3. 独り立ち
鰯の王子が、自分の使命に気付けたら一人前、と言ったのは正しかった。
その夜を境に、急激な成長が始まった。幼かった末の姫の面差しは大人びて、腕は長く伸び、元々肉付きの悪かった体は成長に追いつけなかったかのように、骨格が目立った。初めから長かった尾は今や身体の三倍近くまで成長し、宮廷の貴婦人たちを、より気味悪がらせた。
夕暮れ、孵化して以来、ほとんど図書室を出ることのなかった末の姫が、宮廷の王の御前に姿を現した。奇妙なほどに長い尾、艶のない、白く青ざめた頬、似つかわしくないほどに長く鮮やかな朱色の髪と薄い鰭、触手のように細く伸びる朱い腹鰭のアンバランスさに、貴婦人たちは眉を顰め、距離を置いた。
王は色とりどりの海藻に彩られて海底に聳える巨岩を玉座としていたが、末の姫の姿を認めると立ち上がり、彼女の方へ歩み寄った。
―すっかり大きくなってしまったね。
王は微笑んだが、末の姫は顔を上げることができなかった。
王は寂しそうにしているだろうと確信していたし、それに心を痛めてもいたが、自分のような醜い娘に、どうしてそれほど心を割いてくれるのか。人間たちの書き遺した書物を読み漁った彼女は、それが愛というものなのだと理解していたが、自分の身に起きることとしては、わからないでいた。
―お前も、行ってしまうのかい。
随分、急いで行ってしまうんだね、と王は言った。
―許可をいただきに、参りました。
―私には止められないよ。
王は笑った。顔を見なくても、寂しいのだとわかるような笑い方で。
―もうすっかり大人になったね、おめでとう。私から、贈り物をさせて欲しい。
王は三つ、贈り物をしようと言った。
一つ目は、王の腕輪を一つ。
二つ目は、王の魔法を一つ。
三つ目に、姫の願い事を一つ。
―まずは、私の腕から好きな腕輪を一つ、取りなさい。お前を守ってくれる腕輪だ。私に繋がるものだと思って、決して外さぬように。
末の姫は、差し伸べられた無数の腕の一つから、細い銀の輪に朱い石の嵌ったものを選んだ。選ばれた腕輪の嵌まった王の腕が、姫の細い腕にそれをはめてやり、愛おしげに撫でると、腕輪は姫の腕に沿って締まり、初めからそこにあったようにしっくりと馴染んだ。
―次は、お前がこれから暮らしていくのに必要な魔法を一つ、選びなさい。
末の姫は少し考えて、暗い場所で本を読む光を、と言った。王は姫の手を取ると、背を屈めて口付けた。
―これでお前のこの手は、海の何処にいても、その場所にふさわしい光を呼ぶことができる。
王は微笑んで末の姫の手を離し、体を起こした。末の姫はようやく王を見上げて、急に王が遠くなったように感じた。
―最後に、お前の願いを一つ、叶えてあげよう。
末の姫の心は決まっていた。
―あの声を、私だけに聞こえるように。お父様が、もうあの声を聞かなくて済むように。
王は答えなかった。玉座とした巨岩のように動かず、ただ豊かな髪が、魚たちの作る水の流れに揺れるばかりだった。末の姫にとっては、随分長い時間が過ぎたように感じた。
やがて、王は数多の腕を差し伸べて、末の姫を抱き寄せた。
―お前とだけ分かち合える、ただ一つの秘密を、私から奪わないでおくれ。
王はごく小さな声で、末の姫へと囁いた。姫は躊躇って、こう言った。
―何もできない私が、たった一つ、引き受けられる使命なのです。
―分かち合ってくれれば、それでいいんだ。私だけが受け止めねばならないのだと思わなくていいだけで、私はお前の存在に助けられる。
―でも。
―私は海そのものだ。だから、あれをすっかり手放してしまうことは、できないんだよ。
何か他の願い事を、と王が言うと、末の姫は目を伏せた。
―お父様をあの声から自由にしてさしあげることだけが私の望みで、たった一つ、お父様のお役に立てるかもしれないことでした。
王はそっと、末の姫から手を放した。
―それでは、願い事はとっておきなさい。お前に、どうしても叶えたい願いができる時まで。
いつでも帰っておいで、と王は言った。
末の姫は深く礼をして、生まれて初めて、たった一人で王のもとを離れ、遠く、深い海を目指して、泳ぎ去った。