待った。


 やがて、嵐が終わるのを待っていたかのように、末の姫が口を開いた。


―そして果たして、嵐は過ぎた。彼は船の残骸に体を預けて、穏やかになってゆく波に揺られていた。けれど、陸は遠かった。嵐が彼をどこへ運んだかも、皆目見当はつかなかった。彼の命は尽きた。海で人は生きられない。彼の体は水の中で朽ちて、魚や小さな生き物に食べられて、次へと命を繋ぐだろう。


 末の姫は瞼を上げた。真珠のようなその眼は、遠くを見ているようだった。


―彼は海の底で、後悔している。妻子にもっと愛を伝えておけばよかったと。海の男たちは、言葉を口にしたがらない。波はいつでも、彼らの弱みを握ろうと聞き耳を立てているから。漁師たちの間では、そんなふうに言われていた。そんな言い伝えなど、信じなければよかったと。


 イルカの姫は、ぎゅっと王を抱きしめた。遠い目をしたまま、末の姫は語り続けている。


―彼は海の底で、嘆き続けている。妻はまだ自分の帰りを待っているだろうか、もう誰かと再婚しただろうか。幸せでいるだろうか、幸せでいてくればそれでいい、幸せでいてくればそれでいいと思えない自分を許してくれ。いいや、許さなくていい。帰って来なかった自分をいつまでも恨んでくれればいい。忘れてくれるな、……いや、もう忘れてくれ。


 末の姫はそっと目を閉じて首を傾け、聞こえてきていたその声を探しているようだったが、口をそっと閉ざし、やがて目を開けた。


―もう、彼の声は聞こえなくなってしまった。


―王が。


 イルカの王がするりと姫の腕から抜け、二人の上をぐるりと巡りながら、高く鳴いた。


 一度、二度、長く。


―仲間が死んだ時の歌で、彼を悼もう、って。


―ありがとう、と伝えて。彼にはもう誰の声も届かないけれど。彼らに私たちの声は聞こえないの。でも、彼の物語を聞いてくれただけで、きっと充分だった。


―どうして、彼の話を私にしてくれたの。


 イルカの姫が聞くと、末の姫は言った。


―彼らは誰も聞かなくても話し続けるけれど、本当は聞いてほしいのだと思う。さっきは彼の声がはっきり聞こえて、まるで、あなたに向かって話して欲しがっているみたいだった。それにあなたたちなら、彼の物語を聞いてくれると思ったから。


 そう、とイルカの姫は微笑んだ。


―また本を持って来るわね。あなたがどこにいたって、探してみせるから。


―無理はしないで。でも、姉様の歌を聞いたら、明るいところまで出てきてしまうかもしれない。今日みたいに。


 イルカの姫は嬉しそうに笑った。


―探すときは、あなたのために歌うわね。


 そう言って、ふわりと明るい方へと昇る。


―そうだ。


 イルカの姫は振り返った。


―あなたのこと、シャチの兄様が深海の姫、って呼んでいたわ。私のかわいい深海の妹。またね。


 イルカの姫が手を振り、深海の姫が手を振り返した。


 イルカの王と姫が明るい方へと、くるくると楽しげに、二つの螺旋を描いて昇ってゆく。


 それを見送りながら、深海の姫はただ沈むに任せてゆっくりと、彼女が棲むと決めた深い深い海の底へと、戻っていった。

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