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4. 蛸の姫



 末の姫の尾は、泳ぐのに向いていない。


 あてもなく、遠くへ行こうと決めたが、少し進んでは休み、少し進んでは休み、を繰り返すしかなかった。そうして数日が経って振り返ると、海中に聳える王の背中が、まだ見えるのだった。


 末の姫は辛抱強く泳いだ。


 イルカの姫や、せめて鰯の王子のような尾であれば、もっと速く、もっと遠くまで行けただろう。或いは、海月の姫のように海流に乗れば、もっと簡単に泳げただろう。けれど、暖流は賑やかで気が引けた。それに、末の姫は図書室で人間たちの書いたものばかり読んでいたために、海の中の事物にも、地理にもあまり明るくなかった。


 それでも、末の姫は自分の泳げる速度で、宮廷から遠ざかるしかなかった。やがて気づいた時には、連なる岩陰に隠れて父の姿はすっかり見えなくなり、ある程度、宮廷から離れることができたのだろうと思われた。


 末の姫は、深い海へ行こうと思っていた。王からは本を読むための光を授かったけれど、本すらも落ちてこないような、誰もいない、深い場所を探そうと心に決めていた。どこにいてもあの声たちは、遠く近く、末の姫の耳に嘆きを語り続けていたから、本がなくても構わない。


 宮廷からはるか遠くまできた頃、待ちなさい、と末の姫に呼びかける声があった。


 その声がどこから響いているのかも分からず、末の姫は辺りを見回した。背の高い海藻の生い茂った森の中で、ともすれば太陽の光ごと方向を見失ってしまう。辺りを見回したせいで、来た方角すらわからなくなってしまった。


 仕方なく適当な方向へ進みはじめたところで、どこへ行くんだい、という先ほど聞こえたのと同じ声が聞こえるや否や、長い尾の先を吸盤のついた脚にしっかりと掴まれ、ぐいと引き戻された。


―蛸のお姉様?


 末の姫には尾を掴んだ脚の先しか見えなかったが、確信があった。


 背の高い海藻の隙間から、脚の主のもとへと引き寄せられた。


 濃い赤褐色で、白い吸盤のついた長く大きな蛸の脚の先には、赤褐色の肌の豊かなからだつきの上半身が続き、赤紫色の長くうねる髪の間から、大きな金色の眼が末の姫を見つめている。


―やっと捕まえた。お前は真っ直ぐ進めないのか。


―真っ直ぐ進んでいたつもりなのだけど。


―お前の前方がいつでも前とは限らぬと、教わらなかったのか。


 呆れたように、蛸の姫は泡を吐いた。


―まあ良い。おいで。


 掴んでいた末の姫の尾の先を離すと、くるりと蛸の姫は背を向けさっさと泳ぎ始めたので、末の姫は慌てて姉を追いかけた。


 蛸の姫は八本の脚で、優雅にうねるように海底を泳いでいく。見た目よりもずっと速く、末の姫には追い付くどころか、見失わぬように付いて行くこともできなかったが、蛸の姫は何度も戻ってきては、末の姫が来るのを待ってくれた。


 背の高い海藻の森が濃い緑から金色に変わり、やがて岩場に変わる。立ち止まった蛸の姫は、突然足元の岩の隙間へと体を滑り込ませた。


 末の姫はしばらく戸惑ってから、蛸の姫を真似て岩の隙間へ手を入れ、ぐっと頭を突っ込んだ。思ったほど狭くはないが、泳ぎにくいことに変わりはない。戻ってきてくれたらしい蛸の姫は、末の姫を見て微かに笑った。


―悪かったよ、その尾では泳ぎにくいだろう。引っ張ってあげるから、引っ掛からないように気をつけなさい。


 そう言って、蛸の姫は八本の脚の一つで末の姫の手を掴み、岩の隙間を下へ下へと降りていく。ゴツゴツとした岩肌は滑らかではなく、藻類に覆われていなければ末の姫の尾を傷付けただろう。蛸の姫は時折妹を振り返りながら、ゆっくりと降りて行った。


 突然、広い洞窟が現れた。水の流れがある。


―奥に湧水があるんだ。潮が薄いから、当たりすぎないように気を付けて。辛かったら言いなさい。


 末の姫は曖昧に頷いた。


 洞窟には小さな蛸や蟹や海老、光る烏賊たちが沢山いるらしく、戻ってきた蛸の姫に構って貰おうと、岩陰から次々に姿を現した。


―お前たち、今日はお客様がいらっしゃるから、後でね。


 蛸の姫は、末の姫を振り返った。


―尾や鰭をつつかれたら言いなさい。蟹や海老たちは、言い聞かせてもすぐ忘れてしまうんだ。


 末の姫は頷いて、長い尾を手繰り寄せた。それを見て、蛸の姫は声を上げて笑ったので、末の姫は自分の尾を抱いたまま、目を丸くして驚いてしまった。


―ごめんごめん。そんなに怖がらなくても大丈夫。


 蛸の姫は滑らかな岩の窪みに居心地良くおさまって、さて、と末の姫を見つめた。


―お前が孵化したとは聞いたけれど、私は宮廷が嫌いでね。


 末の姫は頷いた。鰯の王子の言っていた通りだ。


―けれど、お前がこんなに早く出て行くとは思わなかったよ。


 お前も、お父様を捨ててしまうんだね、と蛸の姫が呟いたので、末の姫は弾かれたように彼女を見た。


―お父様はね、寂しがりなんだ。だから王の子は生まれる。


 蛸の姫は持ち上げた脚に肘をつき、ぷかりと泡を吐いた。


―責めてはいないよ。私だって、お父様から離れた。


 そうするのが正しいと思ったんだろう、と蛸の姫が言い、末の姫は頷いた。


―私が授かった使命は、お父様にはふさわしくないから、私だけのものにしてもらおうと思ったけれど。


―それはできないね。海は分けられない。


 蛸の姫は頷いて、髪をかき上げた。


―海は、分けられない。


 末の姫が繰り返すと、そう、と蛸の姫は頷いた。


―命を生み出すのも、奪うのも、それから巡らせるのも、全て海。お父様は海を守る者であり、海そのものであらせられる。だから寂しいんだ。誰も、お父様と対の存在にはなれない。王の子にできるのも、王と海の一部を分かち合うことだけだ。


 蛸の姫は一度黙り込み、末の姫を見て目を細めた。


―お前を見ていると、思い出す子がいる。


 全く似ていないのにね、と蛸の姫は首を傾げて黙ったが、昔、ともう一度、話し始めた。


―イルカの姫の生まれる前に、もう一人、王の子がいた。優しくて愛らしい、綺麗な子でね。歌も踊りも上手で、王はその子に夢中だった。


 蛸の姫はきゅっと眉を寄せた。


―でも、その子は人間に恋をして、陸へ行きたいと望んだ。王は許さなかったけれど、私が彼女に魔法を授けた。そのせいで、結局その子は海の泡になって消えてしまった。


―そのせいで?


 末の姫が聞き返した。


―人間になる魔法は、代償が大きかった。


 いいや、と蛸の姫は首を振った。


―いなくなればいい、と思ったんだ。私が。あの子が。


 蛸の姫は俯いて、呟いた。


―王の傍にふさわしいのは、ああいう子だったのにね。


―でもその子も、王を捨てた、のでしょう。


 末の姫が言うと、ああ、そうだね、と蛸の姫は頷いた。


―さあ、もういいだろう。お前を捕まえたのはね、


 蛸の姫は誤魔化そうとでもいうように、急に冗談めかしてにやりと笑った。


―食ってやるため、ではなくてね。あんまりにも移動が下手だから、少しだけ教えてやりたくなったんだ。


 蛸の姫は末の姫に、太陽や月の光と影を使って、方角を知る方法を教えた。海水と真水の違いや、湧水だけでなく毒のあるガスが噴き出る場所のこと、もっと深い海のある場所への行き方も。


―もう少しここに居てくれれば、潮の読み方や大体の地理も教えてやれる。海で一人泳いでいくには必要な知識なのに、宮廷では誰も教えなかったのかい。


 お父様も、という言葉を、蛸の姫は飲み込んだ。


―深いところへ行ったら、もう二度と出てこないつもりだから大丈夫。


 末の姫はそう言って頷いたので、蛸の姫は少し呆れた顔をした。


―まあいいか。もし本当に何かあったときは、お父様を呼ぶだけでいい。この海にいる限り、お父様に抱かれて守られているのだから。




 末の姫は蛸の姫と別れ、教えられた方向へ向かってひたすらに泳いでいった。


 広く何もない砂地の海底が続き、あまりに広くて心細くなった頃、蛸の姫が言った通り海底が岩場に変わり、突然その岩盤が途切れて断崖絶壁が現れた。対岸は遥か遠くに霞み、下に広がる海の深さは測り知れない。蛸の姫も、一番底まで降りたことはないと言った。


 末の姫はふわりと深みの上へ泳ぎ、力を抜いた。


 もう、泳ぐ必要はない。沈むままに、沈んでいけばいい。


 目を閉じると、それまで進むのに一生懸命になっていたせいか、気にならなくなっていたあの声たちが、急に大きく聞こえた。あの声は深みの底から響くようで、沈んでゆく末の姫の身体を包むようだった。


 深い場所を目指したのは正しかった、と末の姫は思った。世界で一番深くて暗い場所に、あの声たちは沈んでいるに違いなかった。


 悲しみを身体いっぱいに聞きながら、末の姫は今までに感じられなかったほどの、安らかさを感じた。


 ただ悲しむだけの彼らと、ただ聞くだけの彼女は、違うようで似ている。寿命ある身体を失った魂だけの彼らと、初めから命を持たない、無限である彼女は、違うようで似ていた。


 ここでなら生きていける、と末の姫は目を閉じたまま、深い海を、どこまでも、どこまでも沈んでゆく。

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